シリーズ幸いに生きる11                         2013/11/24
『まことの幸いに生きる』
                               詩篇1:1-6

 11月も今週で締めくくり、来週の日曜日からは12月、御子イエス・キリストの御降誕を待ち望むアドベント、待降節を迎えようとしています。時代はますます混迷を深め、私たちの行く道も先の見通せない混沌とした闇の中に向かっています。それでもまことの光なる主イエス・キリストにある希望をともしびを高く掲げて歩むお一人一人であっていただきたいと切に願います。この朝も、主によって愛されて招かれた皆さんの上に、主の豊かな恵みと祝福がありますように祈ります。

(1)幸いな人とは誰か
 今年の7月から「幸いに生きる」というシリーズで、マタイ福音書5章に記された主イエス・キリストの幸いの教え、祝福の言葉に聞いて来ました。そこで語られた幸いとは、地上の幸いを越えた神の国の幸い、神の民として生きる祝福の言葉でした。私たちはこの地上に生きつつも、すでに神の国の民とされ、神の国の価値観に生きるものとされた。そこでは私たちの幸・不幸の基準、祝福と災いの基準も新しくされ、神の国の幸いと祝福に生きる者とされている。その現実を主は私たちに示してくださいました。今日でこのシリーズを終えるにあたり、もう一度旧約聖書にさかのぼって、「まことの幸いに生きる」人生がどのようなものであるかを教えられていきたいと願っています。
 そこでこの朝、開かれているのが旧約聖書の詩篇1篇の御言葉です。1節から3節。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ」。ここで冒頭に言われる「幸いなことよ」との賛美の言葉が、マタイ5章で主イエスが言われた「幸いなことよ」との祝福の言葉に流れ込んでいるのですが、それでは「幸いな人」とはどのような人なのでしょうか。詩篇の言葉で言えば、それは「水路のそばに植わった木のよう」な人ということです。別の翻訳では「流れのほとりに植えられた木」とあります。この言葉のイメージの背景には、あの創世記2章に記された四つの川によって豊かに潤される「エデンの園」と、そこで主なる神との親しい交わりに生きる最初の人間の姿、主なる神のもとに絶えずとどまり続け、神との交わりの中に生きる人の姿です。
 それは消極的には「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」と言われるのですが、この「歩む」、「立つ」、「座る」というのは主なる神から離れ、罪の方へどんどん突き進んでいく人間の姿を表していると言われます。まさに罪とは神から離反であり、神に背を向けて離れ去っていくことであり、それは神からの自由のように見えて、実はまことの幸いを失い、まことの自由を失い、罪と悲惨の中に生きるほかない姿です。私たちを愛してやまない神のもとから離れ去っていくのではなく、むしろこの神の愛の中にとどまり続けること。それこそがまことの幸いに生きる道なのです。
(2)主の教えを喜ぶ人
 さらに詩篇は、まことの幸いに生きる人は「主の教えを喜びとする」と言います。主の教え、生ける神の御言葉です。ここでも私たちは創世記を思い起こしたいのですが、3章ではじめの人アダムとエバが罪の中に陥っていった姿を思い起こしましょう。アダムとエバはなぜ蛇に唆されて神の戒めに背き、罪の中に堕ちていってしまったのか。一言で言うならば、彼らは「喜べなかった」ということでしょう。最初の人アダムとエバは、主の教えを喜べなかった。彼らはその言葉に込められた神とともに生きる人生を喜べなかった。そして何よりも神御自身を喜べなかったのです。彼らにとって「園のどんな木からも思いのまま食べてよい。しかし園の中央に善悪を知る知識の木からはとって食べてはならない」という言葉は、自分たちの自由を狭める言葉に聞こえたのでしょう。主の寛大なお取り計らいにも関わらず。そして彼らはそんな了見の狭い神と生きることが息苦しくなったのでしょう。「あなたたちの目が開かれて神のようになれる」との蛇の唆しを真に受けて、主なる神の命令に反して木の実をとって食べてしまう。彼らは神御自身を喜ぶことなく、自らが神のようになろうと思い上がったのです。その結果、彼らのもとにやって来たのは何だったでしょうか。「神のようになれる」どころか、そこにやって来たのは罪と死の悲惨だったのです。
 しかしまことの幸いに生きる人は、神のことばを喜ぶ人です。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」と主イエスが言われたように、神の言葉は、私たちを縛る奴隷のくびきではありません。主なる神御自身を喜び、神とともに生きることを喜び、神にあって作られた世界を喜び楽しむことができる、そのような新しい生をもたらすもの、それこそが主の教え、神の言葉の力です。私たちが神の言葉を喜んで生きるとき、罪と死の悲惨に代わって、罪の赦しと新しいいのちが私たちにもたらされるのです。まことの幸いに生きる人。それは神の言葉をさばきの言葉、律法の言葉、くびきの言葉として聞くのではなく、私たちに自由を与え、神の愛に応答し、神の造られた世界を喜び、感謝して生きる人であり、神の言葉は、エデンの園の祝福にまさる神の国の祝福に生かす力あるものなのです。

(3)昼も夜も口ずさむ人
 さらに詩篇は、主の教えを喜ぶことをさらに進んで「昼も夜もそのおしえを口ずさむ」と言い表しました。この「口ずさむ」という表現に注目したいのです。詩篇35篇28節では「私の舌はあなたの義とあなたの誉れを日夜、口ずさむことでしょう」と歌われ、同じく37篇30節では「正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる」とあります。さらに63篇6節では「ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います」と語られます。そして119篇97節。「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」。このように「口ずさむ」という言葉は、時には「思い出す」、「思い巡らす」とも言われ、「黙想すること」、「瞑想すること」をあらわす「メディテーション」に繋がるような言葉です。
 ただし「黙想」、「メディテーション」というと口を噤んで黙って思い巡らすという沈黙のイメージがありますが、むしろここでは繰り返し繰り返し神の御言葉を声に出して読み、唱えるという、まさに「口ずさむ」ことが大切にされているのです。京都大学名誉教授の水垣渉先生がキリスト教の霊性の歴史についての講演されたものが小さな書物になっているのですが、その中で先生が古代教会の教父たちがこの「口ずさむ」を家畜が草を反芻する動作と重ね合わせて理解していたと言っておられたのが印象的でした。御言葉を小声で何度も何度も唱え繰り返しながら、それによって御言葉を味わい、反芻し、そうして御言葉を身体に染みこませていったのです。そうやって私たちが神の言葉に生かされていく。聴いた言葉を昼も夜も反芻し練りはんで、御言葉が私の身体の中にまさしく血肉化していく。神の言葉によって私たちの身体が福音的に作り上げられていく。そのような歩みを通して、私たちはまことの幸いに生きる者とされていくのです。
 今年の新しい取り組みとして、月の最後の日曜日の礼拝後にシェアリングタイムを始めました。はじめてよかったなと思います。皆さんが聴いた御言葉を分かち合う姿は説教者として喜びを感じる時です。まだ何を話して良いか分からない、ちょっと苦手だと言う方もおられると思いますが、ぜひその交わりの中に身を置き続け、そこで分かち合われる言葉に耳を傾けていただきたいのです。しかし時には御言葉がなかなか心の中に入ってこないという時があるかも知れません。そんな時はどうしたらよいのか。ルドルフ・ボーレン先生の説教の中でこんなことが語られていました。「もしあなたが神の御言葉を少しも楽しむことができなかったとしたら、どうしたらよいのでしょうか。聖書が興味を惹くことなく、説教を聞いても早く終わらないかと時計を見るばかりであったとしたら、どうしたらよいのでしょうか。そういう場合に、あなたは霊的意味で食欲不振に苦しんでおられるのです。・・・あなたが食欲不振のキリスト者になってしまっておられるならば、無理矢理いでも食べてみなければなりません。説教を聞かなければいけないのです。聖書を読んでみなければいけないのです。・・・私自身の体験するところでは、規則正しく聞いたり読んだりすることから、喜びもまた生じてくるものなのです」。
 御言葉が聞ける心と体になるには、御言葉を聴き続ける以外に道はない。御言葉に浸って行く中で私たちの魂は癒され、回復させられ、立て上がられ、整えられていくのです。

(4)まことの幸いに生きる
 最後に、まことの幸いに生きる人、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさんで生きる人とは、要するに神の言葉が人となって私たちのもとに来てくださったただ一人の救い主、イエス・キリストにとどまって生きるということに他なりません。ヨハネ福音書15章4節、5節で主イエスはこう言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」。
 まことの幸いに生きる人生、それは主イエス・キリストに結び合わされ、主イエス・キリストにとどまりつづける人生です。それは主イエスのいのちの言葉にとどまり続け、主イエスの十字架の愛の中にとどまり続けることです。そしてそれは主イエスのからだなる教会の交わり、礼拝の交わりにとどまり続けるということです。
 主イエスにある交わりから離れては私たちは何もすることができないと主は言われるのですが、私たちはしばしば御言葉から離れても、教会の交わりから離れても、主イエスから離れてもそれですぐにどうこうなるわけではない。それほど一生懸命にならずとも、ほどほどのところでよい、などと考えてしまうときがあるかもしれません。でも本当にそうでしょうか。確かに礼拝を休んだからと言って、すぐに具合が悪くなるとなどということはないかもしれない。でも目に見えないところで私たちの魂は少しずつダメージを受けていく、私たちの身体と魂は少しずつ英気を失っていく。私たちの幸いの基準がちょっとずつずれていく。それは小さいものであってもしかし確実に私たちの健やかな霊性を衰えさせ、傷つけていくのです。
 一年の終わり、締めくくりが近づいているこの朝、私たちは今一度、主イエス・キリストの御前に、まことの幸いに生きる道は、この方とともに生きる道だということをはっきりと確信させていただきたいと願います。そして私たちの生活が永遠に揺るぐことのない確かな神の言葉によってこそ導かれていくことを確信する者でありたいと願います。主イエス・キリストの生けるいのちの御言葉を、この朝も新しくいただいて、それを喜びとし、昼も夜も口ずさみつつ、今日からの新しい日々へと遣わされてまいりましょう。

 



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