シリーズ幸いに生きる10  2013/11/17
『喜び、喜べ』

マタイ5:11-12

 11月も半ばを過ぎて、いよいよ今年も御子イエス・キリストの御降誕を待ち望む待降節の季節を迎えようとしています。主イエス・キリストを迎えた者は、主イエス・キリストに従って生きていく。この主の弟子として生きる幸い、祝福、喜びを、この朝も御言葉を通してご一緒に受け取ってまいりたいと願います。愛するおひとりひとりの上に主の豊かな恵みと祝福がありますように祈ります。

(1)「義のために」とは「わたしのために」
 前回5章10節を学んでから一ヶ月ほど間が空いてしまいましたので、あらためて10節から12節の御言葉を読んでおきましょう。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」。そして11節、12節。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです」。3節の「心の貧しい者は幸いです」から始まった幸いの教えの最後に控えていたのは、3節と同じく「天の御国はその人たちのものだから」で締めくくられる「義のために迫害されている者」への祝福の言葉でした。実に驚くべきことです。迫害される者が幸いというのですから。
 そこでは「義のために迫害される」とは何を意味するかが問題でした。しかし主イエスは自ら、続く御言葉の中でそれを明らかにしておられます。すなわち「義のために」とは「わたしのために」ということでした。主イエスのために迫害を受ける。それは当時のキリスト者たちにとっては決して遠いどこかの話ではない。実に身に差し迫ったことでした。主イエスを信じたということは、いつでも主イエスのために迫害をこの身に招くことになる、それをも含んだ決断だったのです。このような言葉を聴くと、私たちはすぐに身がすくんでしまいます。「迫害」という二文字を見ただけでも、「ああ自分には耐えられない」と思ってしまう。それは自然な反応でしょう。主イエスの弟子たちも、またこれらの言葉を聴いた当時のキリスト者たちも、決して皆が揃って迫害をもろともしない勇猛果敢な人々であったわけではないでしょう。むしろ恐れに捕らわれて心挫けてしまいそうな者たちであることを主イエスは十分ご存じなので、こうして彼らを祝福の言葉をもって励ましておられるのです。確かに主イエスを信じてついていけば迫害がある。でもそのようなものをくぐり抜けてでさえも価値ある本当の幸いの人生、本当の祝福に満ちた人生が主イエスのもとにあると信じ、そのいのちに生かされていると実感していたので、彼らもまたこの言葉を受け取って、そのように生きていくことができたのでした。

(2)ののしりと悪口の中を
 「迫害」と聞いて恐れる私たちですが、しかし気を付けたいのは「迫害」と聞いてすぐに捕らえられて、痛めつけられ、命を奪われるという出来事に直結させてしまい、もっと身近で日常的な信仰の戦いの有り様を見落としてしまうことです。今日の11節、12節で主イエスが迫害の問題を「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき」と言っておられることに注意しましょう。またこれまでいつも見てきたルカ福音書6章の平地の説教での主イエスの御言葉にも注目したいのです。ルカ福音書6章22節、23節。「人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです」。ここでも主イエスは「あなたがたを辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき」と言っておられます。
 つまり主イエスが弟子たちに向かって「迫害」を口にされたとき、そこでは最も過酷な究極の迫害というよりも、もっと日常的に私たちに迫っている、信仰のゆえの周囲からの「あざけり、ののしり、悪口、侮辱」の経験のことをおっしゃっておられるのです。先週のプレイズタイムで次男が、友達に自分の家が教会で父親が牧師だと言ったら「すごい」と言ってくれてうれしかったという証しをしてくれて、とても励まされました。私も家内も、それにこの教会には牧師の子弟が随分多くおられるのですが、自分自身の子どもの頃を思い出してみると、親が牧師で家が教会ということでの「あざけり、ののしり、悪口、侮辱」はしょっちゅうのことだったなと思います。学校の前に教会の人がチラシを配りに来るのがいやでしょうがありませんでした。だいたい昇降口の靴箱を空けるとギュウギュウ詰めに何十枚ものチラシが突っ込んであったり、目の前でビリビリと破られて拾わされたこともありました。普段はやんちゃだった自分にも、これらは随分堪えました。自分の大切にしているもの、家族、教会が汚されたような思いになったことを覚えています。そんな子どもの経験を通しても、「わたしのためにののしられ、悪口を浴びせられる」というのは私たちにとってしばしば起こりうるものだということを覚えさせられるのです。
 
(3)喜び、喜べ
 ところが主イエスはこのような辱められる経験をし、またこれからもするであろう弟子たち、教会に向かって「あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい」、ルカ福音書では「おどり上がって喜びなさい」とまで言われるのです。どうしてこれが喜べるものかと思うのですが、しかし実際にはその喜びは継承されていく。大変不思議なことなのですが、でもそうなのです。少々手前味噌かもしれませんが、同盟教団では牧師の家の子どもが牧師になる例が実に多い。みんな苦労して伝道する親の姿を見てきたし、貧しい暮らしをし、つらい思いもしてきたはずなのに、でもやっぱり伝道者の道を歩んでいる。どうしてだろうかとある時、友人たちと話したことがありました。そこで共通していたのはそれでも親たちの生き方の中に「喜び」があり、教会の交わりの中に「喜び」があったという原体験でした。苦しいばかりの、歯を食いしばり続けるような、悲壮感漂う日常があったわけではない。確かに困難はあり、貧乏もあるのですが、でもそれを越えてあまりある喜びがそこにはある。その喜びの中で、やっぱり主イエスとともに生きたい、主イエスのために生きたい、そういう人生へと導かれていくのです。
 主イエスの弟子たちも、決して一直線に、というわけではありませんでしたが、この主イエスのための苦難と喜びの道を歩んで行きました。それを一番に覚えさせられるのはペテロの手紙です。主イエスの幸いの言葉を聞いていたペテロ、その後、しかし迫害を恐れて主イエスの前に決定的な失敗を犯したペテロ。でもそんなペテロがやがて教会に書き送った手紙の中には、実はこの主イエスの言葉を一番深く心に刻み続け、生涯その言葉を抱き締め続けながら生きたであろう彼の生き様から発せられた声が聞こえてくるのです。一ペテロ1章6節にはこうあります。「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります」。また3章17節では「もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです」と言い、さらに4章12節、13節では「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです」とさえ言い、そして16節では「キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい」と言うのです。
 主イエス・キリストを信じた者は、主イエス・キリストと一つに結び合わされた者であり、そこでは主イエス・キリストにある一切の祝福と一切の喜びに与るのですが、その中には主イエス・キリストの苦難にも与り、主イエス・キリストの名のゆえの辱めさえも喜ぶことが含まれている。主イエスに従う歩みはこれら一切込みのものなのです。そしてそのような歩みをずっと神の民はしてきたのです。ことあるごとに開く御言葉ですが、使徒の働き5章41節を読みましょう。「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った」。主イエスの御名のために辱めを受ける。それは主に従う者たちがずっと味わってきた道であり、しかも喜んで歩んできた道なのです。さらにそれは旧約の預言者たちにまで遡る生き方でもありました。イザヤ書51章7節で主はイザヤを通して言われます。「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな」。そして12節以下でこう言われるのです。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている」。15節。「わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。わたしは、わたしのことばをあなたの口に置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ』とシオンに言う」。
 このように私たちが今通らされる主に従うがゆえの道は、福音を証しして生きてきた多くの主の証人たちが歩んできた道であり、また主の弟子たちが歩んできた道であり、そしてまた旧約の預言者たちが生きてきた道だということを知らされます。しかしその間、ずっと変わらずに主なる神御自身が「恐れるな、くじけるな、わたしがあなたを慰める。わたしがあなたの神だ」と私たちの傍らにあって私たちとともに歩み続けて来てくださったし、今もそうあり続け、そしてこれからもそのようにともに歩んでくださり、ついには「天」において、「その日」に大いなる報いを与えてくださるのです。

(4)ただの人としての生
 主イエスのためにののしられたり、恥をかいたり、苦難の道を通らされるとき、そこから幸いが始まっていく。本当の幸いが始まっていく。祝福がもたらされていく。それを味わうほどに私たちはまだ主に本当に従い抜いてはいないのかもしれません。本当に主に従って生きるときに、私たちは本当の幸い、本当の祝福を受け取ることができるはずです。主イエスのために恥をかきたくない。主イエスのゆえに悪口を言われるなど耐えられない。主イエスのゆえの迫害など御免被りたい。私たちの内に秘めたささやかな誇りやプライド、驕りや高ぶりが、そんな思いを私たちの内に密かに持ち込もうとします。以前にもご紹介したことがあるのですが、岩波新書で宮田光雄先生が書かれた『メルヘンの知恵?ただの人として生きる?』という大変優れた小著があります。その中で先生が、アンデルセンの「裸の王様」のストーリーを巧みに読み解きながら、他人から低く評価されることを恐れて、しったかぶりをしたり、虚栄をはったり、偽りの賢さや知恵をひけらかしてしまう人間の弱さを見つめ、「はだか」の真実な自分を認め、偽りに生きようとさせる不安の影に別れを告げて「ただの人」として生きる自由を示しておられます。
 主イエスのための悪口、ののしりを恐れる私たちの心の中にあるのは、本当のところ迫害を恐れる心なのか。それとも悪口を言われ、ののしりを受けることに耐えられない自分の驕りや虚栄なのか。その一番深い私自身の心の奥底にこそ福音の光が照らされなければなりません。福音の光が映し出すもの。それはあざけられ、ののしられ、辱めを受けてもなおそれらを忍び、私たちの罪の重荷をすべて背負い、顔を真っ直ぐ前に向けて十字架へと進まれた主イエスのお姿であり、十字架によって成し遂げられた救いのおとずれとしての福音です。この福音がもたらす真の幸い、真の祝福、真の喜びが私たちのうちに注ぎ込まれ、溢れ出るまでに注がれ続けることを願い求めていきたいのです。その時に、私たちは本当の意味で主に従う弟子として、喜んで、自由に、主の御名を担って、ただの人として生きる最も人間らしい生き方に生きることができるのです。

 



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