シリーズ幸いに生きる09  2013/10/13
『義のために迫害される者』

マタイ5:10

 10月も半ばに近づいていますが、秋の深まりの中かと思えば夏のような暑さが戻ってくる定まらない気候の中にあります。体調を整えて、何よりも主の御言葉によって十分に養われて豊かな日々を過ごしてまいりたいと願います。この朝も、主が愛する皆さんを祝福し、まことの幸いに生きるようにとここに招いてくださいました。ご一緒に主の生ける御言葉に祝福にあずかってまいりましょう。愛するおひとりひとりの上に主の豊かな恵みと祝福がありますように。

(1)「義のために迫害されている者」とはだれか
 マタイ福音書5章の山上の説教において主イエス・キリストがお語りくださった幸いの言葉、祝福の言葉に聴き続けて来ましたが、いよいよ大詰めに近づいて今日は八つ目の言葉です。10節。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」。この御言葉はそのまま11節、12節に続くのですが、今日は10節に集中して主イエスの御言葉を受け取っていきたいと願っています。
 10節の主イエスの御言葉が一連の幸いの宣言のしめくくりとなっていることは、後半の「天の御国はその人たちのものだから」という言葉が3節と同じであることからも分かります。「貧しい者」、「悲しむ者」、「飢え渇く者」が幸いだと、これまで主イエスが語られた幸いは私たちが通常考える幸いとはまったく違った価値観であることを見てきましたが、最後に語られる言葉はその極めつけとも言えるものです。何と言っても「迫害されている者は幸い」と言われるのですから。ここで「迫害されている者」という表現ですが、いくつかの日本語訳聖書を読み比べてみますと、「迫害されている者」という表現と「迫害されてきた者」という表現の二通りの訳し方に分かれています。もともとの文章では現在形の完了の分詞が使われていますので「かつて」も迫害されて「きた」し、「いまも」迫害されて「いる」というニュアンスがあるのです。つまりキリスト者にとって「迫害されている者」とは、現実には存在しない想定上の人のことでもなく、いたとしても決して遠いどこかの人ということでもなく、それは極めて身近な、リアルな存在であり、もっと言えばいつでもそれが「自分のこと」になりうる、まさに当事者の問題であったのです。
 私はあまりテレビドラマを見ないので、この秋に終わった話題のドラマ、朝のテレビ小説の「あまちゃん」も観たことがなく、「半沢直樹」も一度も観ず、大河ドラマの「八重の桜」も周りの牧師たちは結構みんな熱心に観ているようなのですが、ずっと観ないままにきていました。ところが一ヶ月ほど前でしょうか。家内が「この回だけは絶対に観なさい」と強く勧める回があったので、録画してあったのを観たのをきっかけに、それ以来観るようになりました。ちょうど京都篇に入って同志社の設立と新島襄と八重が結婚するあたりだったと思いますが、女学校の走りである「女紅場(にょこうば)」で教鞭をとっていた八重が、耶蘇である新島と結婚し、自分も耶蘇になると考えていることが分かった時に、槇村正直がこれに反対し、耶蘇になるなら解雇すると脅しをかけるくだりがありました。自分の信仰を表明しようとする八重に対して、「耶蘇になってもかまわんが、それは心の中の問題だ。耶蘇になることを公言するなら首にする」と迫るのです。このやりとりを観ていて、家内が「明治の昔の話でなく、今の学校の日の丸・君が代強制とまったく同じだ」と言うのを聞いて、本当にそうだと思いました。信心は心の中のこと、外側においては周りに従え、という同調圧力は130年経った今のこの国でもまったく変わっていない。まさに義のゆえの迫害は「かつて」も「いま」も続いていることなのです。

(2)「天の御国はその人たちのもの」
 しかし、どうして「義のために迫害されている者」が「幸い」、「祝福」と言えるのでしょうか。「義のために」の「義」とは、すでに見た6節の「義に飢え渇く」の「義」と同じ事柄を指しています。つまりそこでの義とは主なる神の御前で打ち立てられる「正義」と、主なる神の御前での正義が人々の前でも正しく果たされる「公正」とを意味していました。要するに神の御心に沿って正義と公正のために生きる生き方の問題であり、それはまたキリスト者の生き方の問題でもあるのです。
 この社会が「正しいこと」と「間違ったこと」、「良いこと」と「悪いこと」、「正直なこと」と「偽りのこと」という価値基準を捨て去って、代わりに「儲かること」と「存すること」、「勝つこと」と「負けること」、「得すること」と「損すること」という基準を持ち込んでしまってから、正義と公正のために生きることは非常に難しいものとなってしまいました。間違ったこと、悪いこと、偽りのことであってもそれが儲けになり、勝つことに繋がり、得することになるならばそれでよい。少々のことは目をつむり、知らぬ振りをして口を噤めばよい、そんな価値観が蔓延ってしまっています。けれども主なる神の義、正義と公正を一度知らされたならば、やはり正しく生きなければならない。間違ったことは間違っていると言わなければならない。偽りを退けなければならない。真っ当な道を歩まなければならない。そういう義の道を私たちは歩むように招かれているのです。
 このところ、教会にしばしば立ち寄ってくださる方がおられて、その方が職場で直面している問題をお話しくださいます。不正なことがまかり通っていてこれでいいのかと思うというのです。その方はクリスチャンではありませんが、牧師先生と話をすると、ますます正しいことと間違っていることとがよく見えるようになってきたと仰るのです。でもそれゆえに職場で非常に難しい立場に立たせられている。いっそ口を噤んでしまったほうが自分の身を守るのには良いのですが、どういうわけかそうもできないとも言われるのです。それで私は「それはあなたが神様のことを知ったからですよ」と申し上げると、そうなのかなあと言って帰って行かれる。確かにそんな正義感を振るうことはない、みんな見て見ぬふりをしているのだから同じようにすればよい、と多くの声は言うでしょう。
 けれどもそこで私たちは「天の御国はあなたたちのものだ」と言われる主イエスの御声をいつも新しく耳元に聞いていたいと思うのです。「天の御国はあなたたちのもの」とは、言い換えるならば、義のために迫害を受けている今、あなたは天国人として生きているのだ、ということでしょう。主イエス・キリストが繰り返しお語りになり、また新約聖書全体が繰り返し証ししているように、「天の御国」とはやがての時のことだけを指しているのではありません。今は迫害があっても、やがて天国に行けるから今は我慢しなさい、ということではない。もちろんそういう側面があることは事実ですし、ルカ福音書6章の「平地の説教」にはそのような時の感覚がよりはっきりと現れているのですが、しかしむしろここで主イエスがお語りになっていることは、義のために迫害を受けているあなたは、今、もうすでに、そしてそのことのゆえに、天の御国に生きているのだ、それがあなたへの祝福であり、本当の幸いだということなのです。

(3)「義のために」は「主のために」
 最後にあらためて、「義のために」という言葉に目を留めておきたいと思います。ここでの「義」は神の正義と公正のことと申し上げてきました。しかしさらにもう一歩踏み込んで考えてみたいのです。主イエスは10節で「義のために迫害されている者は幸いです」と仰った後、続く11節では「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです」と言われました。詳しくは次回取り上げますが、読んでお分かりのように11節は10節の言葉を繰り返しつつその意味を拡げるような言い方になっています。そうであれば10節の「義のために」に対応しているのは11節では「わたしのために」であることが分かります。結論的に申し上げるならばここで主イエスが言われた「義のために迫害されている者」とは、「主イエスのために迫害されている者」だということです。主イエスはご自分を信じ、ご自分のあとにつき従ってくる弟子たちに対して、「わたしを信じて、わたしのあとについてくるということは、迫害の中を通るということだ。それでもなおわたしについて来るあなたたちこそ、神の国の祝福の中を生きている者たちだ」と言ってくださっているということです。
 この「キリストに従う」という服従の問題こそ、今日の私たちキリスト者が、この国に建てられている教会が本当に真剣に担っていかなければならない大事なテーマになってくるでしょう。いやもうすでになっているのです。一ペテロ3章14節にこうあります。「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。それによって心を動揺させたりしてはいけません」。そしてこの御言葉を受けて4章14節ではこうも言われます。「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」。私たちはこの朝、「義のために」とは「キリストのために」ということだとはっきりと理解し、信じ、それを受け入れたいと願います。そしてキリスト者であるということは、迫害の中を生きることだということをもしっかりと受けとめたいのです。二テモテ3章12節でパウロは次のように言いました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」。
 それならクリスチャンであることを一度考え直そうと思われるでしょうか。あるいは求道中の方は、「クリスチャンだけにはなるまい」と思われるでしょうか。クリスチャンになるということは迫害に耐えられる強い人になるということではありません。あるいはそういう強い信念と覚悟の持ち主だけが信仰を持つことができるということでも決してありません。もしそうなら私たちは誰一人としてこの場に留まり続けることはできないでしょう。もしかすると私から真っ先に逃げおおせてしまうというようなことにだってなりかねません。大切なことは、主イエス・キリストを信じる人は、すでに天の御国の中に生きている者だということです。この事実は私が思っている以上に強く確かで揺るぎないことなのです。あなたの名はすでに天のいのちの書に書き記されている。だからどんな困難と迫害の中をくぐったとしても、その名が消されることはなく、そこから私の名が漏れることがない。自分が弱いのは自分が一番分かっています。どれだけ自分が不忠実で、不真実で、臆病で、恐がりで、頼りない者であるかは誰よりも自分が知っている。けれども私をご自分のものとしてくださった主イエス・キリストは私が思う以上に確かで、強く、大いなるお方であり、そのお方の名を刻まれた私たちは、このお方と一つに結び合わされている。その結びつきは私が思う以上に実に堅固で確かで強いものなのです。
 これまでも、そしていまも、義のために、主イエスのために迫害を受けているあなたは幸いだ、あなたこそ祝福された者だ。職場の中で、学校で、家族の中で、地域の中で、少数であるがゆえになかなか理解されない生き方、良心が働くゆえに、神の正しさを知るゆえに、なにかとバカ正直で融通が利かない、不正を見逃すことができない。それゆえにかえって困難な道を、孤立の道を行かなくてはならないことがあるでしょう。いやむしろそうあっていただきたいとさえ願う。でもその時に私たちは今、天の御国を生きているのだという祝福の事実を思い起こしたいと願います。そして弱さの中に潰えそうになるとき、心がくずおれそうになるとき、一人で義に立ち続けることができなくなりそうになるとき、そのようなときにこそ「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と、キリストにある勇気に奮い立たせていただきたいと願います。「主がついていれば怖くはないと聖書の中に書いてある」。このお約束を子どものようにしっかりと握り締めて、雄々しく、強く、勇気をもってこの時代のただ中を今週も歩んでまいりましょう。



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