シリーズ幸いに生きる08  2013/09/22
『神の子どもと呼ばれる幸い』

マタイ5:9

 9月も半ばを過ぎて、秋の深まりの中にあります。御言葉に養われ、豊かな実を結ぶ充実の日々を過ごしてまいりたいと願います。この朝も、主が愛する皆さんを祝福し、まことの幸いに生きるようにとここに招いてくださいました。ご一緒に主の生ける御言葉に祝福にあずかってまいりましょう。愛するおひとりひとりの上に主の豊かな恵みと祝福がありますように。

(1)「平和をつくる者」とはだれか
 この朝も、マタイ福音書5章の山上の説教において主イエス・キリストがお語りくださった祝福の言葉に聴いていきます。今日はその七つ目の言葉です。9節。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」。これまで幾度となく取り上げてきた御言葉ですが、この御言葉を聴くたびごとにむしろこの世界が平和が次第に遠のいて行っているような感覚にとらわれます。そしてそれだけに主イエスがこの言葉をもって私たちに語られたチャレンジをきちんと真正面から受けとめなければならないと思わされるのです。「平和をつくる者」。これは新約聖書の中でここだけに出てくる珍しい言葉であり、しかもこれで一つの単語です。「平和を」の後に私たちが言葉を入れ替えることができない、平和を「願う者」とか「好む者」とか「期待する者」と言い換えることができない、主イエスが語られたのは明確に「平和をつくる者」だというのです。またこの言葉、別の日本語訳聖書では、数から言うとその方が多いのですが「平和を実現する者」と訳されます。これもまた新鮮な響きを持って来ます。すでにある平和の中に身を置き、それを受け取って安穏と生きる生き方でなく、敵対している人々の中に、対立している社会の中に、分かり合えない国と国との間に出かけていって、その敵意の種を一つ一つ取り除き、誤解の糸を解きほぐし、すれ違う人々を行き会わせ、目も遭わせられない人たちを同じテーブルに着かせ、そうやって和解を宥和を実現するために懸命に汗して働く人。しかもそれを誰に求められるでもなく、感謝されるでもなく、むしろ疎まれたり、退けられても、諦めることなくお節介のようにしてでも動きかける人。それがここでの「平和を実現する人」の姿です。実に面倒くさいし、ほとんど無駄骨、徒労に終わるようなことが多い。たしかにそう思います。だれがこんな面倒な役を引き受けるのかとさえ思います。
 しかし主イエスはこの朝、明確に「平和をつくる者、平和を実現する者は幸いだ」と言われるのです。そしてこの朝私たちも、この言葉の持つインパクトをそのままに受け取ることが求められているのです。
 
(2)「神の子どもたち」とはだれか
 さらに主イエスはここでそのように平和を実現するために働く人々への祝福として、「その人は神の子どもと呼ばれるから」と言われます。ここで「平和をつくる者」も「神の子ども」も、主イエスの時代には新しい言葉ではなく、むしろローマ帝国の支配が広く及んだ時代にあっては民衆たちの間では広く知られた言葉であったと言われます。当時「平和をつくる者」と呼ばれるのも、「神の子ども」と呼ばれるのも、剣を持った権力者、統治者、為政者たちのことであり、その最たる存在はローマ皇帝、カイザルでした。当時の社会において「平和」と言えば「パックス・ロマーナ」、「ローマの平和」つまりローマ皇帝が強大な武力、軍事力、剣の力によって人々を支配し、押さえ込むことによって成り立っていた「力による平和」であり、そのような剣を振るう統治者たちを人々は「神の子ども」と呼んだのです。
 ところが主イエス・キリストの言葉は、そのような剣による平和をつくる者、力によって人々を押さえ込むことによって平和をもたらす神の子どもたちの道ではなく、それとは違う平和づくりへの道を生きる祝福を、そしてそのために労することによって神の子どもと呼ばれる幸いを、私たちに与えようとなさるのです。私たちはせいぜい、少なくとも自分は人と敵対しないようにしよう、誰とでも仲良く、なるべく波風立たせないようにしようと心掛けるぐらいのところで留まっておきたいと思うものです。ある先生の説教集の中で「主イエスが『争いを好まぬ人は幸い』と言ってくれていたら、ホッとする人がどれほど多いことだろう」と記しておられました。水たまりをよけるようにして、争い事を避け、揉め事の現場に立ち会わないようにして生きよと命じてくださったらよいのに、と思うでしょうか。そして教会の中に留まっていれば、善良な人たちに囲まれて、いやな思いをすることもなく、そこそこ平和にやっていけるのではないかと思うでしょうか。しかしそこには内向きな集まりしか生まれません。そもそも教会の中にも争いはありますし、何と言っても自分自身が争いの原因になっていることに気づかないということだって大いにあることでしょう。
 それはともかく、外には嵐が吹き荒れて、人々が傷つき倒れているのに、じっと息を潜めて、ただただ争いの嵐が過ぎ去るのを待つだけの教会になってしまうのではないでしょうか。「日の丸・君が代」強制の問題、憲法改悪の問題、原発の問題、天皇制や靖国の問題など、そう言う話題を一切口にできない教会があります。牧師がそれを口にすると教会の中の平和が乱れるからやめてほしいと言われます。教会は政治団体ではないし、様々な立場の人がいるのだから、牧師はそう言う人々にも配慮すべきだと言われます。何事でも中立であるべきだ、一つの立場を取るべきではないとも言われます。実際にその問題で傷ついている人がいるにもかかわらず、よく分からない中立主義に立って、結果的にある人々を見捨てているということがあるにも関わらずにです。私はこの教会の牧師として様々な場で自分の意見を表明していますが、もし私が皆さんに説教壇から福音を語らずに政治的演説ばかりをしていれば皆さんは私をこの説教壇から退けるでしょうし、またそうすべきです。しかしもし皆さんが私に一切そのような政治的な言葉を発するなと求められたら、私は自らこの説教壇を降りることになるでしょう。神の言葉を語る・聴くという関係はそういうものだと思います。馴れ合いの中ではやっていけないものです。
 
(3)平和の橋を架ける者として
 私たちは内向きに、ただ自分自身さえ平和であればよいというような生き方に召されてこの地に遣われていません。主イエスはこの朝、私たちに、この剣を持たない、権力も持たない、丸腰のような私たちに、「あなたたちこそ平和を実現する者たちだ。あなたたちはだからこそ祝福された者たちだ。あなたたちこそ本当の神の子どもたちだ、幸いな人たちだ」と語りかけておられます。ではどのようにしてこの平和を実現することができるのでしょうか。ローマ書15章33節でパウロはこう祈りました。「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン」。また16章20節では「平和の神は、すみやかに、あなたがたの葦でサタンを踏み砕いてくださいます」とも言っています。私たちが「平和をつくる」「神の子ども」と呼ばれるのは、主イエス・キリストの父であり、それゆえにまた私たちの父であられるお方が「平和の神」であるからであり、私たちはこの平和の君なるお方を父とするので、その父の業に参与するのです。平和をつくる主体は父なる神御自身であり、その平和は父の御ひとり子、私たちの長子であられる御子イエス・キリストの贖いによってこそ成し遂げられるのであり、私たちはこの御子の贖いによって父なる神との和解を経験した者として、聖霊によって励まされつつ、勇気と忍耐と寛容と愛をいただいて、平和作りのために生きる者とされているのです。これこそが主イエスが山上の説教で明らかにされた新しい価値観、新しい生き方であり、剣の力、支配の力によってではなく、愛の力、赦しの力によって造り上げられていく平和の実現なのです。この平和の実現の要こそが主イエス・キリストの十字架です。エペソ2章14節。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です」。主イエスが私たちのために十字架に掛かってくださったことによって敵意は廃棄され、真の平和が訪れる。この主イエスによって私たちは神と和解させられた者として、平和をつくる者へと変えられていくのです。
 宗教改革者ルターは、平和をつくる人のことを「敵対する人々の間に言葉を持ち込む人」と言いました。さあけんかをやめて仲直りしようと呼び掛ける、その声を持ち込む人だというのです。いつしか争い事を見ても見ぬふりをすることに慣れてしまった私たち、火の粉が自分に降りかかるのを恐れて遠巻きに眺めるか、その場を足早に立ち去ることに慣れてしまった私たちにとっては実にチャレンジに満ちた言葉です。人々が自分と相手との間に壁を築いて、互いの間を分け隔て、互いに壁の中から相手を威嚇し合ったり、牽制し合ったりする中に、壁を築く代わりに和解のこと場を持ち込むことによって橋を架ける人、それが平和をつくる人の姿です。主イエスは続く38節から44節でこう仰いました。「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。
 「やられたらやりかえせ」では終わってしまい、埋まることのない隔たり、越えることの出来ない壁を前にして、こちらから「あなたと一緒に行かせてほしい」と、「この上着もいっしょにどうぞ」と、相手の心に橋を架けるとき、そこから平和作りの一歩が始まります。牧師をしていると、誰かの代わりに怒られたり、怒鳴られたり、罵倒されたり、自分のしたことでないことでお詫びをしたり、頭を下げることがあります。けんかの仲裁に入って迷惑がられたり、夜中に呼び出されて行って追い返されたり、生きるか死ぬかと言う場面で警察を呼んだら、その本人から「どうして警察なんか呼んだのだ」と逆ギレされることもあります。「どうしてこんな思いをしなければならないのか」と思うことも正直言ってあります。敵意をむき出しにされ、わがままを言われ、勝手な言い分を述べ立てられるとき、怒りが込み上げてきます。理不尽な思いを抱きます。
 でもそう言うときにこそ気づくのです。イエス様はこんな思いとは比べものにならないほどのものを黙って背負って十字架を忍んでくださったのだなあと。私たちはその主に愛を祈り求めましょう。忍耐を祈り求めましょう。今まさにこうして平和の橋を架けているのだと信じて祈りましょう。そうやってこちらから相手に働きかけるとき、そこに神の御力が働くことを信じましょう。私たちが掛ける橋、それは十字架の橋です。御子イエス・キリストが自ら呪いを引き受けて、「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくださったあの十字架こそが、平和をつくりだすのであり、私たちはその十字架によって赦された者として、その力を知り、その力に与った者として、神の子どもとして生きる幸いをいただくことができるのです。争いがあり、対立があり、敵意に満ちた殺伐とした時代の中にまた私たちはここから遣わされて行きます。主イエスの十字架の橋を架けるために、神の子どもたちとして遣わされてまいりましょう。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.