シリーズ幸いに生きる07  2013/09/08
『心のきよい者への祝福』

マタイ5:8

 この朝も、主が愛する皆さんを御前に招き、祝福を与え、幸いに生きるようにといのちのことばをもって語ってくださいます。ともに主の御前に心開いて、御言葉に聴いてまいりましょう。愛するおひとりひとりの上に主の豊かな恵みと祝福がありますように。

(1)「心のきよい者」とはだれか
 この夏から、マタイ福音書5章の山上の説教において主イエス・キリストがお語りくださった祝福の言葉に聴き続けています。今日はその六つ目の言葉です。8節。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」。心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、そしてあわれみ深い者、これまで主イエスが「このような人たちは幸いだ、祝福された人たちだ」と語って来られた人々の中に、私たちは自分自身の姿を見つめて来ました。もちろんそのまますんなりというばかりではないこともありますが、それでもその御言葉に込められた主イエスのお心を知る時、確かに自分もまたそのような人々の中に数えられている幸いを覚えさせられるのです。
 しかしこの朝、「心のきよい者は神を見る」と言われた主イエスの言葉を聴くとき、私たちの心はどのように反応するでしょうか。「確かに私も」と思うことがとても難しい。むしろ自分はそのような者ではないと自らを除外し、これは私への言葉ではないと耳を閉ざしてしまいたくなるのではないでしょうか。「心のきよい者」とはそれほどに私たちから遠く隔たった姿に思えます。しかしそうだといって私たちがそのあり方を目指さないか、といえば決してそうではないはずです。むしろ私たちがかくありたいと願う姿、それが「心のきよさ」ということではないでしょうか。実際に聖書全体を見渡してみても、「心のきよさ」は信仰者たちが目指してきた大事な姿であったことがわかります。今日の御言葉との直接に結びつく旧約聖書の言葉として挙げられるのが、詩篇24篇3節から5節です。「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける」。主の前に立つことのできる人、主の祝福に与る人とはだれか。それが「手がきよく、心がきよらかな者」だというのです。「きよい」というのは不純なものが混じっていない純粋な状態をあらわしており、ここでは「手」と「心」とが一致している姿、心の中にあるものがその手の業にそのままに表れてくる姿を意味しています。また一方でここでの「きよい」というのは神の御前に砕かれた心、罪を悔いる心の姿とも言われます。ちょうど私たちが毎週、悔い改めの祈りの中で聴く詩篇51篇17節、「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心」という心の姿です。
 また新約聖書においては、主なる神への純粋な心のあり様、一筋な神への姿勢が表れている様を示しています。この後のマタイ6章22節で主イエスはこう言われました。「誰もふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて、他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」。このように、「心のきよい者」とは、神の御前に己の傲慢さや頑なさを砕かれて、自分の罪を認めて悔い改めている心、それゆえに純粋で混じりけのない心、神への献身において一筋の心ということができるのです。

(2)「神を見る」幸い
 主イエスはそのような「心のきよい者」への祝福として、「その人たちは神を見る」と言われました。教会の歴史を振り返ってみると、「神を見る」というのは信仰の世界における最も高い霊的な祝福の状態を指すものとされていました。ご存じのように旧約聖書を見ると、罪ある人は栄光に輝く神御自身のお姿を見ることができないと言われています。その神を見ることができるというのは、本来なら決して許されないような特別の交わりに入れられる状態を意味していました。心のきよい者は、まさに神を見ることがゆるされる。それほどに親密な、それほどに近しい交わりの中に入れられるのだというのです。
 中世の時代、教会はこのような経験を極めて特殊で神秘的な信仰体験として追求しました。中世の修道院生活の目指すところはまさにこの「神を見る」という境地に至るためのものであったのです。中世の修道院で生まれた聖書を読み、祈る習慣に「レクティオ・ディヴィナ」と呼ばれるものがあります。私たちで言う「ディボーション」のようなものです。そこでは「レクティオ」すなわち「聖書を読む」、「メディタティオ」、「黙想」すなわち読み取った御言葉をさらに深く思い巡らすこと、次に「オラティオ」、「祈る」、御言葉を通して語られた神に応答し、対話する祈り、そして最後に「コンテムプラティオ」、「観想する」と訳されますが、まさに神を観るようにして神に近づき、愛と献身を示す祈りの姿と言われます。プロテスタント教会ではなかなかこのような霊繰の訓練が乏しいのですが、私たちの祈りと御言葉の生活を豊かにする上でも、覚えておきたい四つの事柄です。
 しかしながら、やはり私たちにとって「神を見る」という究極の経験はこの地上において味わうというよりも、やがて来るべき天の御国での主なる神との完全な交わりにおいて実現するものと御言葉は教えます。一コリント13章12節でこう言われている通りです。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知るようになります」。また一ヨハネ3章2節でも次のように言われています。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。

(3)神を見ること、世界を見ること
 このように「心のきよい者は神を見る」という幸いの姿を見てきましたが、改めて立ち止まって考えておきたいことがあります。それは「心のきよさ」を私の主なる神に対する献身の姿としてだけでなく、それとともに主なる神が私たちに求めておられる姿としてこの朝、受け取りたいということ、そして「神を見る」ということもまた、私の内面の信仰経験の深まり、私一人の神への近づきということとしてだけでなく、それとともに、神を見ることで神が私たちに見せようとしておられるものをキチンと見るものとして受け取りたいということです。神が私たちに求めておられる心のきよさ、しかも定義としてでなく、一般論としてでなく、今日この時の、この地に生きる私たちに求めておられる心のきよさ、それは「嘘を吐かない心」ではないでしょうか。
 今の私たちの社会を見渡すと嘘、偽り、欺瞞、虚栄が栄えるばかりです。特に東京オリンピック招致を巡る一連の政府のドタバタと、昨晩の首相のIOC総会でのスピーチを聴くと、そこにはまったく事実とかけ離れた嘘が公然と語られています。「嘘を言わない、嘘に加担しない。嘘を聞き流さない」。私たちは神の求めに従ってこのことを改めて決心したいのです。そして神を見る信仰の目をもって、神が見せようとなさるものをキチンと見つめるものでありたいのです。神を信じる者は、神と自分以外のものには目もくれない、それ以外のものには関心がない、という態度であることはできません。神を見る者だからこそ神が見つめる眼差しをもって、神が見ておられる世界をしっかりと見つめ、そこに自らを置いて生きる者となっていく。このことをこの朝、祈り求めたいのです。パウロは一テモテ1章5節で「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛」と言います。今の時代、私たちの社会で決定的に損なわれつつあるもの、それこそがきよい心と正しい良心、偽りのない信仰とから出てくる愛でしょう。これらを働かせてこの地に遣わされていく私たちでありたいと願うのです。

(4)きよい心の創造
 こうして見るとやはり主イエスが言われた「心のきよい者」の中に自分自身を見つめるのは難しいことと思えてきます。しかし最後に私たちが教えられたいことは、「心のきよい者」への何よりの祝福は、そのようなきよい心を主なる神御自身が私たちに与えてくださるという恵みの事実です。私たちはきよい心を自分自身で作り上げるのではない。むしろ私自身が一番よく分かっているように、私の心の中は「きよい」どころか、本当に汚れと傷と痛み、罪の影響が前面に広がっているのを認めざるを得ません。どんなにきよくありたいと願っても、汚れた思い、悪しき企み、嘘、偽りの心、淫らな妄想が心の中をうごめくのを私は知っているのです。
 しかし幸いなことは、そのような汚れた罪の中にある私たちのために主イエス・キリストの十字架があったという事実です。結局ここにすべては行き着き、そしてここからしかすべては始まらないのです。詩篇51篇7節。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」。そして10節。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」。主イエス・キリストは御自身の十字架の贖いによって、今私たちの内に新しい、きよい心を造ってくださった。それはまさに新しい創造の御業です。一ヨハネ1章7節に「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」と約束されているとおりです。私のうちにはきよい心を生み出すものはない。けれども主イエス・キリストはその私のために十字架にいのちを捨ててくださり、その流された血潮によって私の罪をきよめ、新しい霊を授けてくださいました。そしてこの新しい霊を授けられた者として、私たちは神のきよさに与りつつ、真実に生きようと決心し、この世界に生きようと遣われていくのです。神を見る澄んだ眼差しをもってこの世界を見つめ、私がともに生きる人々の中で謙遜に仕えながら、きよい心と正しい良心、偽りのない信仰から出る愛によって生きるようにと主は私たちを祝福して今日もまたここから新しくお遣わしになります。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」と言ってくださる主イエスの真理の御言葉をしっかりと握り締め、その御言葉に生きる者とならせていただきましょう。そしてますます神を仰ぎ見、そして神が指差す世界を見つめ、その世界の只中で神を指差す私たちとならせていただきましょう。

 



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