シリーズ幸いに生きる06  2013/09/01
『あわれみ深い者への祝福』

マタイ5:7

 9月を迎えました。新しい月の始まりに、まずご一緒に主を礼拝して歩み出せる幸いを感謝します。一夏の恵みを覚えつつ、収穫の主に期待して、新しい歩みを始めてまいりましょう。この朝も主の御前に招かれた、愛されているお一人お一人の上に豊かな祝福がありますように心からお祈りいたします。

(1)「あわれみ深い」とは何か
 マタイ福音書5章の山上の説教において主イエス・キリストがお語りくださった祝福の言葉に聴き続けています。今日はその五つ目の言葉です。7節。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」。いつものように、まずはこの御言葉と並行するルカ福音書6章を見ておきますと、平地の説教の中にはこれと対応する御言葉は見当たりませんが、かわりに6章36節でこのように言われています。「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」。このように主イエスの言われる「あわれみ深さ」とは、父なる神の持っておられるお姿と関わりがあることがわかります。
 ここで「あわれみ深い」と訳されている言葉の意味を辿っておきましょう。聖書の中での使われ方を見てみると、大きく二つに分けられます。一つは「神から人へ」のあわれみ、いま一つは「人から人へ」のあわれみです。この言葉のもとになる動詞には基本的に「あわれむ、同情する」という意味があり、名詞としては「好意、親切、同情」さらには「慈善、施し」という意味も出て来ます。そしてこの言葉の意味を旧約聖書にまで辿っていくと、そこでは神のあわれみ、真実さ、誠実さをあらわす「ヘセド」という言葉に行き着きます。特に旧約聖書においては神のあわれみは、社会にあって弱い立場に置かれている人々、貧しい生活を余儀なくされている人々、やもめや孤児、虐げを受けている人々に対して示される神の好意、親切、同情であり、しかもそれは神が御自身の民を通して示されるものでもある。ホセア書6章6節に「わたしはあわれみは好むがいけにえは好まない」とあるように、隣人に示す同情こそがいけにえ以上に価値あるものとされているのです。
 マタイ福音書においては「あわれみ」はとりわけ重要です。先ほどのホセア書6章6節が二度も引用されており、これこそが律法の成就だといわんばかりに強調されているのです。一箇所だけ開いておきましょう。23章23節。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一は納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」。ここで主イエスが言われた、「正義とあわれみと誠実」こそ「しなければならないこと」という言葉をしっかりと心に刻みたいのです。
 
(2)あわれみに生きる者
 主イエスが「あわれみ深い者は幸いだ」、「あわれみ深い者こそ、祝福された人たちだ」と言われる時、そこでは具体的にどのような人の姿が見つめられていたのでしょうか。あらためて考えてみると、「あわれみ、同情」という態度は時に非常に難しいものだと思います。なぜなら、この「あわれみ、同情」という態度の中にしばしば強い者から弱い者へ、富む者から貧しい者へ、持つ者から持たざる者へ、力を持つ者から力なく虐げられている者へという傾斜が含まれるからです。そこに潜む「あわれみ、同情」の装いをした人間の偽善や虚栄、あわれみを施し、同情する自分に密かな優越感を感じ、それによって結果的に相手をその立場に固定してしまう差別の構造が生まれてくるのです。そのようなことに気づいた人たちによって「共に生きる」、「共生」という言葉がよく使われるようになりました。この言葉とて、それを口にすれば事足りるということではありません。先ほどの傾斜の構造のまま上流にある人が「共生」と言っても、それはひとりよがりな言葉に過ぎず、それでこの傾斜の構造が変化するわけではないのです。むしろそこでは「あわれみ、同情」を口にし、「共に生きよう」と言っている自分自身が、そのように果たして生きているのかと問う、自分自身への問い直しが必要なのではないでしょうか。
 先週月曜日から水曜日まで、信州上田の霊泉寺温泉で第21回信州夏期宣教講座が開かれました。私は昨年はじめて参加して講演をさせていただいたのですが、今回は北海道の奉仕があったため残念ながら集うことができませんでした。一番聞きたかったのは、明治大学の名誉教授で著名な憲法学者である笹川紀勝先生の「アルトジウスの共生思想」という講演でした。幸い、講師のお一人であった小海の水草先生がブログでそのポイントを紹介してくださっていました。アルトジウスというのは16世紀ドイツの法学者で、世界で最初に「共生」という言葉を用いた人だそうです。彼は聖書の人間観、そして宗教改革者カルヴァンの思想に教えられながら、「人間とは誰も自足しておらず、誰かの助けを必要としている存在だとし、そこから家庭や社会や国家を考えていったと言われます。そして水草先生はこんなまとめの言葉を記しておられました。「人間はお互いに欠けがある者同士であるからこそ、お互いを必要として補い合って共に生きていく。そもそも人は欠けがあるから互いに補い合うために、結婚し、家庭をつくり、社会という共生体を形成し、そして国家というものをもつくった。国家というのは私たちが共に生きるための装置なのである。なにか国とか権力というものが先にあって、民がそれに属するのでなく、民が共に生きるために国を形成したのである」。ちょうど北海道の行き帰りの飛行機で田中正造についての本を読んでいたのですが、その中でも田中の思想に「弱さをもつふつうの人間の立場に立つ」ことで社会を作っていくことが示されていて、とても重なり合うものを感じたことでした。この夏はずっと田中正造を読んでいるのですが、彼が水没させられる谷中村に移り住んでからの一連の思想の営みを「谷中学」と名づけています。それは無学で貧しい谷中村の人々に教えようとしていた自らの「上から」の傾斜に気づいた田中が、むしろ村の中に移り住んで、そこに生きる農民たちから学んだ生きることそのものの学、実学の姿です。
 「あわれみに生きる者」。それは自分自身もまた当然のことながら欠けを持ち、弱さを持ち、誰かの助けや励まし、支えを必要としながら、それゆえにこそ気づくことのできる弱さや痛み、悲しみや怒りに近づき、そこで生きることを決断していく姿なのでしょう。実際に主イエスの示されたあわれみの姿は、自分は安全な場所に身を置いて長い棒の先につけたものを差し出すような振る舞いでなく、自分には影響の及ばないことを確かめた距離感から、遠くの人々の姿を見てかわいそうだと涙を流すような振る舞いでもなく、実際に必要に応えて出かけていくことであり、人々の中に入っていくお姿だったことを忘れてはならないでしょう。新約学者アイヒホルツは言います。「人がもし神のあわれみによって生きており、また生きたいと思うなら、その心と手とを閉ざすことはできない」。

(3)あわれみを受けた者として
 今日の7節の御言葉は他の祝福の言葉に比べて一つの特徴があります。それは「あわれみ深い者」への祝福が「その人たちはあわれみを受けるから」と、自分が与えるものと同じものが返ってくると言われる点です。さらに「あわれみ深い」ということにはもう一つの大事な意味が込められています。それは「赦し」ということです。今日の御言葉を私たちが受け取る上で大切なのがこの「赦し」との結びつきです。そこでマタイ福音書で大切な御言葉が18章21節から35節の「自分は多くの負債を赦されたのに、友の僅かの負債を赦せなかった人」の譬えです。大変な借金をした人が精算の時を迎えて王に返済の猶予を求めます。すると王はこの男を「かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった」。ところが今度はこの男が、自分が貸しのある仲間を見つけると猶予を認めずに返済を求め、ついには牢に投げ入れてしまいました。それを知った王が彼に言った言葉が33節です。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」。 ここに今日の御言葉を受け取る大事な鍵があります。主イエスが「あわれみ深い者は祝福された者だ。なぜならその人たちはあわれみを受けるから」と言われたとき、そこでのあわれみ深い者とは、自分が最初にあわれみを示すことのできる心を持っていた人ということでなく、むしろ最初にまず自分が、主イエスのあわれみによって赦していただいた人ということです。そこに私たちは自らの姿を見るのです。
 古代から中世の教会の礼拝で唱えられた祈り、今もカトリック教会の礼拝やルター派の教会の礼拝でも用いられる祈りの言葉に「キリエ・エレイソン」という言葉があります。「主よ、あわれみたまえ」という言葉です。私たちの礼拝でいえば「罪の告白、悔い改め」にあたります。毎週の礼拝において私たちが主の御前に出るとき、まず為すことは自らの罪を告白し、主のあわれみにすがることです。そこで主イエス・キリストの十字架を仰ぎ、「あなたの罪は赦された」との宣言を受け、赦された者として「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と主の祈りを祈り、福音の御言葉を聴き、信仰を告白し、自らを主の御前に差し出し、そして人々のもとへと新しく遣わされていく。それが私たちの今為していることであり、今日から始まる日々の姿です。私たちはこうして主の御前に出るとき、自身がとても自分をあわれみ深い者だなどとは決して言えない。むしろ6節にあったように義に飢え渇く者の一人です。己の義に飢え渇き、世界の義に飢え渇き、ただただ義を勝ち取ってくださった主イエスの十字架を信じ仰ぐ者の一人でしかない。そうやって主イエスの義に飢え渇きながら、主イエスが十字架で勝ち取ってくださり、施してくださった赦しにすがり、ただただ主のあわれみによって罪を赦していただいた者としてあわれみに生きるのです。ただただ自分があわれみを受けた者として、赦された者であるがゆえに、慎ましく、しかし義務感によってでなく、あわれんでくださる主イエスの愛と真実をひしひしと感じながら、相手の中に自分を見つめ自分の中に相手を発見しながら、そうしてキリストを仰ぎつつキリストが与えてくださった愛の力に押し出されながら、ささやかな小さなあわれみの業に生きるのです。
 そのように生きる私たちを見て、主イエス・キリストは「幸いな人、祝福された人」と呼ばれる。その主イエスの眼差しこそ、真にあわれみ深く、同情に満ちた救い主の眼差しにほかなりません。ヘブル書2章16節から18節にこう記されるとおりです。「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」。この主イエスのあわれみを受けた者として、私たちもまた主のあわれみを携えて遣わされていく。そこにあわれみ深い者への祝福が鮮やかに証しされていくのです。

 



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