シリーズ幸いに生きる05 2013/08/25
『義に飢え乾く者への祝福』

マタイ5:6

 8月もいよいよ最後の週を迎えました。まだまだ残暑が続きますが、その中にも少しずつではあっても確かに秋の訪れが近づいていることを感じることができます。収穫の秋に向かって私たちも信仰の姿勢を整え、主を待ち望みつつ進んでまいりたいと願います。
 この朝も主の御前に招かれた、愛されているお一人お一人の上に豊かな祝福がありますように心からお祈りいたします。
 
(1)「義」とは何か
 山上の説教において主イエス・キリストがお語りくださった祝福の言葉に聴き続けています。今日はその四つ目の言葉です。6節。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」。ここでもまずはこの御言葉と並行するルカ福音書6章を見ておきます。21節。「いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから」。ここではマタイにある「義に飢え渇く者」という言葉が「飢えている者」となっています。ちょうどマタイ5章3節で「心の貧しい者」となっているのが、ルカ6章20節では「貧しい者」となっているのと似ています。ルカ福音書の方がストレートに「貧しい者」、「飢えている者」と言って社会の中で困窮している人々を示すのに対して、マタイ福音書はそれに「心」や「義」という言葉をくわえることによって、かえってこれらの言葉を信仰の内側の問題に狭めてしまい、精神化させてしまって、主イエスが語られた本来の言葉のインパクトを削いでしまっているとも言われるのです。
 けれども「義に飢え渇く」ということが内面化に繋がるのか。そのあたりを丁寧に考えてみる必要がありそうです。ここでまず問題になるのは主イエスが言われた「義」とは何か、ということです。「義」というのは旧約から新約を貫いて、聖書の中でも最も重要な言葉の一つといってもよいでしょう。端的に言って「義」とは主なる神の義しさであり、またその義なる神が私たちに求められる義しさです。けれども罪ある私たちはその義を満たすことができません。そこから自らの為す善き業によって自らを義とすることができるのか、それともまったく神の御前に義なき者である私のためにキリストが十字架の贖いによって勝ち取ってくださった義に与って私たちが義と認めていただくのか、そこにルターをはじめとする宗教改革者たちの信仰の戦いがあったのです。私たちは自らの行いによって自らを義とすることはできず、ただ主イエスを信じる信仰によって義とされる。これを教理の言葉で「信仰義認」と呼びます。これは私たちの信仰にとって「立ちもし、倒れもする」ほどの決定的に重要な事柄です。
 ただしこの信仰義認の教えが強調されて行くにつれて、教会の歴史の中で「義」の問題は私たちにとってまったく受け身の事柄となり過ぎる傾向、あるいはまたまったく個人的な問題となり過ぎる傾向が出て来てしまいました。「義」は神からただ受け取るものであって私が何かをすることは必要ないと考えたり、あるいは「義」の問題をまったく自分の救いの問題とだけ直結させて、内面の事柄に終始させるようになっていってしまったのです。その結果、この社会における様々な罪や不正、義が曲げられてしまっていることについて無関心であったり、傍観者となって、もっぱら自分の心の内の平安や慰めだけを求めるような信仰が出来上がってしまっていったということもあるのです。

(2)「義に飢え渇く」とはどういうことか
 けれども主イエスが山上の説教で語られた「義」とは決してそのような内面の問題ではありません。旧約聖書を読むと神の義は絶えず社会の正義や公正と結びついています。たとえば預言者アモスの言葉を読むと、そこには「公義」と「正義」を求める神の言葉が幾度も語られていることに気づきます。アモス書5章24節に「公義の水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ」とあるとおりです。「公義」とは法における公正さをあらわし、「正義」とは神の義に基づく正しさと説明されます。そこでは神の御前での正しさが、社会における正しさと堅く結びついているのです。主イエスが語られた「義」、それは私が追求する私の義にとどまらず、むしろ神が私たちを通してこの地に現そうとなさる神御自身の義なのです。
 主イエスはこの「義」に飢え渇く者は幸いだ、祝福だと仰いました。「義人」が幸いがどいうのでなく、「義に飢え渇く者」こそが幸いな人、祝福された人だというのです。「飢える」こと、「渇くこと」が祝福だとは私たちはなかなか思えません。先週一週間、この御言葉を思い巡らしつつ、一方で世の中の出来事を見渡してみると本当に「正義」はどこへいったのか、「公義」はもはや力を持たないのか、という思いに打ちのめされるような心持ちになります。正しいことがどんどん曲げられ、正しくないことがどんどん力を帯びていく。法も正義も秩序も良心も平和も、謙虚さも慎みも節度も弁えも、いと小さい者への顧みや弱い者への配慮や虐げられている者への寄り添いも、自分と異なる境遇や立場に置かれている人々のことに想像を働かせることも、そういう神のかたちに作られた人間の大切な機能がどんどん失われ、社会全体の底が抜けてしまっているかのように思えてなりません。
 けれどもそのような時代と社会の中で、なお絶望せず、失望せず、あきらめることをせず、なお義に飢える者、渇く者、そのような者こそ幸いな人たちだ、祝福された人たちだと主イエスは言われるのです。考えてみると大変しんどいことです。しかし主イエスはこの地上に義が満たされていない現実があることをよくご存じで、その上で義を切望し続け、渇望し続ける。どれほど正義が隠され、公義が曲げられてもなお、神の義が必ずや成し遂げられる日を望みつつ飢え渇き続ける者たちを幸いだと言ってくださる。そこではキリスト者のあり方も、その信仰も、それが観念的なもの、内面的なものにとどまるのか、それとも生き様と結びついた真に告白的なものとなるかがチャレンジを受けていくでしょう。主イエスは7章21節でこう言われました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」。まさにここでは信じるがゆえの「行い」が問われます。神の義に飢え渇く者は、そこで飢え渇きの中からさらなる新しい地平へと歩みを進めるように主イエスによって招かれ、導かれ、押し出されていくようになるのです。

(3)義に満たされる幸い
 では、そのようにして私たちが導かれていく新たな地平とはどこでしょうか。主イエスは義に飢え渇く者に与えられる祝福を次のように言われます。「その人たちは満ち足りるから」。この翻訳では何となく自然に満ち足りてくる、と言う印象になりがちですが、直訳すると「満たされるであろう」、「満ち足りるようにされるであろう」という受け身の言葉です。つまりそこでは神が満たしてくださる。満ち足りるようにしてくださる、という約束が籠められているのです。主なる神は飢え渇く者を満たしてくださる。これは私たちが一昨年の教会の年間主題で繰り返し教えられたことですが、しかしあらためて今朝、私たちが「義に飢え渇く」ということを教えられるとき、「飢え渇く」ということはそこに義を求める振る舞いが引き起こされることを覚えたいと思うのです。それは私たちの信仰の告白に繋がる実践です。ゲオルグ・アイヒホルツという先生がこの御言葉について次のように記しています。「正義への飢えと渇きには、ある行動的な要素が含まれている。それは決して沈黙させられない正義への求めであり、義のために尽くすことである。そしてそこからしてキリスト者は、この世における義の問題に自ら参与するように召されていると言えるであろう。・・・キリスト者は明らかに、ものごとをあるがままに受け取るような現状肯定論にはそう簡単になれないであろう。彼は、よりよき義へのあらゆる進歩を歓迎することができるはずだし、そうしなければならないであろう。単なる文字の上での正義などに満足しているわけにはいかない。とりわけ彼は、その権利がこの世では制限され、見過ごされ、放置されているような人々の側に、いつも自らを置かなければならないであろう。彼は、弱者・卑しき者・侮られている者の、当然の代弁者であろう」。
 このように義に飢え渇く者とは決して静かに黙って口を噤んでいる者ということでなく、むしろその義が満たされることを信じるがゆえに、声を挙げ、手足を動かし、汗を流してその義の満たされることを信じて生き、働く者です。そのような者たちを通して神の義はいよいよ鮮やかに示されるのであり、そこにこそ主なる神は御自身からの祝福として私たちの中に義を満たしてくださり、満ち足りるようにしてくださり、満ち溢れさせてくださるのです。私たちは満たしてくださるお方を信じ、待ち望むがゆえに、自らもまたその希望が実現となる日を目指して喜んで義のために働く者とならせていただきたいと願います。主がもたらしてくださる正義と公義、それはまさしく主イエス・キリストにおいてすでに実現し、やがて再び主イエスがお出でになるその時に向かっていよいよ成就していきます。この主イエスの治められる正義と公義の実る神の国の姿を仰ぎ、なによりもそこで私たちが待ち望むべきお方、真の義なるお方であられる主イエス・キリストをしっかりと見つめて進んでまいりましょう。
 預言者エレミヤは、かつて正義も損なわれ、公義も喪われたユダの地においてこう預言しました。エレミヤ書23章5節、6節。「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は『主は私たちの正義』と呼ばれよう」。「義に飢え渇く者」、それは他ならぬ主イエス・キリスト御自身を渇望する者です。今まさに私たちは正義の主なるイエス・キリストを渇望しています。本当にイエス様がこの地を憐れんで、守って、助け出してくださらなければ、私たちではどうにもなりません。けれどもそうやって飢え渇く者たちに今日の確かな希望の言葉が語られていることに本当に励まされます。だからこそまた私たちは今日から日々を生きていくことができるのです。「義に飢え渇くあなたたちは幸いです。祝福されています。あなたたちは満たされるからです」。

 



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