シリーズ幸いに生きる03 2013/07/28
『悲しむ者への祝福』

マタイ5:4

 7月も終わりを迎えました。先週の参議院選挙の結果は大方の予想通り、ということでしょうが、選挙期間中は敢えて前面に出されなかったいくつかの重要な、そして私たちが懸念するような動きがさっそく始まっています。聖書は上に立つ権威のために祈るようにと私たちに勧めます。どのような為政者であっても神の許しがなければその地位に就くことはないと信じて、国の為政者たちが正しい政治、正義と公正、いのちと自由、平和が保たれ、小さい者たち、弱い者たちが大切にされる社会を祈り求めてまいりたいと願います。
 確かに先行きの不安や心配が私たちを揺さぶり、恐れに取り囲まれそうになります。しかしこの朝も、生きておられる主なる神が私たちに語ってくださる。「恐れるな。わたしがあなたの神だ」と言われるお方が、私たちに確かな言葉、力強く、愛に溢れ、慰めに満ちた祝福の言葉を語ってくださいます。その言葉に聴いて、そしてその言葉に生かされる私たちとならせていただきましょう。皆さんに主の祝福が豊かにありますように祈ります。

(1)私たちの悲しみ
 主イエス・キリストが山の上で弟子たちに、そして群衆たちに語られた幸いの言葉に聴いています。今朝はその二つめの言葉です。4節。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」。3節の「貧しい者は幸い」と並んで、非常に印象的な、そして逆説的な言葉です。時には躓きすら与えかねない言葉でもあるでしょう。特に今悲しみの只中にある人からすれば「どうして悲しむ者が幸いなどと言えるのか」と反発を受けそうな言葉です。いったいこの言葉をどのように受け取ればよいのか。ここでもルカ福音書6章の平地の説教の言葉も見ておきましょう。ルカ福音書6章21節の後半にこうあります。「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」。ここでルカが記す「いま」と「やがて」の対比が重要になってくるのですが、これは後で改めて触れるとして、ここでマタイの「悲しむ」とルカの「泣く」は違う動詞が使われています。けれどもその意味するところはほぼ重なり合っていると言ってよい。悲しむ、涙する、嘆く、悲嘆にくれる。そういう経験を指す言葉です。私たちも人生を生きる中で幾重にも積み重ねられていく悲しみ、痛み、涙の経験。それがここでも語られているのです。
 「グリーフワーク」、「グリーフケア」という言葉があります。大切な人と死別したり、別れを経験した人は悲嘆に暮れ、心に大きな喪失感を抱くものですが、その悲嘆をともにしながら回復への道を時間を掛けて少しずつ歩んでいく癒しの道筋のことを表すものです。私たちの教会でもこの数年、愛する人を天に送り、別れを経験された兄姉がたが幾人もおられます。教会は決まった年数ごとの儀礼的な祭事をすることはありませんが、折に触れて記念会を開きますし、毎年11月最初の日曜日を「召天者記念礼拝」と定めて、午後には墓前礼拝に出かけます。一緒に悲しみを悲しみ、痛みをともにし、悲嘆に暮れる涙の傍らにあり続けることで、その悲しみを少しでも共有する。このグリーフワークの時間を十分に与えられることなく無理矢理に自分自身を奮い立たせたり、悲しみを心の奥底に封印して「もう大丈夫」と言ってしまうと、いつかその悲しみが私たちの心の深いところで疼き続き、いつまでもその痛みから真の意味で自由にされることがない、ということが起こってきます。キチンと悲しむべき時に悲しみ、涙すべき時に涙すること。それは私たちが時間を掛けて回復していく道を辿る上での必要な営みなのです。

(2)悲しむ者は幸い
 どうしようもないほどの悲しみの中に身を置く経験。涙も枯れるほどの経験、生きる気力も失せてしまい、いっそ自分の存在を消してしまいたいとさえ思う、そんな悲嘆の経験をくぐり抜ける私たち。主イエスはそのような私たち、悲しみ、涙、悲嘆を経験していく私たちに、「あなたは幸いだ」、「あなたは祝福されている」と言われる。それは主イエスは私たちが私たちのこのような悲しみ、涙、悲嘆と無関係なお方ではないことの証しです。
 昨年の夏に信州夏期宣教講座に招かれてお話しした講演がブックレットになりました。他の講演者の先生方の内容もいずれも貴重なものですのでぜひ手にとっていただきたいと思いますが、私はその中で「苦難」の問題が私たちの信仰の中にどのような位置を持つのかということについて触れました。そのことを少しご紹介しておきたいと思います。こういう内容です。
 「苦難の只中に身を置くことなしには見出すことのできない神のあわれみ、神の慰め、神のいやし、神の救い、それらすべてを賜る神御自身のお姿があるのではないでしょうか。それは苦難を避け、苦難から逃げ去るだけの信仰ではなく、苦難の只中で生ける神を仰ぐ信仰と言えるかも知れません。『神よ、なぜ』と問わざるを得ないような出来事の只中で、神に怒りや嘆きや訴えの声を挙げるほかないような状況において、しかしその意味を悟ることができず、神の御心がまったく分からない中で、それでも主の御前に身を置くことをやめず、苦しみを苦しむこと、悲しみを悲しむこと、痛みを痛むこと、嘆きを嘆くこと、怒りを怒ること。それらが位置づけられる場所が私たちの信仰の世界の中に見出せないとすれば、私たちの信仰は実に底の浅いものとなってしまうように思います。むしろ私たちは苦難の只中に身を置くところで、まさにその極限のようなところで、十字架から復活への道を辿られた御子イエス・キリストと出会うことになるのではないでしょうか。『苦難の神学』というときの『の』は、苦難の問題を信仰の世界の外に追いやることなく、神の言葉によって考える、苦難を対象とした神学の姿勢を意味します。この場合、私たちは苦難の問題をいったいどこから考えるのでしょうか。私たちが苦難を考える時に大切なことは、これを一般的な事柄として捉えるのではなく、どこまでも御子イエス・キリストに固着して考え抜くということです。私たちの苦難はキリストの苦難と無関係にあるのではなく、死もまたキリストの死と無関係にあるのではありません。私たちはもはや『キリストにあって生き、キリストにあって死に、キリストにあってよみがえらせられる』者とされているのであって、苦難から栄光へと進まれた十字架と復活のキリストとの結合においてのみ、私たちは苦難の問題と向き合うことができるのであって、御子イエス・キリストの栄光のお姿は十字架の苦難をくぐり抜けてこその栄光のお姿であることを忘れてはならないでしょう。よみがえられた御子イエスの手には釘の跡、脇腹には槍の跡が残っていた事実の意味を考え抜くことが必要です。それは決して容易いことではありませんが、しかし私たちの信仰の営みにとって必須の経験でもあるのです』。
 要するに私たちがこの地上において経験する痛み、苦しみ、悲しみ、涙のすべてが、どれひとつとっても主イエス・キリストと無関係にあるのではないということです。イザヤ53章3節でこう言われている通りです。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」。主イエスは悲しみの人として生きてくださり、その全てを背負って十字架に死んでくださり、そしてよみがえってくださった。このお方に私たちは結び合わされているので、主イエスの慰めにすがるほかないほど深い悲しみ、痛み、涙、悲嘆をもっているからこそ、このお方からの慰めをもまた受け取ることができるのです。

(3)悲しむ者への祝福
 主イエスがくださる悲しむ者への祝福。それは悲しむ者に慰めが与えられるという祝福であり、いま泣いている者がやがて笑うことができるという祝福です。それはまさに私たちのもとに主イエス・キリストによる救いがやって来る、という祝福なのです。このことを旧約聖書イザヤ書の預言の言葉で確かめたいと思います。イザヤ書35章10節。「主に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」。救い主イエス・キリストが来られたということは、楽しみと喜びがやって来たということであり、もはや悲しみは逃げ去っていくのだと預言者は語ります。そして同じくイザヤ書61章2節、3節でも次のように言われます。「すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わり喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」。これは終わりの時、終末における救いの完成の姿を先取りした預言の言葉ですが、そこでも「悲しみ」の代わりに「喜び」が、人間の手による安っぽい喜び、かたちだけの、ポーズだけの慰めや励ましのようなものでなく、イエス・キリストが十字架で勝ち取ってくださったまことのいのちの輝きからあふれ出す喜びが与えられると約束されているのです。
 このことはかつて読み通したヨハネ福音書16章22節でも語られていました。「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」。そして最後にヨハネ黙示録21章4節。「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」。この「やがて」の時に成就し、完成する悲しみへの最終的な解決があることを私たちはすでに知らされ、信仰によってそれをすでに得ている者として、その慰めに生きる者とされていることこそが、悲しむ者に主イエスがくださる祝福の中身そのものにほかなりません。今、悲しみの中にあり、涙し、悲嘆に暮れている者たちに、主イエスは御自身を与えてくださり、御自身の死と復活をもって私たちに真の慰め、真の励まし、真の力を与えてくださいます。私たちが味わうどんな苦しみ、痛みも、主イエスは決してご存知ないということがない。私たちの痛みを知り、担ってくださり、そして救いを与えてくださるお方こそが主イエス・キリストなのです。
 今年、ハイデルベルク信仰問答が生まれて450年を迎えたことを受けて、10月の終わりに記念の研究会、講演会を計画していますが、いつでも思い起こしたいのがやはりこの信仰問答の第1問です。「問:生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答:わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです」。
 悲しむ者を慰めてくださるイエス・キリストの慰めは、ただ私たちの傷を上からそっとなでるだけの、ただ一時その痛みや涙を忘れさせるだけの、その痛みから目を逸らせるためだけのものでは決してありません。そうではなく、キリストの慰めは私たちをキリストのものとし、キリストにあって生きる者とする具体的な力です。そこに悲しむ者への祝福があります。この悲しみ、この涙、この悲嘆に暮れる経験を通して私たちはキリストに結び合わされ、ますますその結びつきは堅く確かにされていく。そのような私たちに向かって主イエスは今朝もこう宣言してくださるのです。「悲しむ人よ、泣いている人よ、悲嘆に暮れている人よ、あなたは祝福されています」。この祝福をいただいた者として、やがて笑うときがくるという約束をいますでに現実のものとさせていただいて、悲しみの只中にあってもなお神の祝福を諦めずに信じる、疑わずに信じる。そこにもたらされる真の慰めにあずかってまいりましょう。

 



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