シリーズ幸いに生きる02 2013/07/14
『心の貧しい者』

マタイ5:3

 七月第二の主の日の朝を迎えました。昨日からCSのわくわくキャンプが行われて、23名の子どもたちが集い、賛美と御言葉、楽しい交わりの時を過ごしました。このような豊かな機会が与えられたことを主に感謝します。私たちもこの朝、主との豊かな交わり、主にある互いの交わりを感謝して、この礼拝から新しい歩みへと遣わされて参りましょう。皆さんにこの朝も主イエスからの豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)幸いな人
 先週からマタイ福音書5章おいて主イエスが語られた山上の説教の冒頭、「何々の者は幸いです」との御言葉から、主イエスがくださる真の幸いにあずかっていこうと願いつつ御言葉に聞き始めています。今朝はその最初、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」との御言葉から教えられて参りましょう。
 主イエスはここで人々を指して「幸いだ」と言われるとき、そこでの「幸い」とはいかなることなのでしょうか。ここで「幸い」と訳される「マカリオイ」と言う言葉の用例を辿っていくと、そこでは旧約聖書の言葉との結びつきが見えてきます。詩篇1篇1節で「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」と言われる幸いな人、また詩篇32篇1節で「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は」と言われる幸いな人。そのほかにも詩篇40篇、119篇、128篇などに繰り返し「幸いなことよ。これこれこういう人は」と言われます。その幸いを受け継ぎながら主イエスはここで同じように「幸いだ」と語っておられるのです。
 そこでこの「幸い」とはどういうことかを考えていきますと、そこには三つの特徴があると言われます。第一はこの幸いは主なる神との関わりの中での幸いであって、前回も学んだようにここでの「幸いな人」とは「神に祝福された人」ということです。幸いというのは神から与えられ、受け取るものだ、というのです。自分で勝ち取っていくもの、自分で選び取っていくものでなく、神から与えられる祝福をいただく人、それをもって「幸いな人」だというのです。第二には、この幸いは主イエス・キリストにある幸いだということです。これも前回学んだように、ここに記されている事柄は一見すると私たちの考える幸いの受け取り方とは正反対のようなものです。しかしこれらが「キリストにある」ときに幸いとなってくる。それほどに私たちがキリストのものとされているというのは決定的な出来事です。私たちはキリストから離れて「幸い」ということを考えたり、扱ったりすることはできません。もし私たちがキリストと無関係に幸いを求めるならば、その求めているものそれ自体が本物の幸いであるか、この世の過ぎ行くはかない楽しみであるかがよりはっきりとしてくるでしょう。キリストとの結びつきなしには私たちが決して味わうことのできないもの、キリストに従う者に与えられるもの、それがイエス・キリストにある幸いなのです。そして第三には、この幸いが今の時の悲しみや困難、涙の経験にもかかわらず、やがて与えられる幸い、終わりの時にもたらされる終末的な幸いであるということです。今はその出来事の意味が分からないときがあっても、やがてその時の持つ意味がはっきりと分かるようにされていく。それはまた終末の約束を伴った希望に支えられる幸いであり、それにゆえにこの希望をもって今日を生きることのできる現在の幸いでもあるのです。

(2)心の貧しい者
 このような「幸い」、「マカリオイ」を与えられる第一の人として主イエスが挙げておられるのが「心の貧しい人」です。この言葉を直訳すると「霊において貧しい者」となるのですが、その意味するところは、主なる神以外によりたのむものを一切持たない人、自分のうちに誇りとするもの、頼みとするものがまったくない人ということです。要するに主なる神にしか頼るものを持たない人。神の御前に空っぽであることを認める謙虚な心、神の御前に施しを求めるほかない人。そういう人を主イエス・キリストは幸いな人と呼ぶ。実に逆説的なことですが、それだけにまたインパクトのある言葉です。私たちは自分には足らないところがある、弱いところがある、劣ったところがあるということ認めるのはやぶさかでありませんが、しかしそれによって神の御前に自らがまったく空っぽであることを認めていくのは、時に困難を伴います。それほどに私たちのうちにはある時にはあからさまに、ある時には密やかな仕方で、自分をなにがしかの存在であると見せたいと考える虚栄心や高ぶり、プライドがあるのだと思います。自分には何もないと認めることには勇気がいります。たとえそれが現実だとしてもです。しかし自分の空っぽの両手を差し出す時に、そこに主イエスが大いなる祝福をもたらし、それを握らせ、さらにはそれをもって私たちを祝福の分配者にしてくださることをも私たちは知っています。
 あの五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で養われた主イエスは、そのパンと魚の分配を弟子たちに任せられました。彼らは自分たちはこの群衆を養う術を何も持っていなかった。しかしその空っぽの手を主イエスの御前に差し出したときに、主イエスは祝福して裂いたパンと魚を彼らの手に託し、弟子たちはそれを持って群衆たちの中を歩き回り、配っても配っても尽きることのない主イエスの祝福を自らが体験したばかりか、その祝福を分かち合う祝福にもあずかるものとなっていった。弟子たちもまた確かに心の貧しい人々でした。またペテロはエルサレムの神殿で、生まれつき歩くことのできない一人の男から施しを求められたとき、彼を見つめて言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエスの名によって、歩きなさい」。この言葉を言ったときのペテロの心中を思います。「金銀は私にはない」と言うのは勇気のいる言葉です。自分は何も持っていないと告白するのです。正直な言葉です。しかももともと彼は金銀を持っていない人ではなかった。それを置いて主イエスに従って来た人です。かつては持っていた。しかし今はない。しかしペテロはそれを恥じることがなかった。むしろすべてを置いて金銀とも縁遠い人生となったとき、主イエスはペテロに金銀にまさる価値あるものを与えてくださいました。それが主イエスの御名の力です。「わたしにあるものを上げよう。ナザレのイエスの名によって」と言ったとき、彼もまた心の貧しい者の一人であったのです。
 パウロも同様です。今晩も夕拝で学びますが、彼は当時の最高の学問、知恵を身に着けた宗教指導者であった。将来も約束されていて、やがてはユダヤ社会を背負って立つような人物でした。しかしそんな彼が復活の主イエス・キリストと出会った時に、彼はキリストのために何も持たないような者となりました。すべての過去を捨てて、キリストがすべてという人生を生きる者となった。けれどもパウロを支えたのは悲壮感ではありません。「こんなに犠牲にした」と捨てたものを密かに誇る心でもありません。ピリピ書3章によれば、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、これらいっさいをちりあくたと思っている」と言った。キリストのすばらしさに圧倒されたとき、パウロもまた心の貧しい者の一人とされたのです。
 
(3)天の御国の約束
 私たちはなかなか自分の手に握り締めているものを手放すことができません。それを離してしまうと自分の人生の価値ある物が失われてしまうと思って不安になるのです。けれども主イエスはこの朝、私たちにも語りかけておられます。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」。「霊において貧しい者」となる。主なる神以外によりたのむものを一切持たず、自分のうちに誇りとするもの、頼みとするものがまったくないことを認め、主なる神にしか頼るものを持たないと決心する。そのために握っている手を開き、手放すことのできないでいるあのことから手を離し、解放され、そして空っぽになった両手を主イエスの御前に差し出す時に、主はそこに最も素晴らしい祝福を託してくださるのです。「天の御国はその人たちのものだから」と言われるとおりです。
 宗教改革者ルターが山上の説教を説いた説教の中で次のように言っています。「キリストはキリスト者に対してここで別の新しい説教をもたらしてくださる。すなわち、事がうまく運ばず、貧しさに苦しみ、富も力も名誉もよい日々も持たなくても、人はなお幸いであり、一時的な報酬は持たないが、天国で十分に持つ別の永遠の報酬を持っていると教えてくださるのである。・・・一時的なものに確信や慰め、信頼を置かず、それに心を委ねず、マモンを自分の偶像としないということである」。過ぎ行くものを握り締め、しがみつくところから自由にされ、天国での永遠の報酬をいますでに握らせていただいている現実に目を開かれて生きる時、私たちは自らを神の御前に何も持たない者であることを何ら恥じることなく、むしろ一番よいものを握らせていただいている現実を感謝して生きることができるのです。
 ルターは1546年2月18日に63歳で地上の生涯を閉じますが、彼が最後に書き残したメモにはこれまでの信仰の生涯を振り返り、自分はまだまだ聖書の世界を十分に理解したとは言えないという趣旨の言葉を残した後で、最後に「私たちは乞食である。これはまことだ」と記しました。ルター学者の徳善義和先生が著書の中で、「私たちは神の乞食である。ここにはすべてのものを神からのみ与えられて、それのみに頼って生きていく。そう言う彼の信仰の姿勢が現れている」と記しておられました。実際にルターが若き日に過ごした修道会は「托鉢修道会」といって自らが取るに足らない者であることを学ぶため、乞食のように家々をまわって物乞いをしながら歩くという修道生活をしていました。まさに自分の手をからっぽにして神に満たしていただく、そこに天の御国、父なる神の御支配を日毎に経験して生きることを学んでいったのです。
 私たちは今日、実にたくさんのものに取り囲まれて生きています。それでもなお足りないかのようにしてさらなる豊かさを追求し、そのためには人々の健康も安全も、子どもたちの将来さえも後回しにしても構わないというような時代になっています。そんな中で神の乞食のようになって生きるという決断は大きなチャレンジでしょう。けれども私たちが本当に貧しい者となって生きるとき、神にすべてを明け渡して空っぽのような手を差し出すときに、そこから天の御国の祝福が始まる。この大きく豊かでのびやかな神の国の祝福にあずかって、主イエス・キリストのくださる幸いに生きる者とならせていただきましょう。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.