シリーズ幸いに生きる01  2013/07/07
『幸いに生きる』

マタイ5:1-12

 新しい月、7月を迎えました。一年も半分を過ぎ、後半の歩みが始まってまいります。すでにいろいろなことがあって順風満帆とは行かない私たちの人生の旅路ですが、絶えず私たちの上に昼は雲の柱、夜は火の柱となって行くべき道を導いてくださる臨在の主を仰いで、新しい思いで主に従ってまいりましょう。この朝も皆さんお一人一人の上に、主の豊かな祝福があるように祈ります。

(1)マタイ福音書5章を読む
 先週でヨハネ福音書を読み終えまして、今朝から新しく御言葉に聴こうとしています。どの御言葉から語るべきかとあれこれ祈り考えまして、今回は少し変則的ですが、マタイ福音書5章から7章において主イエスが語られた御言葉、その中でも5章1節から12節にある八つの「幸い」の言葉を取り上げて、『幸いに生きる』というシリーズでご一緒に御言葉と取り組んでいきたいと願っています。今の予定では年内、アドベント前までの比較的短いシリーズになると思います。
 マタイ福音書5章から7章にかけて語られる主イエスの御言葉は、おそらく四つの福音書の中で、あるいは新約聖書全体の中でも最もよく知られた言葉でしょう。聖書そのものを読んだことのない方でも、ここにあるいくつかの言葉についてはおそらく耳にしたことがあるのではないでしょうか。それほどに有名な箇所ですので、これについて書物も実にたくさんあります。私も今回の説教準備のためにマタイ福音書音の注解書を揃えてみましたが、15、6冊になりました。それでもほんの一部に過ぎません。そういういわばポピュラーな御言葉というのは、しかし実際に丁寧に読んでみるとなかなか奥深いものがありそう簡単に意味を受け取ることができるものでない、ということも言えるのです。そこで今回はマタイ福音書の中でも特に5章、さらにその1節から12節に集中して御言葉に聴きたいと願っているのですが、それは私たちが主イエスの与えてくださる「幸い」に生きる者とならせていただきたいと願うからです。古くからこの主イエスの御言葉は「山上の垂訓」と呼ばれてきました。山の上で先生がありがたい訓示を垂れる、というイメージです。けれども今ではこの箇所を「垂訓」と言わず、「山上の説教」と呼ぶようになりました。主イエスはここで道徳や倫理の教えを訓示されたのではない。主イエスはここで説教をされたのです。「垂訓」でなく「説教」である。これはこのシリーズ全体に関わる大切なポイントです。ぜひ心に留めておいていただきたいと思います。
 そこで今朝は1節から12節を読みます。これは新改訳第二版から第三版で大きく変わった箇所の一つです。「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。柔和な人は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです」。

(2)幸いに生きる
 ここで主イエスが語られる「幸い」は、私たちが普段考える幸いのイメージとは随分かけ離れたもの、あるいは正反対のものではないでしょうか。貧しく、悲しみ、飢え渇き、迫害される人のどこが幸いなのでしょうか。むしろそれは不幸な姿であり、そのような状態から脱することこそが幸いなのではないでしょうか。今の世の中も皆、幸せになりたいと願う。当然の願いです。ではどうしたら幸いになれるのか。金持ちになることだ、貧乏を脱することだ。そう考えることがあるでしょう。悲しみがなくなることだ、毎日おもしろおかしく笑って過ごすことだと考える人もある。溢れるほどのモノに囲まれて大量消費することだ、負け組でなく勝ち組に残り、弱い者を踏み台にしてでも競争に勝ち残ることだ、全体の利益のためには少数は我慢し、口を閉じていればよい。そうやって「幸せ」を手にしようとしているのが今の私たちの社会の姿でしょう。けれどもそれで本当に幸せな国になったのか、美しい国になったのか。政治家たちが自画自賛するような誇らしい国になったのでしょうか。
 私たちの内にも外にもますます貧しさは蔓延しています。お金の貧しさもそうですが、それだけでない人々の精神の貧困があります。今なお大きな怒りや悲しみを抱えたままじっと堪え忍んでいる人々がいます。いのちとお金を天秤にかけて、目先の豊かさ、お金を優先する社会となっていることにあきらめの空気が漂っています。迫害を受けている人々がいます。良心の自由の声を挙げたために仕事を奪われ、尊厳を踏みにじられている人々がいます。口にするのも憚られるような罵詈雑言を浴びせかけられているこの国に住む隣国の友たちがいます。虐げられ、痛み悲しみ、そのまま忘れ去られ、捨て置かれるままにされている人々がいます。いよいよ参議院選挙が始まりましたが、与党自民党の選挙公約を見ると経済の話ばかりが前面に押し出され、本当の目論見である原発問題や憲法改正問題は後ろに隠されています。ある意味で私たちの足下を見透かされているのだろうと思います。結局はあなたたちがほしいのはお金でしょう。経済的な豊かさでしょう。そういうささやきが聞こえてきます。本当に私たちは何をもって「幸い」と言うのかが真剣に問われているのです。
 しかし主イエスが語られたのは私たちが期待するような幸せの上書きではありません。主イエスが語られたのは新しい幸いであり、神の国に生きる者の幸いです。宗教改革者カルヴァンは「イエス・キリストは、弟子たちに十字架を負うことに慣らすために、肉体にとって安楽であり、そして繁栄している者が幸福であるというよこしまな意見をただしておられる。・・・悲惨の只中でも必ず幸いであると確信するとき、十字架やすべての苦悩の苦さが私にとっては軽やかであり、さらに快く思われるという唯一の慰めがある。なぜならば、私たちの忍耐は神によって祝福されるからであり、また簡潔に言えば、喜ばしい結果を伴うからである。この教えは常識とは非常にかけ離れていることを私は認める。しかし、イエス・キリストの弟子たちは、この世を越え、そして肉体を愛することを越えたところに彼らの幸福を置くという哲学を学ばなければならない」。このように主イエスの語られた幸いとは、私たちの地上の価値観を覆す新しい価値観、神の国の価値観によってはかられるものです。そこに私たちは足場を据えて生きるのであって、そのためにこそ主イエスの御口から出る御言葉に聴くことが必要なのです。

(3)幸いの言葉、祝福の言葉
 そこであらためて山上の説教の全体像を見ておきたいと思います。山上の説教はその前後のつながりの中で見ることが重要です。1節、2節に「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」とあるように、この場面はその前の4章に続いています。4章では主イエスが荒野での誘惑を退けられた後、弟子たちを呼び出され、そして群衆たちのもとに遣わされていった様子が記されますが、そのポイントとなる言葉が23節です。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」。そして25節では「こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう側から大ぜいの群衆がイエスに付き従った」とあってその群衆たちが今、弟子たちとともに山の上に集まっているのです。
 さらに5章から7章にかけて山上での説教が語られた後、今度は8章から9章には主イエスの数々の病気の癒やしや悪霊の追い出しの御業が記され、そしてポイントとなる御言葉が9章35節です。「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた」。そしてその後、10章では十二弟子を伝道に遣わされるのです。このようにこの一連の箇所は4章で十二弟子の招集、群衆たちの姿、5章から7章で主イエスの言葉、8章から9章で主イエスの御業、9章の終わりで再び群衆たちの姿、そして10章で十二弟子の派遣という一つの枠組みが作られています。問題はそのような枠組みがどういうことを私たちに物語っているかということです。そこでもう一つのことを考えておきましょう。それはこの主イエスの説教の聴き手は誰かということです。もう一度、1節、2節を注意して読みましょう。「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」。ここで主イエスは説教を始められるにあたって「群衆を見て」おられますが、その後、山に登って座ったときには「弟子たちがみもとに来た」と言われ、そして2節で「彼らに教えて言われた」と記される。そうするとこの「彼ら」とは弟子たちだけのことではないか、とも読み取れます。実際に、教会は長い歴史の中でこの山上の説教が示す高い倫理、生き方の姿勢はすべての者たちに求められているのでなく、特別に主の弟子たちにだけ語られたものとして読んできた歴史があります。けれども終わり、7章28節をみると「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた」と記されます。
 つまり、この言葉は主イエスが弟子たちに向かって語りながら、しかしそれと同時に主の弟子たちを取り巻いている多くの群衆たちにも語られている。もっと言えば、主イエスはこの幸いの言葉を弟子たちに向けて語りながら、この弟子たちの背後にいる多くの群衆たち、すなわち4章で言えば24節の「さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など」であり、また9章で言えば36節の「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼ら」に向けて語られているのです。

(4)祝福を分かち合って
 私たちはこの朝、ここで主イエス・キリストがくださる幸い、神の国の新しい幸いを受け取っています。しかも神の国の幸いとはただ私だけが幸せになり、私たちだけが満ち足りるというようなものではない、ということです。神の国の幸いは分かち合われるものであり、宣べ伝えられるものであり、差し出されていくものであるという事実です。幸いに生きるとは、ただ私一人が満ち足りてよかったよかったと、他の人々の悲しみや困窮や痛みに気づかずに生きるようなものではないのです。次週以降、3節からの「幸い」の教えを一つ一つ丁寧に学んでいこうと思いますが、今日は一つのことだけを最初に申し上げておきたい。それは「幸いです」と訳される新約聖書の言葉、「マカリオス」という言葉には「祝福に満ちた」という意味があるということです。「心の貧しい者は幸いだ」というのは何か持たざる者、貧しい者の開き直りや負け惜しみの言葉ではないのです。それは言葉を補って言えば「心の貧しい者は神の祝福された者だ」ということです。
 主イエスのことを遠巻きに眺めている人、聴いているそぶりも見せず、それでも何となく耳をそばだてている人々、主イエスと自分には何の関わりもないと思いつつも、それでもその語る言葉が何か引っかかる。そんな思いで聴かないようで聴いている人々。それらの人々に向かって語られている言葉です。それはまた今の私たちの姿だと言ってもよいでしょう。教会の中に入ってきた人たちに向けてだけ語られた言葉ではない。むしろ教会を取り巻いている人々に向けて、その外と内とを行き来している人に向けて、あるいは教会の前を通り過ぎていく人々に向かってさえ語られている。そこがこの主イエスの言葉が単なる訓辞なのでなく、説教だ、ということの意味です。教会が発する言葉は福音の言葉です。良き知らせの言葉です。祝福の言葉です。それは相手を限定しない言葉です。ちょうど先週礼拝に出席された宮村先生が午後の集会後のコメントでおっしゃったように、誰でも自由に、何の資格もなく聴くことができ、受け取ることのできる良い知らせ、祝福の言葉、それが説教の言葉であり、主イエスが日曜の朝ごとに私たちに与えてくださるいのちのことばなのです。貧しい者よ、病む者よ、悲しむ者よ、迫害される者よ。幸いなどというものから最も遠く離れたところにいると思って絶望している人を。あなたは祝福されている。あなたに祝福があるように。そういって分かち合うことができるものが与えられている。そこに幸いに生きる道があるのです。そうして与えられた祝福を今度は互いに分かち合い、与え合うことのできる幸い。その幸いに生きる祝福の道をともに御言葉に導かれつつ歩んでまいりましょう。主イエスの祝福を慕い求め、また主イエスの祝福によって遣わされていき、その祝福を分かち合う皆さんの今日からの日々でありますように祈ります。

 



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