ルツ記講解その2    2018/01/14
『主の顧み』

ルツ1:6-7

 先週から旧約聖書の「ルツ記」を読み始めました。ナオミ、ルツという女性たちの別れと出会いを通して織りなされていく神の物語を味わいながら、今日も生きて働かれる神さまの御手の確かさを覚えてまいりましょう。

(1)系図に輝く星
 東京基督教短期大学の第二代の学長であられた、旧約学者の樋口信平という先生がおられます。私が入学する前に学長を退任なさったので、直接に教えを受けたことはありませんでしたが、いつも穏やかで上品な笑顔をたたえた先生でした。樋口先生はルツ記の専門家でもあられ、新改訳聖書の翻訳の際にはいくつかの書物とともにルツ記を担当されたと聞きます。また日本では珍しいルツ記の専門的な注解を書かれ、さらにはそれに基づいて教会で語られた講解説教集も出版されました。この説教集のタイトルが『系図に輝く星』というのですが、まさにルツ記のテーマが一言で表現されていると思います。
 先週すでに触れたように、ナオミ、ルツの物語が、エッサイ、ダビデに繋がり、そしてついにはダビデの子孫としてお生まれになった神の御子イエス・キリストへと繋がっていく。その時には理由も、意味も、先行きも分からない中で、ただただ目の前に開かれていく道を一歩一歩進んでいく他ない私たちの人生ですが、しかしそのような私たちの人生を慈しみ深く、愛とあわれみに満ちた確かな御手によって導いてくださる生ける神がおられる。この神の真実の御手の業を、今晩もあらためてルツ記1章を読み進めながら、確かめていきたいと思います。もう一度、1章1節から6節を読みます。「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ、ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミは二人の子どもと夫に先立たれてしまった」。
 ここであらためて、冒頭に登場する人々の姿を確かめておきましょう。一人目は「ユダのベツレヘムの人」エリメレク。その名は「神はわが王」を意味します。まことの神を信頼することなく、異教の偶像礼拝に陥っていった神の民の中で、しかしまっすぐに神を信じて生きたその信仰の姿勢が証しされるような名前です。その妻であるナオミの名は「快い」、「愛しい」といった意味を持つとされます。その一方で彼らのふたりの息子の名は、その悲劇の生涯を先取りしたようなものでした。マフロンは「病む者」、キルヨンは「弱々しい者」を意味すると言われます。さらにオルパは「うなじ」と言う意味で「うなじを見せて去る者」、ルツは「友」、「満足」、「回復」さらには「同伴する者」といった意味を持つとも言われます。このような名前の数々にも、これらの人々の人生が映し出されていると言えるでしょう。

(2)主の顧み
 エリメレク一家はもともとユダの地ベツレヘムの人でしたが、この地に起こった飢饉のため、食料を求めて異邦の民の地モアブに移り住みました。「モアブ」とは、創世記19章によるとアブラハムの甥ロトの二人の娘の姉が父親ロトとの間に産んだ息子に由来し、その後、イスラエルの民との間には、敵対したこともあれば友好であった時代もあるという具合に即かず離れずの関係にありました。そんなモアブの地に飢饉を避けて移住したということは、当時イスラエルとモアブの間はそこそこの友好的な関係であったのでしょう。
 ところがエリメレクは再びベツレヘムの土を踏むことなく、モアブの地で生涯を終えることになる。残された息子たちは異邦の民の中から妻を迎えることになる。しかし10年に及ぶ結婚生活の中で、兄夫婦にも弟夫婦にも子どもが与えられることなく、そしてついには彼らもまた次々と地上を去ることにある。それで5節。「こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった」のでした。先週も触れたことですが、このようなナオミの境遇を指して「女性版ヨブ記だ」と言う人もあるほどです。飢饉に苦しめられ、祖国を追われ、夫と死に別れ、ついには子孫を残すことなく二人の息子にも先立たれる。本来なら何も持たないまま独りぼっちなって放り出されたような寡婦、それがナオミの姿です。
 しかしそんな悲しみと痛みのどん底のようなところに、一筋のかすかな光が差し込んで来ました。6節、7節。「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた」。ユダの地ベツレヘムの飢饉が去ったことを知ったナオミは、モアブの野から帰ろうと決心するのでした。食物を失い、住むところを失い、夫を失い、息子たちを失い、こうして生きていく拠り所を失ったナオミ。そんな彼女の追い詰められたところからの転進です。後の20節、21節の言葉を読むと、この時のナオミの心の内が吐露されていきます。
 しかし、それにもかかわらず、彼女はモアブの野からベツレヘムへの帰還を決心するにあたっては実にポジティヴな印象を受けます。それは次の一句に現れる姿です。6節。「モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いた」。 ナオミはモアブの野におりながら、祖国ユダの地ベツレヘムに現れた神の顧みの外に自分たちが追い出されているとは考えません。むしろその顧みのもとに自分自身がいると信じて疑わないのです。それは「こんな私だけれど、しかし私も神の民の一人であり、私も確かに神の顧みのもとにあり、神は私をも顧みてくださるに違いない」という確信です。それはあの「子犬でもテーブルの下に落ちたパンくずはいただきます」と神のあわれみと顧みを信じて疑わなかったスロ・フェニキヤの女の信仰を彷彿とさせるような姿です。そして事実としてこの神の顧みは、ナオミとその嫁であるルツに及んでいくのでした。
 神は御自分の民を顧みてくださる。これは一般的な原則というようなものではありません。むしろそれは「今、ここで、私に」働く、個別的で具体的な神の業なのです。

 

 



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