ローマ人の手紙講解その60    2020/06/28
『聖なる生きたささげ物』

ローマ12:1

 6月最終の主日を迎えました。2020年も折り返して後半に進むことになります。今日の礼拝後には新会堂建築起工式を執り行おうとしています。いよいよ始まる新会堂建設、またあらためて始まっていく2020年後半の歩みの始まりに、私たちの主への礼拝の姿勢を整えてまいりたいと願います。皆さんに主の祝福を祈ります。

(1)あなたがたのからだを献げよ
 先週の主日、三ヶ月ぶりに共に集って礼拝を献げ、ローマ書12章1節の御言葉を聴きました。水曜日の祈祷会でこの日の礼拝の恵みを皆で分かち合いましたが、それぞれに礼拝の喜びを語ってくださって心に響くものがありました。私も日曜日の早朝礼拝から第一礼拝、第二礼拝、そしてライブ配信の夕拝と、久々に四回の礼拝で皆さんにお会いし、お一人一人の顔を見ながら司式と説教をし、一日を終えて夜はさすがにどっと疲れましたが、しかしそれはとても心地よい疲労感でした。深いところに喜びがあったからです。そして今日に向けてまた「礼拝」とはなにかということを思い巡らしながら過ごして来ました。先週の予告では、今日は12章1節、2節から「心を新に」と題しての説教を語る予定でした。しかし先週の説教を準備する中で、もう少し1節に留まって考えたいと思い、もう一度1節の御言葉に集中して聴きたいと願っています。1節。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」。パウロが1章から11章の神の壮大な救いのご計画とその実現の教えを語った後で「ですから」、「そういうわけで」と語り始める最初の勧め。それは「献げなさい」です。ここには「礼拝とは何か」という礼拝の本質が語られています。礼拝とは神へのささげ物、奉献だというのです。それに続いてでは「なにを献げるのか」、「いかにして献げるのか」ということが教えられるのが1節です。
 では、私たちは礼拝において「何を献げるのか」。パウロの言葉は強いインパクトをもって迫ってきます。「あなたがたのからだを」というのですから。しかし「からだを献げる」とはどういうことか。もちろん人身御供のように人間をいけにえとして献げよというわけではありません。「からだを献げよ」とは、私たちが私自身を、このからだを、この手を、この足を、この心を、私という存在全体を献げるということです。それは私たちの肉体の問題であり、私たちの具体的な生活のことであり、私たちの時間のことであり、私たちの経済のことであり、私たちの日常のことです。そのようにして私のすべてを主に献げるということ。しかも抽象的、観念的にでなく、実際に心とからだをもって私の生涯、私の生活を主にささげて生きる。それが私たちの礼拝的生活だということです。
 竹森満佐一先生が書かれた礼拝についての書物に、こんな礼拝の経験が記されています。「ベルリンのダーレムの教会でゴルヴィツァー教授が説教をされるというので聞きに行きました。教会に着いたのが少し早すぎたので説教台のすぐ下の席についたまま待っていましたが、ふと気がついてみるといつのまにかもう白髪の多い小肥りの人が、真黒なガウンを着て聖壇の前にいかにも敬虔な態度でうずかるようにひざまずき、祈りをしていました。その様子は本当に人の心を打つものがありました。やがて時が来ると、その人が立ち上がって壇に上り礼拝の司式を始めました。これがゴルヴィツァー教授だったのであります。ここにゴルヴィツァー教授のまことの力があったのです。やさしい恵みにあふれたその日の説教を聞き、そのあとでお目にかかって、穏やかな親切な人柄に接して、一層それを確信させられました。この礼拝をほかにしては、ゴルヴィツァー教授の神学は考えられなかったのであります。これは、すべての信仰者についていえることであります。真実な礼拝のないところには、信仰生活も、神学もあり得ないのであります」。
 礼拝とは今ここで神の御前に身を低くして差し出している神へのささげ物である。この事実を深く心に刻む時、私たちの礼拝の姿勢、礼拝者の姿勢が整えられていくでしょう。私も16歳で洗礼を受けて36年、牧師の務めに就いて29年、あらためて「献身」の重みを問われています。自分は主に自分自身を献げているだろうか。私のすべてを献げているだろうか。心も身体も魂もすべてを献げているだろうかと問われるのです。

(2)聖なる生きたささげもの
 では、私たちは私たち自身を「いかにして献げる」のでしょうか。聖書は言います。「神に喜ばれる、聖なる、生きたささげ物として」。ここは大事な言葉が続きます。「神に喜ばれる」とは別に言い換えれば「神に受け入れられる」ということです。旧約の礼拝では祭壇に献げられる犠牲の動物に関する細かな規定がありました。その規定を満たさないものは神に献げることができない。神に受け入れられないのです。
 しかし今はそうではない。これが重要です。私たちはともすると「私など神さまに喜ばれるだろうか、受け入れられるだろうか」と考える。そして喜んでもらうために頑張る、受け入れてもらうために頑張る。あるいはどうせ喜んでもらえないと諦める。受け入れてもらえないと退いてします。しかし大事なことは、もはやすでに皆さんは神に喜ばれている、神に受け入れられているという事実です。なぜそう言えるのか。それがこれまで私たちがローマ書で1章からずっと学んで来たことです。6章4節を読みます。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも新しいいのちに歩むためです」。6章13節。「あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい」。
 私たちは行いによらず信仰により恵みによって罪赦され、義と認められ、神の子どもとされ、聖なる者として受け入れられている。キリストが私たちの義と聖と贖いとなってくださった。そうして今は一人ひとりが神の喜びとされ、神に受け入れられている。そういう者として私たちは礼拝を献げている。死んだ動物の犠牲でなく、神に喜ばれる聖なる生きたささげ物とされているのです。

(3)ふさわしい礼拝
 ローマ書12章1節は、こうして私たちが自らをそのからだ、その全存在をもって神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げる礼拝を「それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」と言います。新改訳2017の欄外注には別訳として「あなたがたの霊的な」、「あなたがたにとって理にかなった」と記されています。「霊的な礼拝」、「理にかなった礼拝」、そこから「なすべき礼拝」、「ふさわしい礼拝」とも言われる。もとの言葉は「ロギコス」で、「ロジカル」、理屈に合っているという言葉です。しかも「あなたがたにふさわしい」というとちょっとニュアンスが違ってしまっていて、むしろ神さまに献げるのにふさわしいという意味にとるのがよいでしょう。
 ではそのような「ふさわしい礼拝」、「理にかなった礼拝」とはどういうことか。それは神さまに見合った礼拝、神さまと向き合い、目線がちゃんと合って、交わることのできる礼拝だということです。それはもっと言えば神さまが御子イエス・キリストにおいて為してくださった福音の出来事、その重み、その犠牲、その喜び、その愛、その驚くばかりの恵みの福音にかなった、この福音の出来事への私たちの精一杯の応答としての礼拝です。
 この約三ヶ月の間、神学生の皆さんとオンラインでいくつかの読書会や勉強会を行っています。その一つのグループでは宗教改革の歴史を一緒に学んでいます。先日はカルヴァンの生涯を学びました。以前に教会セミナーでもお話ししたことですが、カルヴァンの肖像画を集めた画集があり、それを見るとカルヴァンにある決まったポーズがあることに気づきます。さりげなく、でもはっきりと手の人差し指を上に向けているというポーズです。それはカルヴァンの生涯とすべての仕事が、上に向かって、つまり天におられる神さまのためのものであったことを象徴しています。またカルヴァンの紋章には掌にハートが乗っている画が中央にあり、その周囲にラテン語で「Cor meum tibi offero domine prompte et syncere」と刻まれている。「私の心をあなたにお献げします。主よ。すみやかに、かつ心を込めて」という意味です。ここでの「心」とは私のすべてということです。そしてその通り、カルヴァンの生涯はすべてを主に献げ尽くしたものでした。自分の人生のプランよりも神さまのご計画を優先し、幾度も進路変更をし、自分に与えられた能力や賜物を主と教会のために献げ尽くし、地上では何の報いも期待せず、また受け取ることなく終わった生涯。墓石さえ残すなと命じて終わった生涯でした。しかしそれはまたカルヴァンが自らのからだを、自らの生涯を神に献げて生きた何よりの礼拝的な人生だったのです。
 私たちのふさわしい礼拝、そして私たちが自らをお献げする神さまにふさわしい礼拝です。何をもってしてもふさわしくはならないのに、そのギャップを神さま自らが埋めてくださる。そのために今朝も私たちに近づき、私たちを喜び、私たちを受け入れてくださっている。この恵みの事実によって動かされて、主に自らをささげてまいりましょう。

 

 



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