ローマ人の手紙講解その21   2019/05/12
『明らかにされた神の愛』

ローマ5:6-11

 5月第二の主の日を迎えました。初夏を思わせるようなこの美しい朝に、こうして主の御前にともに集まることができていることを心から感謝します。今日は「母の日」です。それぞれのお母さんたち、また教会のお母さんたちに心からの感謝を申し上げたいと思います。この朝も、ともに主のいのちの御言葉に聴いて、いのちの養いをいただいて、ここからまた新しく遣わされてまいりましょう。お一人一人の主からの恵みと祝福が豊かにありますようにと祈ります。
 
(1)パウロのこころ、ローマ書のこころ、主イエスのこころ
 昨年9月からローマ書の御言葉に聴き続けて、今日で21回目になります。ローマ書は全部で16章ですから、今日の5章半ばまでのところで、8ヶ月でおよそ三分の一。まずまずのペースではないかと思っています。当初はもう少し早いペースで、テキストの区切りももう少し大きくしてどんどん読み進めていこうかと考えていたのですが、やはり実際に講解説教に取り組んでみると、ここも大事、ここも大事と、立ち止まらざるを得ない。それでも一回の説教に盛り付けし切れずにあきらめたものや、自分自身でも汲み上げ切れていないものがたくさんあって、もったいないような、申し訳ないような思いにも駆られています。しかし、皆さんはどうでしょうか。私自身はこの8ヶ月、ローマ書の御言葉との取り組みを通して本当に励まされ、教えられ、説教者としての手応えといいますか、御言葉を取り次ぐ喜びをあらためて感じさせられています。それはどういうことだろうかと考えてみますと、やはりローマ書が語る福音の喜びが伝わって来る、それによってもたらされる喜びであると実感するのです。
 竹森満佐一先生が今日の箇所の説教の冒頭で、こんなことを語っておられます。「この人は、自分の信仰を、まるでぶっつけるように書いているのです。彼は、神学の教科書を書くつもりではないのです。ただ、キリストの恵みを伝えたい、それを説明したい、それが彼の心からの願いであり、これを書く態度でもあったのです。この5章6節から11節を読むと、そういうことがよくわかります。なるほど、ここに書いてあることは、神学の面倒な議論を引き起こしそうなこともありましょう。しかしまた、おそらくどんな人が読んでも、そこに言われていることが、胸に響いてくるようなものでもあるのです。その点から言えば、少しも難しくないやさしい文章であるともいえましょう。むしろたどたどしいように、一つの重大な事実を述べようとする様子が見えるのであります」。
 これは今日の箇所のみならず、ローマ書全体に対する極めて重要な説き明かしだと思います。特にパウロがここで「自分の信仰をまるでぶっつけるように書いている」というのは、心に留めたい言葉です。事実、これまでにも繰り返し確認してきたように、パウロにローマ書を書かせている根源的な動機、それは1章15節、「ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」でした。「ぜひ」、「なんとしても」福音を伝えたい。そのためには自分は何でもする。それがパウロを突き動かしていたこころであり、ひいてはローマ書のこころ、そして何よりも救い主イエス・キリストのおこころに他ならないのです。
 
(2)主にある「今」と「かつて」
 パウロはローマ書の5章において「今、この時」ということを強く意識しています。2節で「今、立っているこの恵み」を語り、5節で「神の愛が私たちの心に注がれている」と語り、今日の9節では「今、キリストの血によって義と認められた私たち」と語り、11節では「キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです」と語っているとおりです。パウロは決して真空状態でこの手紙を書いているわけではないのです。ある特定の時代、歴史、場所とそこにある状況、そこに生きる教会、そこに生きる一人一人という個別、具体の状況のもとで「今」という時を捉えています。そしてそこでの何よりの問題は、パウロの語る「今」とはいったい、いついかなる意味における「今」なのか、ということです。それはパウロの持つ歴史の意識とも言えるでしょう。
 この歴史の意識というものは、私たちにとっての「今」の意味を強く意識させることにも繋がってくるのです。私たちが今日、この2019年5月12日に、このローマ書の御言葉に聴く意味は何であるか。そして2018年9月から2019年5月、そして2020年に向かっていくという徳丸町キリスト教会の歴史の営みにおける「今、この時」に、ローマ書の御言葉に聴き続けている意味は何かということを深く受け取りたいと思うのです。そしてまた、教会が新会堂建築を含めて新しい歩みに向かっていく「今、この時」に、その一方で社会が終わりの時代の様相を深め、闇の力が覆っていく「今、この時」に、ローマ書が説き、そして聖書全体が証しする主イエス・キリストの福音をしっかりと聴き取り、その福音にしっかりと立つという姿勢を鮮明にしたいと思うのです。
 そこで私たちがあらためて問わなければならない一つの重大な問いは、パウロが語る「今」とはいったいどのような「今」なのか、ということです。そしてこの問いへの答えを受け取るためには、パウロが語る「かつて」から考えなければなりません。6節から8節をお読みします。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」。
 ここには、私たちが主イエス・キリストをただ信じるだけで、信仰によって罪を赦され、義と認められ、神の子どもとしていただいたという救いの出来事の実現のために、それと引き換えに御子イエス・キリストが成し遂げてくださった十字架の贖いの御業が、いったいどれほどの出来事であったのかが記されています。6節の「私たちがまだ弱かったころ」とは、8節で「私たちがまだ罪人であったとき」ということです。また6節の「不敬虔な者たち」とは関根正雄先生は「神無き者」と訳しています。つまりかつての己の姿を私たちがどのように見るのか、認めるのか。そこがハッキリしないとそのためになされた御子の贖いの御業の意味が何となくぼやけてしまって分からなくなる。そして御子の贖いの御業の意味がハッキリわからなければ、パウロが語り、そして私たちが生かされている「今」の意味もまたわからないままとなってしまうのです。
 パウロが「私たちがまだ弱かったころ」と語る私たちのかつての姿。それは単に強い弱いという程度の問題ではなく、「私たちがまだ罪人であったとき」という姿です。そして「罪人であった」ということがどれほどに悲惨で深刻な、そのままではあってはならない状態であるかは、私たちがここまでローマ書1章から学んで来たことでした。つまり罪人のままであったなら、その行き着く先は死と永遠の滅びなのです。ところがそのような私たちのためにキリストが死んでくださった。「定められときに」、すなわちそれは父なる神の永遠の御心の実現であり、まさに十字架を目前にしたあのゲッセマネの園で主イエスが「この杯を私から遠のけてください。しかし私の願う通りではなく、あなたのみこころのままをなさってください」と祈られ、従っていかれた父なる神のご計画であったのです。
 7節。「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません」とパウロは語ります。ここでのパウロの論じ方は、一般的なことから特殊なことへ、小さなことから大きなことへという比較級です。しかし本当はここで論じられていることは、何かと比較して論じられるようなものではありません。小さいことから大きいことへと類比で語れるようなものでもありません。主イエスの十字架の死を、他の何かを引き合いに出して、それとの比較で語るなどということは本来できないことなのです。しかし敢えてパウロがそのような論じ方をしてまでこのことを記すのは、そうまでしてでも何とかして主イエス・キリストの十字架の死という出来事の、本来あり得えないようなことが起こったのだという事実を伝えたいという思いの表れでしょう。確かに当時のローマ社会においても、そして今日も、自己犠牲的な死、愛する者のために、家族のために、国家のために、そのような大義名分のためにいのちを差し出すということが大いなる美徳とされるということがありました。国家による死の意味づけという点では、私たちの国では靖国神社などがその最たるものです。しかしパウロがここで比較を使いながら語るこころは、主イエスの十字架はそのような死とはまったく比べられない、次元の異なるものだというメッセージです。

(3)明らかにされた神の愛
 そして8節。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」。この8節は私たちが何度でも何度でも繰り返し心に刻みたい御言葉です。この御言葉は、私たちが主にあって生きていく上で忘れてならない原点のような、信仰の核のようなものです。そしてここに私たちの「かつて」と「今」を結ぶ大事な結び目があるのです。
 「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」。これは「かつて」為された十字架の贖いの御業を伝える過去形の言葉です。これに対して、このキリストの贖いによって「神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられる」というのは、まさに「今、この時」に私たちに起こっている現在形の言葉です。あの二千年前のゴルゴタで起こった主イエス・キリストの十字架の出来事によって、神は私たちに対するご自分の愛を、今、この時、明らかにしておられる。それはローマ書を読んでいた当時の人々にとっての「今」に留まらず、今日、ここにある私たち一人一人における「今」なのです。あの二千年前の御子の十字架が、今、私たちに神の愛を明らかにし、証明しているのです。
 それで9節、10節。「ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです」。今度はパウロは過去と今の比較級、御子の経験から私たちの経験への発展、拡大、普遍化という論じ方によって、私たちに与えられている罪の赦しと救いの恵みの大きさ、豊かさ、そして確かさをこれでもか、これでもか、と言わんばかりに説得的に記しているのです。

(4)神を喜ぶ今
 しかしこれらの論じ方の中で、パウロが一番伝えたかったこと、それが最後の11節に記されます。そしてここにおいてこそ、パウロがローマ書5章において繰り返す「今」がどのような意味での「今」なのかが明らかにされるのです。11節。「それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです」。
 「キリストによって、今や、神と和解させていただいた」。これは5章1節で「私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」と語られたことの言い直しとも言えるものですが、ともかくキリストの十字架の贖いによって、今、私たちは神と和解させていただいた。そして何よりも私たちにとっての「今」、私たちにとっての「今日」は、このイエス・キリストの十字架の愛によって、しかもまだ私たちが罪人であったときにキリストが死んでくださったことによって明らかにされた神の愛によって、私たちが愛されている「今」であり、そしてその愛によって生かされている「今日」であり、そして「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます」という「今」、神を喜ぶ「今日」なのです。
 先週水曜の祈祷会で、ウェストミンスター小教理問答第1問の「永遠に神を喜ぶ」ということを学びました。そこでも確かめたことですが、先週の礼拝で紹介した『雪の下カテキズム』の第14問にこう記されています。「第14問:神の喜びはなぜそれほどまでに大きいのでしょう。答:私どもが計り知ることのできない神の秘密がここにあります。明らかに、神が私どもをそれほどまでに愛していてくださるのであります。神の喜びは愛の成就の喜びです。私が知る主の福音に生きる喜びは、この神の喜びの反映、こだまのようなものであります。私どもを求め、愛してやまない御子、主イエス・キリストは、その死と復活によって、まさに、そのいのちをもって私どもを真実の平安と望みに生きる者としてくださいました。私の誇り、喜びもまた、今はこの神の愛に生かされることに尽きるのです」。
 私たちが生かされている今日、今、この時、それは御子イエス・キリストの十字架の贖いによって神と和解させられ、かつては神の前に死すべき者であった私たちが、今や神の前に生きる者とされ、神を喜ぶ者とされた今日、今、この時です。そして私たちの神を喜ぶ喜びは、神が私たちを御子イエス・キリストを賜るほどのことをもって明らかにされた愛をもって愛し、その愛をもって私たちを尊び、喜んでいてくださることへの応答、「こだま」なのです。この喜びの中を今日からまた新しく生きてまいりましょう。

 

 



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