ローマ人の手紙講解その20    2019/05/05
『キリストにある者の喜び』

ローマ5:1-5

 5月第一の主の日を迎えました。この朝も、私たちは生けるまことの王の王、主の主であるイエス・キリストを礼拝するためにここに集められてまいりました。時代が移り変わり、一つの流れの中に世の中が取り込まれていくような空気の中にあって、しっかりと立ち、見るべきみつめ、聴くべき声に聴いて、教会の姿勢を鮮明にしたいと願っています。この朝も、御前に呼び集められたお一人一人に主の祝福を祈ります。

(1)2019年5月に
 先週の主の日は白井聖書教会の創立記念礼拝の奉仕に出かけておりましたので、こちらの朝拝は高木役員が御言葉を取り次いでくださいました。教会を建て上げるに相応しい言葉をもって、その奉仕を担ってくださったことを感謝しています。この連休は様々な集会が続いたのですが、特に4月30日の夜には「キリスト者から見る〈天皇の代替わり〉」の出版記念講演会が開かれ、111名の方々が集い、ともに祈る時となりました。また1日の特別祈祷会では、ダニエル書6章の御言葉を読み、王に礼拝をささげなければ士師の穴に投げ込まれるという法令が出たのを知ったダニエルが、「以前からしていたように」、「いつものように」主なる神に祈り、礼拝した姿から学び、祈ることができました。
 天皇の代替わりと改元の出来事を見ながら、あっという間に世間が祝賀ムードに包まれて行く様子、キリスト者の中にも同じような雰囲気が広がっている様子を目の当たりにして、かなりショックを受けました。先週の礼拝説教の締めくくりで、高木役員が辻宣道先生のことに触れられました。戦時中のホーリネス弾圧によって牧師であった父親が獄死し、教会は解散させられ、家族が困窮の極みを経験した事実。これを辻先生は後に『嵐の中の牧師たち』という本にまとめられました。このタイトルは明らかに、教会でも読んできたオットー・ブルーダーの『嵐の中の教会』を意識したものです。しかし辻先生が『嵐の中の教会』でなく『牧師たち』とした理由、それは戦時下の日本においては教会的な闘いが成り立たなかったという事実に拠っています。天皇を現人神として礼拝する罪を犯した日本の教会の罪責。天皇の名においてアジアへの植民地支配を正当化し、それに追随していった日本の教会の罪責。そのような罪を告発して迫害された主にある兄弟姉妹たちに連帯することなく、無関心を装った日本の教会の罪責。そうした罪責を悔い改める歩みを続けてきたはずの日本の教会が、今また、この天皇代替わりの中にまったく無批判に取り込まれている姿を見るとき、いったい私たちは戦後70年の教会の歴史から何を学び、受け継いできたのだろうかと愕然とした思いになるのです。
 先週、これらのことを祈りながら過ごす中で、よほど今日の礼拝説教を当初の予定から変更してこのテーマで語るべきではないかと思わされました。後の日になって、2019年5月の天皇代替わりの時に徳丸町キリスト教会ではどのような御言葉が語られたのかということが、必ず問われる時が来るだろうと思うからです。そうして祈る中で、やはり予定通りローマ書5章から御言葉に聴くことにいたしました。この朝に主が語るようにと備えていてくださった御言葉に聴くことがやはり相応しいことと思わされたのです。

(2)キリストにある者の「今」と「これから」
 この朝はイースター礼拝に続いて、もう一度、ローマ書5章1節から5節の御言葉が与えられています。1節、2節。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」。先週の礼拝でもすでに私たちに与えられている「喜び」について十分に教えられたのですが、今朝もう一度、ここでパウロが語る「喜び」に耳を傾けたいのです。21日の礼拝でも申し上げたように、この「喜ぶ」はもともと「誇る」という意味の言葉で、多くの日本語訳聖書も「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と訳しています。「希望を誇る」、「希望を喜ぶ」。それはまた1章16節の「福音を恥としない」ということとセットで受け取る言葉でした。
 ここでパウロが語っているのは、キリスト・イエスにあって義と認めていただいた者たちの「今」と「これから」の姿です。パウロは2節で「今立っているこの恵み」と言い、
「神の栄光にあずかる望み」と言っています。「今」の私たちの姿、それは信仰によって恵みの中に立っている姿だというのです。これまで救いは神の恵み、信仰はまったくの受け身の世界であると繰り返し確認してきました。その上で恵みの中に「今立っている」という姿をよく捉えたいと思うのです。まったくの恵みの世界、受け身の世界の中で、しかし自分の足でしっかりと立っている。自立している姿。ここにキリストにある者の大切な姿が描かれていると言えるでしょう。自分たちが何を信じ、どこに足場を据え、何を喜びとし、どなたを誇りとしているか。これら一つ一つのことに自覚的でありたいと思うのです。
 今回の天皇代替わりにあたって、キリスト者として何かしらの声を上げなければならないと思いました。1月の終わりに数名の牧師たちに声をかけて実質二ヶ月で講演集をまとめました。また2月半ばにある他教団の牧師から「天皇代替わりの前に、何か動けないか?」と問いかけられました。そこからいくつかの集会の企画を準備し、最終的に出版記念講演会という形に落ち着きました。この間、いのちのことば社には、「こんな本は出すな」というクレームの声がずいぶん寄せられたそうです。私のところにも「こういうのはもうやめてほしい」という声や、「みんなが喜んでいるときにどうして、水を差すようなことをするのか」という声、「クリスチャンの中にも天皇制支持者もいるのだから、〈キリスト者〉という言い方で括るな」というような声がずいぶん寄せられました。しかし私たちはこうした時代だからこそ、一つ一つ自分たちの立ち位置を確認する必要があるでしょう。ここに立ったらあそこには立てないという立ち位置があり、ここに立ったらこのように語り、このような姿勢を取らざるを得ないという姿があるのです。聖書に学び、教理に学び、歴史に学ぶということを私たちは大切にして来ましたが、それらはみな、「今立っているこの恵み」をいつも新しく確認して、受け取り直すために必要な作業なのです。またパウロはキリストにある者の「これから」を「神の栄光にあずかる望み」と言いました。それは天の御国にて受け取る救いの完成の姿であり、教理の言葉でいう「聖化」から「栄化」への道筋を指しています。私たちは「今、ここにある恵み」にしっかりと立ちながら、「これから、来たるべき希望」を喜び、待ち望んで歩む者とされているのです。

(3)キリストにある者の喜び
 このようにキリストにある者の「今立っている恵み」と「神の栄光にあずかる望み」を貫いているもの、それがキリストにある者の「喜び」です。そう考えると、福音がもたらす「喜び」というものが、どれほどに豊かで大きく、確かなものであるかが分かってきます。単なる「うれしさ」、「楽しみ」とは全く質の異なる、福音からのみもたらされる喜び。それがキリストにある者の喜びです。
 私は神学校で「信条学」という科目を担当しているのですが、そこではニカイア信条、使徒信条などの古代信条、アウグスブルク信仰告白、ハイデルベルク信仰問答や第二スイス信仰告白、ウェストミンスター信仰告白などの宗教改革の信条、バルメン宣言などの現代の信条を神学生の方々と学んでいます。そこでいつかきちんと取り上げたいと願っているものの一つに、『雪の下カテキズム』という信仰問答があります。これは日基教団鎌倉雪の下教会の信仰問答書で、この教会を長く牧会された加藤常昭先生が、教会の方々との長年の学びと対話の中で作り上げられた、まさに教会の言葉の集大成です。私はこのカテキズムは信条学的にも極めて重要なものだと思っており、本格的に分析、研究するに価する信条だと思っているのですが、特に重要と思うのが、このカテキズムが冒頭から終わりまで「喜び」というモチーフによって貫かれている点です。第1問はこうです。「問:あなたが、主イエス・キリストの父に願い求め、待ち望む、救いの喜びとは、いかなる喜びですか。答:私が、私どもを神の子としてくださる神からの霊を受けて、主イエス・キリストの父なる神を、『私の父なる神、私どもの父なる神』と呼ぶことができるようになる喜びです。神は、いかなる時にも変わらずに私の父でいてくださり、私の喜びとなり、誇りとなってくださいます」。これは短い言葉の中にローマ書のエッセンス、福音のエッセンスがぎゅっと込められた大変優れた信仰の言葉だと思います。
さらにこのカテキズムの優れたもう一つの点は、この「喜び」が「神の子とされた喜び」として明確に理解されている点です。それで第2問はこうも言うのです。「ただひとりの神の子である主は、私どもにも、主に似た者、すなわち神の子となる道を与え、私どもをご自身の兄弟また姉妹として受け入れてくださいました。私どもに神の霊が注がれるとき、この主の恵みが私どもにも及び、私どもにも初めて神の子どもの身分が与えられます。そして、私どもも、神を父として、愛し、信頼することが許されるようになるのです。ナザレのイエスを、生ける神の子、キリストとして信じ、告白し、この世に生きるかぎりは、主に倣って生きることを志し、更には、死を超えて主に似た者として生かされる望みを分かち合えるようになるのです。このような主の恵みのゆえに、私もまた神の子として生きるのです」。神の子とされた喜びが、死を超えて主に似た者として生かされる希望に私たちを導く。ここにキリストにある者の喜びの一番の中心があるのです。

(4)苦難さえも喜ぶ
 この喜びの本質を捉えるとき、続く3節、4節の御言葉が響いて来ます。「それだけでなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです」。この苦難、忍耐、練られた品性、希望という道筋。これについては様々な説明、解説が施されますが、ここでの苦難とは、キリストのゆえの苦難、信仰のゆえの苦難を私たちが味わい、そこで苦しみを忍ぶ時に、まさに身をもって経験させられる信仰のリアリティーであろうと思います。これは『教会に生きる喜び』の中で何度も触れたことであり、先週の高木役員の説教でも深く教えられたことです。そのことを踏まえた上で、今朝、私たちはこれからやがて起こるであろう信仰のゆえの迫害ということを、きちんとこの朝、見据えておかなければならないと思うのです。
私たちがこの3節、4節を身をもって経験させられる時が来る。「神の栄光にあずかる希望」に向かって進んでいく時に、どうしても避けて通ることのできない苦難の現実があるということを、覚悟をもって引き受けなければならないのです。苦難を喜ぶという時、そこでの苦難は、一般的な人生の試練や困難というものとは明確に区別されるでしょう。ここでの苦難とは、繰り返しますが「キリストのゆえの苦難」、「信仰のゆえの苦難」です。そこで私たちは問われ、試され、ふるいにかけられる。それは主イエスがマタイ福音書24章で語られた、終わりの時の姿です。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。そのとき多くの人々がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」。こういう時代が来る。いやすでに来ている。この時の認識の中で、私たちは「苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っている」と告白して生きるようにと召されているのです。
 私はこれまで迫害の問題は、その時の国家権力からもたらされるものと思ってきました。確かにそれが一番大きい。かつてのホーリネス弾圧のような出来事はこれからも起こりかねない。しかしそれだけでない。それ以上に、迫害は自分たちの背後からやってくるものという認識を持たなければならないと思うようになっています。キリスト教界の中からのバッシングがむしろ大きくなっていくだろうと思います。徳丸町キリスト教会の牧師としての言動のゆえに、この教会が批判にさらされるということが起こるだろうと思います。教会として苦難の中を通されるということがあるだろうと思うのです。しかしその苦難の中でなお味わうことのできる喜びがある。他では決して得ることのないまことの喜びがある。そして決して失望に終わらない希望がある。恥を見ることのない希望がある。なぜそう言えるのか。御言葉は語ります。5節。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。
 私たちを立たせ、生かし、歩ませる力の源、それがキリスト・イエスにおいて示された神の愛が、今、私たちに注がれているという恵みの事実です。この神の愛に目を向ける時、私たちは苦難を恐れる必要がない。迫害を恐れる必要がない。死を恐れる必要がない。神の愛が私に注がれている。これ以上の喜びがない。ここの私たちの究極の喜びがあり、究極の希望があるのです。この愛に支えられて、私たちも困難な時代のただ中にあっても、嵐の中の教会として、キリストにある志しに生きる者とならせていただきたいと願います。
 徳丸町キリスト教会「私たちのこころざし」の最後の一文を心に刻みましょう。「私たちは、聖霊の恵みに生きる神の子どもたちとして、自由と喜びに生かされ、終わりまでイエス・キリストのみを主と告白する教会の形成をこころざします」。

 

 



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