復活節記念主日合同礼拝 ローマ人の手紙講解その19   2019/04/21
『この希望は失望に終わらない』

ローマ5:1-5

 主イエス・キリストのよみがえりを祝う復活節、イースターの朝を迎えました。私たちの罪の身代わりとなって十字架に死なれ、墓に葬られた神の御子イエス・キリストは、死者の中からよみがえり、私たちの贖いを成し遂げてくださいました。主イエスのよみがえりを喜び、互いに主にあって挨拶を交わしましょう。イースターおめでとうございます。主に愛され、生かされているお一人一人に豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)ただ信じるだけで
 このイースターの朝に、主は私たちの教会に大きな喜び、何よりの喜びを与えてくださいました。このイースター礼拝において、M姉の洗礼式を執り行うことができるということです。主にある新しいいのちがここに生まれる。M姉にとってはもちろんのこと、主にある家族とされる私たちにとっても最高の喜びです。ようこそ、待っていましたと、大きな祝福をもってこの愛する若い姉妹をお迎えしたいと思います。
 この喜びのイースターの朝に、主は私たちにまことにふさわしい御言葉を与えてくださいました。本来ならイースターは、主イエスの復活に関わる御言葉が開かれるのですが、今年はローマ書の講解を先に進めようと思っておりました。そしてちょうどこのイースターの朝にローマ書5章が与えられた。このことに主の深いご配慮を思わないではおれないのです。先週の受難週の主日、私たちはローマ書4章を読み終えました。信仰によって義と認められるとはどういうことか、1章18節から3章31節までかなり込み入った議論をもってこの大事な教えを論じてきたパウロは、続く4章をまるまる使ってこのことの実例として旧約聖書、創世記に登場するアブラハムの姿を私たちの前に示しました。ただ神の約束を信じた。ひたすら神の真実に信頼した。そうしてただ神を信じたアブラハムを神は義と認めてくださった。このアブラハムを見よ、というのです。
 ところが、4章はそれだけでは終わりませんでした。23節から25節。「しかし、『彼には、それが義と認められた』と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」。アブラハムはただの比喩ではない。アブラハムを義と認めてくださった主は、私たちをも信じるだけで義と認めてくださる。それはどのようにしてか、私たちの罪のために十字架に死んでくださった主イエスがよみがえられたことを信じることによってだ、というのです。
 金曜日の受難日祈祷会で、主イエスの十字架の場面を読み、ともに黙想と祈りの時を持ちました。そこで私たちは、主イエスとともに十字架につけられた犯罪人が「私を思い出してください」と言った、その言葉を受け取って「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言ってくださった主イエスのお姿を見ました。彼がしたことは何もない。ただ主イエスにすがっただけ。そんな犯罪人の彼を、主イエスは「あなたは今日、わたしとともに」と言ってくださった。アブラハムを信じただけで義と認めてくださった主は、今日、十字架の主イエスを信じるだけの私たちをも義と認めてくださるのです。

(2)信じることは生きること
 この4章を受けて始まるのが今日の5章です。1節。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」。  
 加藤常昭先生がこの5章1節から11節までを説いた説教の中で、こんなことを言っておられます。「多少不穏当な言葉になるかもしれませんけれども、たとえ旧新約聖書の全部が消えてしまいましても、この第5章の1節から11節までが残っていたとすれば、主イエス・キリストの父なる神が、どのような救いを私どもに用意してくださっているか、どれほどすばらしい救いを既に実現してくださったかを十分に学ぶことができる、そう言ってもよい、と私は信じております」。確かにかなり大胆な言い方ですが、しかしとても大事な言葉だと思います。ローマ書はどこも大事。特に3章は私たちの救いにとってどうしても曖昧にできない箇所でしたので、ずいぶん丁寧に学びました。しかしそれも含めてやはりこの5章1節から11節はローマ書の中心と言っても良いと思います。それはなぜか。いろいろなことが言えると思います。今日は5節までで区切りましたが、ここまででも本当は何回かに分けて説教したいと思うところです。ローマ書講解の最初に、あまり細かくテキストを区切らずに進むと言ったのですが、それを撤回してでも、本当はこの5章は1節、1節と進みたいほどのところです。
 それほどに大事だと思うその理由を敢えて一言で申し上げるとするならば、ここには信じて救われた者が生きることができる「生」そのものが描き出されているからです。神を信じた私たちは、このように生きることができる。信じて義と認めていただいた私たちは、このように生きることができる。罪を赦され、救っていただき、神の子どもとしていただいた私たちは、このように生きることができる。今まで自分が生きていることが受け入れられなかった人も、自分が生きていることを喜べなかった人も、消えてしまったほうがよい、自分が生きていることなど誰も望んでいないと思っていた人も、あなたは生きてよいし、またこのように生きられるのだ、という確かな言葉がここで語られているのです。
 ローマ書の内容を大きく区分すると、1章から11章までが教理篇、12章から16章が実践編と分けられます。しかしもう少し丁寧に見ていくと、1章から3章で義認論を論じ、4章でその実例を示した上で、この5章からが信仰によって義と認められた私たちの生き方を記していくところと言ってもよいのです。まさに信じることは生きることそのものだということを深く確信することができるでしょう。その最初の言葉としてパウロが記したのが1節でした。もう一度読みます。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」。信仰によって義と認められた私たちの生の現実とはどのようなものか。それは「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っている」という現実だというのです。
 ここで「平和」というのは、元を辿ればヘブライ語の「シャローム」という言葉です。神さまとの関係が本来あるべき姿に回復させられた姿。争いがない、対立がない、神の御前に全き平安が与えられた姿。それが「シャローム」です。そして2節では「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました」と言います。「このキリスト」。すなわち4章25節の「私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」キリストです。このキリストによって「今立っているこの恵み」に導き入れられた。これが私たちに今与えられている生の現実だと聖書は語るのです。私たちは今や神との間に平和を持っている。かつては神に背き、神の御顔を避け、神に敵対し、己を自分の神として生きてきた私たち。しかし今やその私たちが神との平和を持っている。これが、今私たちが立っている立ち位置だというのです。これは11節の終わりで繰り返される結論でもあります。「キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです」。
 これが今、私たちに与えられているいのちの姿です。ここが今、私たちが立っている場所です。そしてこれが今、私たちに「あなたはこのように生きることができるし、またこのように生きてよいのだ」と言って神が与えてくださっている生の現実なのだということをよくよく心に刻んでおきたいと思うのです。
 
(3)私たちの喜び、私たちの誇り
 さらにローマ書は、私たちの目線を「今、ここ」に立っているところから、その先へと向けさせます。2節後半。「そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」。「今、ここ」と「やがて、必ず」。私は信仰の歩みというのは、絶えずこの二つのものを確認しながら進むものだと思います。「今、ここ」にすでに与えられている現実をしっかりと確認し、足元を見つめ、一歩一歩、一足一足、主イエスの歩まれた道を辿っていく歩み。しかしそれとともに大切なことは、「やがて」もたらされる神の救いの完成をはるかに仰ぎ見ながら、それが「必ず」実現に至るとみことばの約束を握り締めて生きて行く歩み。希望によって引っ張られるようにしながら導かれていく歩み。そうやって進んでいくのが私たちの信仰の歩みなのです。希望に導かれる歩みと言ってもよい。私の願望、私の幻想、私の憧れというような朧気なものではない。神の真実に支えられた確かな約束の中で、希望が私たちを導いていく歩み。それが信仰の歩みなのです。
 私は今日、皆さんにこの希望によって導かれ、生かされていく人生の確かさをお伝えしたいと思っていますが、とりわけこのことをどうしても今日受洗するM姉に伝えたいと思ってここに立っています。今日の牧師室便りにも少し書きましたが、三年前の11月に初めてこの教会に来た日から、これまでの間に幾度となく一緒に開いて読んできた御言葉がありました。ヨハネ福音書9章の生まれつき目の見えない人を主イエスが見えるようにしてくださったという箇所です。弟子たちや周囲の人々が、そして恐らく彼自身も、自分の今の姿を過去に結び付け、縛り付ける中で、ただお一人、主イエス・キリストだけは「この人に神のわざが現れるため」と、彼を過去ではなく、未来へと開いてくださった。これまでの日々がどのようであろうとも、イエスさまはM姉を新しいいのちに生かし、舞花ちゃんを通して神のわざを現し、神の栄光にあずかる望みが、これからの歩みを引っ張っていってくれる。イエスさまがともに生きてくださる歩み、イエスさまがともに歩んでくださる歩みは、希望によって導かれていく歩みです。そのスタートを今日、切るのだということをよく心に刻んでほしいと願っています。
 パウロはこの希望を喜ぶと言いました。5章1節から11節の大事なキーワードは「喜び」です。これについては今後詳しく学ぶテーマですが、今朝は一つのことに注意しておきたいと思います。ここで「喜ぶ」と訳される言葉。通常は「誇る」と訳される言葉です。他の日本語訳聖書、例えば聖書共同訳は2節、3節を次のように訳しています。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています」。元々のギリシャ語の意味で言えば「誇る」というのが素直な訳だと思います。事実、「誇る」というのはパウロが数多く用いる言葉の一つです。そして「誇る」というのは「恥じる」ということとセットで考えるべき言葉でもあります。ローマ書1章16節でパウロはこう言いました。「私は福音を恥としません」。福音を恥としない。これと同じことを言ったのがガラテヤ書6章14節。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」。またIコリント書1章で「誇るものは主を誇れ」と語った言葉です。パウロはこれまでのローマ書の議論において、行いを誇ること、律法を誇ること、割礼を誇ること、ユダヤ人であることを誇ること、自分自身を誇ることをまったくの罪だと言ってきました。そのようなものを誇ることはまったくむなしいものだと。むしろ本当に誇るべきことがある。それが「神の栄光にあずかる望み」であり、さらに4節。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます」。キリストにある苦難さえも誇りだと言うのです。
 
(4)希望は失望に終わらない
 「誇り」と「喜び」、これが単純に交換可能なものかということについて、また本来なら今日の箇所で扱うべき「苦難、忍耐、品性、希望」のテーマは、次回以降に深く考えたいと思いますが、最後に今朝はこの「誇り」ということの持つ意味を心に留めたいと思います。5節。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。「この希望は失望に終わらない」。今日の説教題に掲げた御言葉です。実はこの5節もまた改めて取り上げることにして、今日は最後に一つのことに心を向けておきたいと思います。それは「この希望は失望に終わることがない」との御言葉、古い文語訳ではこうでした。「希望は恥を来たらせず」。ギリシャ語原文を直訳すると「この希望は恥に至らせることはない」。ここにも「誇り」と「恥」のモチーフが出てきます。どういうことか。ローマ書の詳細な注解を記したウィルケンスというドイツの新約学の先生が、この言葉の意味を次のように言い換えてくれています。「この希望は、待望する者をはずかしめるようなことはしない。彼が望みを置いた事柄を挫折させるようなことはしない。希望は決して空虚な妄想ではない」。
 私たちに与えられている希望は、むなしくはない。信じ待ち望んだ者が裏切られる、落胆させられる、「あんなことを信じて愚かなことだ」と辱められる、恥をかかされる。そういうことは一切ないのだというのです。そうやって神を信じる者たちは生きてきたし、今も生きているし、これからも生きていく。詩篇22篇4節、5節で詩人がこう歌ったとおりです。「あなたに、私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。あなたに叫び、彼らは助け出されました。あなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした」。しかし、この詩人以上の確かさの中に私たちは今日、生かされています。かつて神の民がそのように生きたというだけでない。キリストのよみがえりによってもたらされた希望が、私たちをより確かないのちに生かしてくださるのです。
 イースターは、この希望は失望に終わらない。この希望は恥を来たらせず。このことの最も確かなしるしの日です。パウロはIコリント15章13節、14節でこう言いました。「もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります」。また16節から19節。「もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です」。
 しかし主は私たちをありもしない復活の希望にすがるような哀れな者となさらなかった。主は私たちがありもしない復活の希望を信じる哀れな者として恥をかくようにはなされなかった。私たちの希望が失望に終わるようにはなさらなかった。20節。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」。ここに私たちの確かな足場があり、私たちの確かな希望がある。この希望に導かれての歩みを新たにはじめてまいりましょう。

 

 



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