ローマ人の手紙講解その18   2019/04/14
『すべては信仰による』

ローマ4:16-25

 4月第二の主日を迎えました。今日から受難週に入ります。十字架の御苦しみを私たちのために担われた主イエス・キリストを深く思い巡らし、来るよみがえりの朝、喜びのイースターに向かいたいと願います。皆さんお一人ひとりに主の豊かな祝福を祈ります。

(1)すべては信仰による
 最初に25節を読みます。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」。受難週を迎えたこの朝に、そして先週、私たちの教会の歴代牧師のお一人であった齊藤良子先生を主の御許にお送りした後のこの朝に、ローマ書からまことにふさわしい御言葉が与えられている恵みを感謝します。主イエス・キリストの十字架の死とよみがえりの出来事が、私たちが義と認められるためであった。まさにローマ書が語る一番大切なメッセージがここに記されていると言えるでしょう。そしてこのメッセージを聴くのにもっともふさわしい朝を、今日迎えられている。淡々と進む礼拝の営み、地道に一歩一歩進む御言葉との取り組みの中に、確かに生ける主が働いてくださっていることを覚えさせられています。
 今日でローマ書4章を読み終えますが、ここはこれまでにも確認してきたように、パウロが3章で語って来た事柄、すなわち人が神の御前に義と認められる、罪なき者と認められるのはただキリストの真実によりキリストへの信仰によるという、教理の言葉で言う「信仰義認」の教えを、その実例として旧約聖書、創世記に登場する信仰の父アブラハムの姿をもって示しているというところでした。信仰によって義と認められるとはいったいどういうことなのか。それが分かるためにはアブラハムの生涯を見なさいというわけです。しかもそれは単なる例、モデルというのではない、アブラハムを義と認めた神は私たちをも義と認めてくださる。アブラハムの子孫であるユダヤ人だけでない。アブラハムの信じた神は、アブラハムと約束を結び、その約束にどこまでも真実を尽くし、誠実を尽くしてくださる神であり、この神を信じるすべての者の父となってくださるというのです。16節から17節前半。「そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべて者の父です。『わたしはあなたを多くの国民の父とした』と書いてあるとおりです」。すべては信仰による。そこにはどのような人の分け隔てがない。ローマ書が1章18節から3章にかけて「すべての人は罪人」と人間の罪を繰り返し徹底して語って来たのは、まさにこの真理を福音のメッセージを私たちに知らしめるためであったのです。

(2)アブラハムの信仰の姿
 このように神さまの救いのお約束は、16節で「律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです」と言われます。これは自分たちこそアブラハムの末裔、アブラハムの子孫であると自負するユダヤ人たちの民族的な誇りを打ち砕くものでした。大事なことは何民族であるか、誰の血筋か、割礼を受けているかということではない。神の約束を信じる者はみな神の民であり、「アブラハムは、私たちすべての者の父です」と言われるとおりです。では私たちが倣うべきアブラハムの信仰とはいったいどのようなものだったのかを説き明かすのが、続く17節後半から22節です。「彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、『あなたの子孫は、このようになる』と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ『彼には、それが義と認められた』のです」。
 ここでのパウロによるアブラハムの生涯の切り取り方に心を留めたいと思います。すでに4章では創世記に記されるアブラハムの信仰の姿が取り上げられていますが、そこで繰り返し引用されるのが、創世記15章6節の「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」との御言葉でした。これもすでに申し上げたように、通常、「アブラハムの信仰」と聞いて多くの人が思い起こすのは、創世記22章のアブラハムが跡継ぎの一人息子イサクをいけにえとして献げるという出来事でした。しかしパウロはそうではなく、創世記15章で主なる神がアブラハムを召し、彼とその子孫に「世界の相続人となる」という約束を結んでくださった神と、その約束をただ信じたアブラハムの姿を私たちの前に示しました。それに次いで17節以下で取り上げられるのは、創世記17章、18章の老齢となっていたアブラハム、サラ夫妻にイサクが与えられるという約束の出来事です。これをパウロはもう一つのアブラハムの信仰の姿として切り取っているのです。しかもそこでは「彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ」た、また「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ」たと言われる。つまりここで「信仰」ということがこちら側からの、人間の側からの何かしらの働きかけや努力、思い入れといった類いのものでは一切なく、ただただ神の約束とその約束に対する神の真実さ、誠実さへの信頼であり、それゆえに神の約束の成就を希望をもって先取りすることであることが分かるのです。
 前々回、「行いでなく信仰によって」救われた私たちが、いつしか「信仰という行いによって」救いを全うしようとするようになる危険性を指摘しました。しかし信仰とは、私たちが自分たちの力で、知恵で、努力で、がんばりで、天へと至るように積み上げていくバベルの塔ではないのです。信仰とは根本的にまったく受け身の事柄であり、主語は神であって、私たちはどこまでも述語の存在であるということを心に留めたいと思うのです。

(3)信仰、約束、希望
 このようにパウロがローマ書4章でアブラハムを通して示す信仰の世界を、同じ視点からよくまとめてくれているのがヘブル書11章です。ヘブル書11章は旧約の信仰者たちの姿を次々に描く感動的な箇所なのですが、8節から19節でアブラハムが取り上げられています。特に今日のローマ書4章との関わりで読んでおきたいのが11節です。「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方は真実な方と考えたからです」。
 無いものを有るものとして召される神を信じる。望み得ない時に望みを抱いて信じる。19節以下で「サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました」と言われるアブラハムの信仰、それはまさしくヘブル書11章1節から3節で次にように言われる信仰の姿です。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります」。今朝、私たちはあらためて私たちの信仰とはいかなるものか、ということをはっきりと確認しておきたいと思うのです。私たちの信仰。神が義と認めてくださる信仰。それは要するに「約束してくださった方は真実だ」と信じる、この一事に尽きるということです。そしてこの真実なお方を信じる時に、私たちは無いものを有るものとして召される神を信じ、望み得ない時に望みを抱いて信じる者とされるのです。
 この度の良子先生の召天と葬儀に際して先生の証しを読み、また特に2005年4月に教会の四十周年の記念礼拝で語られた説教を読み返しました。『神の備えてくださったもの』という説教題で、Iコリント2章9節からの説教です。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」。この説教はぜひ皆さんに読み返していただきたいと思います。良子先生はこの説教の中で、一先生とともに牧会された日々、そして一先生を天に送った後の神学校教師として、二人の息子さんを養い育てる未亡人として、そして会堂建築の最中に突然に牧師を天に送った教会を引き継いだ牧師として通られた信仰の歩みが大胆に証しされています。その説教の締め括りでこう語られる。「私たちはしばしば、目で見るもので判断したり、自分たちの経験からああだとか、こうだとか決めつけたりする愚かな者でありますが、神様は私たちの思いをはるかに超える方法を用いて、私たち一人一人の成長を促されるお方でることを知りました。ですからこれまでにない経験や大きな壁にぶつかったとき、どうしていいかわからないようなときにこそ、自分自身をそのまま神様の前に示して真剣に祈り、神の助けを求めなければならないのです。時は打ちひしがれて祈りの言葉も出てこないことがあります。そのような時の私たちのうめき声さえ、神様は丁寧に聞き取り導きを与えてくださるお方です。・・・イエスさまの血潮という尊い代価により、すでに贖われている私たちを決して見放すことも、見捨てることもなさらないお方が神様です。放蕩息子を待ち続けていた父親のように、苦しいときの神頼みでも、愛情深く、迎えてくださる神様なのです。神様は慰めの神であり、導きの神であるということを、徳丸町キリスト教会の初期の歴史の一端を担うことを通して、十分味わわせてくださったことに感謝しております」。

(4)すべてはキリストによる
 ここで良子先生が見事に信仰の世界を、そして神様を信じて生きることを語ってくださっています。信仰の世界。それは目に見えるところで歩むということを超えて、まだ見てないものを信じ、待ち望み、しかもそれは決して失望に終わることがないという神のお約束とその真実にいっさいをお任せして生きる世界です。望み得ない時に望み、それもまた潰えてしまうようなことがあっても信仰が弱まるどころかむしろかえって強められる。神には約束したことを実行する力があると確信する。それが私たちに受け継がれ、脈々と流れている信仰なのです。時に信仰と常識が対立することがあります。信仰の世界は非常識、無謀の世界、常識の世界に収まる程度の、確実で見通しの付く程度の信仰で、と私たちは考える。しかしそれでいいのでしょうか。パウロはこのアブラハムの信仰をさらに私たちの前に拡大し、徹底して次のように言うのです。23節から25節。「しかし、『彼には、それが義と認められた』と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」。
 無いものを有るものとして召される神を信じたアブラハム、望み得ない時に望んだアブラハム、その信仰を神が義と認められたのは「ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもある」。「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められる」というのです。ここでアブラハムの信仰と私たちの信仰が一つの線で結ばれる。その結び目、結節点になるのが主イエスの復活を信じることだと聖書は語る。まさに私たちの信仰の中心にあるのは復活の信仰なのです。信仰が無謀だ、非常識だと言われる。ある意味で当然のことです。キリストの復活を信じているのですから。でもだからこそ私たちはそのゆえにまた望み得ないことを望んで、信仰によって生きることができるのです。すべては信仰による。それは言い換えればすべてはキリストによる、ということです。このキリストにあって、希望と約束の中を生きることができる。その幸いを思います。
 私がかつて奉仕していた東岡山キリスト教会にOさんという役員がおられました。開拓から七年間、県庁職員として働きながら、毎週のように説教、祈祷会、個人伝道と、文字通り信徒伝道者として働いてくださり、その後を若干25歳の私が引き継いだのでした。県庁勤めの傍ら、お昼休みに近くの改革派岡山教会の、もう天に召されたK牧師のところに通って神学の手ほどきを受け、いつも教理的にしっかりとした説教をなさる方で、時おり役員会の席で「先生、先生言うてなんぼのもんじゃ」などと言われる厳しい方でもありました。このOさんと数年にわたって聖書を学び続けた一人の男性がやがて信仰を告白し、洗礼を受けた。彼はずっとキリストの復活が信じられず、決断できずにいたのが、ある時、何年ものあいだ毎週決まって仕事帰りに自分のために学びを続けてくれるOさんに聞いたそうです。「Oさん、本当にイエス・キリストが復活したと信じてるんですか」。その時Oさんがキッパリと答えた。「もちろん、信じています」。その「もちろん、信じています」と言ったOさんの姿を見て彼は信仰を決心されたのです。この兄弟はその後、私たちが奉仕している間に役員となって本当に支えてくださり、今も長老として仕えておられます。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」。これが確かな福音の約束です。すべてはこの福音を信じる信仰にかかっている。すべては信仰によるのです。

 

 



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