ローマ人の手紙講解その17    2019/04/07
『世界の相続人となる』

ローマ4:9-15

 4月第一の主日を迎えました。教会の周囲の桜も満開となり、今日も私たちに新しいいのちを与えて生かしてくださる主の恵みとあわれみを覚えます。教会も様々な変化を遂げる春です。思いも新たに主の御前に心を開き、御声を聴いて、主にある一歩を歩み出してまいりたいと願います。皆さんお一人ひとりに主の豊かな祝福をお祈りいたします。

(1)幸いに生かされている
 今日のローマ書の御言葉を読んで、ハッとさせられる経験をしました。これまでローマ書を読み進めてきて、最初の難所であり、また重要な箇所である3章を読み終えて4章に入り、先週は中谷先生の徳丸町での締めくくりの説教を聴き、あらためて4章に戻って来て、今日の9節を読みました。「それでは、この幸いは、割礼のある者だけに与えられるのでしょうか」。ここで「この幸い」という一つの言葉に強く心が引きつけられたのです。私たちは今、「幸い」を与えられている。私たちは今、「幸い」に生かされている。このまったく単純な事実、しかし同時に、まったく驚くべき事実をあらためて思い、感謝しました。主イエス・キリストにあって今日、私たちが生きているということは、私たちが幸いに生きているということなのだ。このことを今朝、確認したいのです。
 先週の礼拝で歌った福音讃美歌229番。有名な「ロンドンデリー」ですが、聖歌330番の歌詞がとても味わい深いものです。「幸い薄く見ゆる日に孤独に悩むときに、わが恵み汝に足れりと静かな声を聞きぬ。さればわれ、わが目を上げて、十字架のイエスを仰がん。
主よ、汝が愛を想えばわれに乏しきことなしと」。確かに私たちの日々の歩みの中には様々な困難があります。悩みは尽きず、不安や恐れは絶えずつきまとう。健康のこと、子育てのこと、明日からの仕事のことや経済のこと、職場の人間関係や友人関係のこと。時には信仰や教会のこともまた悩みの原因となることがある。また誰にも言えない自分自身の心の中に抱えている重荷や、深い闇の中に潜む過去の傷や罪の問題がある。まことに「幸い薄く見ゆる日」が続いていく人生です。けれども、そこで私たちはそれでも今、幸いに生かされているという事実に立ち戻りたいと思うのです。

(2)義と認められる幸い、罪が赦される幸い
 9節の言う「この幸い」とはいったい何か。それはすでに直前の3章6節から8節で語られたように「神が義とお認めになる人の幸い」であり、「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人」と詩篇32篇を引いて語られていたことです。すなわち聖書の言う「幸い」とは、主なる神によって私たちが義と認められることであり、また主なる神によって私たちの罪が赦されることです。これらは別々のものではなく、むしろ一つのことの両面です。神が人を義と認めるということが、人が神に罪を赦されるということでもあるのです。
 この幸いを、私たちは決して忘れてならないと思います。この幸いを、私たちは決して小さなこととしてはならないと思うのです。3月の末に信仰告白に導かれた一人の兄弟が、その翌週の学び会の時に「先生、先週の信仰告白の祈りをした日付を後から考えてびっくりしたのです」と話してくださいました。一緒に祈ったそのちょうど1年前の日付が、彼がある一つの経験、自分の罪の現実と向き合わされる大きな経験をして、それがきっかけで真剣に救いを求めるようなった始まりの日だったのです。それからちょうど一年後の日に、主イエス・キリストの十字架を受け入れ、罪を悔い改めて、主イエスを信じる信仰の決心をした。まさに義と認められる幸い、罪が赦される幸いを身をもって体験した。それは私たちが誰一人、例外なく体験したことでもある。それがその後の私たちの生き方を形作る原点となったことです。そのことを私たちは決して忘れてならない。今日、4月第一主日で主の晩餐に与ろうとしていますが、私たちが繰り返し主の晩餐の恵みに与るのは、まさにこの義認の幸い、赦しの幸いをこの身をもって覚えるためにほかならないのです。
 さて、そこであらためて4章の議論に戻りたいと思いますが、ここでパウロは、この義認の幸い、赦しの幸いに与るのは誰なのかという議論を繰り広げています。それは4章3節ですでにはっきりと示された結論的な言葉、「聖書は何と言っていますか。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあります」。この結論をさらに補強するための議論です。もう一度、9節と10節をお読みします。「それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、『アブラハムには、その信仰が義と認められた』と言っていますが、どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです」。
 ここでアブラハムが義と認められたのは、行いによるのでなく、信仰によるのだということを念押しするために、パウロが引き合いに出すのが「割礼」という儀式です。「割礼」とは創世記17章9節から14節にかけて主なる神によって命じられたもので、アブラハムの子孫との間に結ばれた契約のしるしとされるものです。17章10節、11節。「次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる」。

(3)義と認められたことの証印として
 この「割礼」が後の時代に至るまでユダヤ人たちの民族的な誇りの根拠であり、「割礼」が自分が神の民の一員であることの保証となっていたことは、すでに2章の終わりで見たとおりです。しかしパウロはここで、アブラハムが神の御前に義と認められたのは割礼によるのではないとして、ユダヤ人たちの誇りの根拠を一刀両断にします。アブラハムが義と認められたのは割礼によるのではない、ただ神の約束を信じたからだということを、創世記の時間の順序に沿って説明するのです。すなわちアブラハムが割礼を受けたのは創世記17章の出来事であるのに対し、ローマ書4章が繰り返し引用する「アブラハムは信じた。それが彼の義と認められた」とは創世記15章の出来事であり、アブラハムが割礼を受けるよりも前の出来事だという事実に注目させているのです。
 こうしてパウロは実に大胆にも、旧約以来ずっとユダヤ人たちが誇りとしてきた「割礼」という儀式に対して、彼らからするとまったく新しい解釈、私たちからするとむしろその本来の意味を取り出して次のように語ります。11節、12節。「彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした」。契約のしるし、神の民のしるしとしての割礼の本来の意味。それはただ神さまの約束を信じた、それだけで義と認められたことの「証印」だと言う。割礼を受けから神の民なのではない。割礼を受ける前にすでにアブラハムは神の民とされ、そのしるしとして与えられたのが割礼なのであって、それは「しるし」なのだというのです。そして倣うべきもの、受け継ぐべきものは、割礼という儀式やそれにまとわりつく特権意識などではなく、「私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む」という姿勢にほかならないのです。こうして考えると割礼を誇りとし、頼みとするような姿勢は、アブラハムの信仰の姿勢からまったく逸脱したものであることが明らかです。しかしそれを面と向かってハッキリと語った。それがローマ書、ガラテヤ書の果たした大きな意義であると言えるのです。
 今、お二人の方が洗礼準備会の最中にあります。洗礼の準備の始まりに、そもそも洗礼とは何かということを学びます。その時に繰り返し申し上げるのが、「洗礼はしるし」、「聖霊による証印」の目に見えるしるしであるということです。洗礼という儀式に人を救う力があるわけではない。洗礼の水に特殊な効果があるわけでもない。父なる神が御子イエス・キリストの十字架の贖いによって成し遂げ、聖霊によって私たちのもとにもたらしてくださった救いの恵みを保証するしるし、聖霊による証印、それが洗礼の意味であって、それはまさにアブラハムに与えられた割礼の意味からずっと繋がってきている「信仰によって義とされる」幸いを私たちにもたらすものなのです。

(4)世界の相続人となる
 旧約以来の割礼の意味を新たに示したパウロは、さらに大胆にも、創世記17章で主なる神がアブラハムに約束された祝福の約束を新しく拡大してみせます。それはパウロが自分勝手な解釈を施して拡大させたというのでなく、むしろ神さまの御心をより明らかに示したとするのが相応しいでしょう。13節。「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです」。
 ここでパウロは、アブラハムに与えられた祝福の約束は「世界の相続人となるという約束」だというのです。創世記17章では「わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる」と言われていました。しかしローマ書でパウロは、この約束を大きく世界大に拡大して私たちの間に示す。しかもそれとの関連でもう一度確かめておきたいのが11節、12節、「彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となる」という御言葉です。ここでの論法は単に割礼を受ける前から後へという時間の順序を越えて、むしろユダヤ人からその枠の外にあるすべての人へという世界大の広がりを意味していると言えるでしょう。すなわち、旧約の信仰は律法の信仰、救われるのはユダヤ人だけ、そのために必要なのは人間の行い。これに対して新約の信仰は恵みの信仰。救われるのはすべての人、そのために必要なのはただ信仰のみ、という単純な図式が覆されているという事実です。
 かつては旧約と新約を対立的に理解するという聖書の読み方や、旧約から新約への展開を民俗宗教から世界宗教へと発展の歴史として理解するという聖書の読み方が主流でした。しかしよく聖書全体を見つめ、特にローマ書を手がかりに旧新約聖書を読んでいくと、旧約と新約はむしろ深く結びついており、旧約の信仰も恵みの信仰、狭隘な民族主義を越え出ていく普遍的なメッセージを持ち、神さまの救いのご計画の中で世界大の大きな広がりを持っていることが分かってくるのです。
 こうしてローマ書は、信仰によって義とされた私たちは世界の相続人とされているという事実を明らかにします。この神さまの御心を受け取るとき、私たちはあらためて今、私たちが罪赦されて、義と認められて、神の子どもとされて、世界の相続人とされて、そのような者として生かされていることが、どれほどの「幸い」であるかを覚えさせられます。私の救いは決して小さなことではない。救われた私たちの存在は決して小さい者ではない。確かに救われた私たちはなお弱く脆い存在であり、救われた私たちの集まりである教会もまた小さな存在です。けれども、神さまが私たちに託してくださっている世界の相続人としての光栄と責任はまことに大きく、重いものなのだということを覚えたいと思います。

 

 



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