ヨハネ黙示録講解 その7 2008/02/24
『いのちの冠』

ヨハネ黙示録2:8-11

今朝こうして私たちの前に開かれている御言葉は、今年の私たちの教会の主題聖句が記されている箇所でもあり、すでに1月の新年聖会の主の日に説き明かされたところですが、改めてこの朝、スミルナ教会に対する語りかけの言葉の全体に目を配りながら、主からの励ましと約束の御言葉として受け取っていきたいと思っています。

(1)初めであり、終わりである方(v.8)
 アジヤにある七つの教会に書き送られる主イエスの言葉の中で、二番目に登場するスミルナ教会への言葉は二つの点で注目に値します。一つは他の教会への語りかけの言葉に比べて、この箇所がわずか4節という短い言葉で記されているということ、いま一つは、他の教会は主イエスからの称賛とともに戒め、非難の言葉も投げかけられているのに対して、スミルナ教会と3章7節以下のフィラデルフィア教会だけは主イエスから非難の言葉が投げかけられていないという点です。主イエスからすれば短い言葉で十分必要なことは伝わっている。そんな手応えのある教会、それがスミルナ教会でありました。ではこの教会はどのような姿勢を持つ教会だったのでしょうか。まず主イエスはこう語りかけられます。
8節。「また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる』」。エペソから北におよそ60キロにある港町、今日のトルコはイズミール。エペソに次いで繁栄ぶりを誇っていた大都会の町。港に近づく船はスミルナの丘にそびえ立つギリシャの神々を祭った荘厳な神殿に目を奪われたと言われるほどに異教の神々の祀られた町。アジヤ州の中でローマ帝国への忠誠をいち早く示し、皇帝崇拝にも熱心で、ローマからの覚えめでたい町。その一方で古くから離散ユダヤ人たちが数多く住んでいた町。それがスミルナという町の姿でした。
 町のあちこちには様々なギリシャの神々を祀る神殿が建ち並び、その中心にはローマ皇帝を崇拝する神殿が位置し、まさにローマ帝国の世界支配が目に見える形で誇らしげに示されるこの町に、しかしイエスを信じ、イエスのみを主と告白する人々がいる。それはこの日本の社会の中で、様々な異教の文化や習慣に囲まれながら圧倒的な少数者として生きる私たちの姿と重なってくるようです。しかしそんな彼らに主イエスは「初めであり、終わりである方」として御自身のお姿をお示しになります。この世界の中にあるすべてのものを手中に収め、その上にほしいままに権力を振るうローマ皇帝、まさに「主」の名をほしいままにするローマ皇帝に対して、世界の始まりと終わりを支配しておられる真の主はただひとり、「死んで、生きた方」であるイエス・キリストのみであると告白する。スミルナ教会の信仰の心意気が伝わってくるような言葉を、私たちもこの朝、励ましに満ちた言葉としてしっかりと聴き取っておきたいと思うのです。

(2)知り、励まし、命じる方(v.9-10)
そのようなスミルナの教会に主は語りかけられます。9節。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。−しかしあなたは実際には富んでいる。−またユダヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている」。エペソ教会への語りかけでもそうであったように、ここでも主イエスは「わたしは知っている」と言われます。主が知っていてくださること、それはスミルナの兄弟姉妹たちの「苦しみ、貧しさ」そして「ののしられている」現実でした。
これまで黙示録を読み進める中でくり返しくり返し、当時の教会が迫害の時代を生きていたことを申し上げてきました。しかしこの当時の様子を見ると、激しい迫害が絶えずあったと言うことでは必ずしもないようです。比較的穏やかな日々が流れたこともあった。けれどもいつも日々の生活の中に、キリスト者として生きていく上での小さな摩擦や衝突がある。人々から疎んじられる空気、違和感をもった眼差し、何となく生きづらい、何となく圧迫感のある、そんな日々が繰り返されていた。それが彼らが信仰に生きる上で日々向かい合っていた「苦しみ」の現実でした。また彼らには「貧しさ」があったとも言われます。ローマ帝国からの迫害によって教会はしばしば財産没収の憂き目に遭いました。財産といってももちろん教会がそんな大金や財宝を持っているわけではない。当時のローマにあった教会のある司教は教会の財産はやもめ、みなしごたちだといって体を張って彼らを守ったと言われます。実際に彼らは主を信じて生きる上で日常生活の中で様々な虐げの中にありました。町の人々からそれこそ村八分のような扱いもあったでしょう。かつて日本でもクリスチャンは町の中で邪教を信じる者として「ヤソ」呼ばわりされ、食べ物を売ってもらえない、商売もできないという仕打ちを受けていたのです。ですから彼らは文字通り貧困の中で慎ましく生きていたということなのです。
 それだけではありません。彼らにはユダヤ人たちからのののしりもあったと言われます。ユダヤ人たちは旧約の神だけを信じていましたから、キリスト者たちがナザレのイエスを神の御子と信じ、主イエスこそが旧約聖書が預言した救い主メシヤであると信じ告白することを許すことができなかった。それでスミルナの教会の人々をひどくののしり圧迫を加えていたのだというのです。それでいて彼らはローマとの衝突を避け、形式的には皇帝崇拝も行っていたようで、自らは信仰の妥協をしながら他方ではキリスト者たちを唯一の神を信じない者として苦しめていました。つまりスミルナの信仰者たちは一方ではローマ帝国から皇帝崇拝をしない無神論者呼ばわりされ、他方ではユダヤ教徒たちからは唯一の神のみを信じることをしない多神教論者呼ばわりされていたのです。こういうまことに難しい境遇の中を、それでも忠実に生きるスミルナの兄弟姉妹たちを、主イエスは「わたしは知っているよ」と静かに、確かな御声をもって語りかけていてくださるのでした。
 そんな彼らに主はさらに声をかけられます。10節。「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」。主は安易な慰めの言葉をかけることをなさいません。むしろたたみかけるようにさらなる苦難の予告をなさるのです。「あなたがたが受けようとする苦しみ」、それは「悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける」というものでした。ユダヤ人による圧迫に加えて、さらにローマ帝国によるいのちの危険を伴う迫害がやってくる。主はその苦しみが悪魔の試みであると言われます。しかし主はその苦しみを前にしてきっぱりと言われます。「恐れてはいけない」。ここで私たちはスミルナ教会に語りかけられる主のお姿を改めて確かめておきたいと思います。恐れてはいけないと語られる主は「初めであり、終わりである方、死んで、また生きられた方」です。それはさかのぼれば1章17節、18節で「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとの鉤を持っている」と言われたお方なのです。この主が「恐れるな」と言われるとき、それは単なる景気づけの根拠のない励ましでないことは明らかです。なぜなら主イエスご自身が彼らを待ち受けている苦しみをすでに味わい、しかしそこから勝利してよみがえってくださったただ一人のお方であられるからです。
 この励ましをもって主は命じられます。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」。「恐れるな」と励まされる主は「忠実であれ」と命じられる主です。1月の時に、この「忠実」と言う言葉には「真実」という意味もあると申し上げました。主イエスの私たちに対する真実が私たちの主イエスに対する忠実さを生み出し、それを支え、全うしてくださるのです。そうであれば、神ならぬものを恐れないという信仰の姿勢は、まさにこの主の真実に裏付けられた主への忠実さによって全うされるものであり、またこの主への忠実さは、主以外のものを恐れないという信仰の姿勢によってこそ証しされるものということができるでしょう。

(3)勝利を得る者に与えられるいのちの冠(v.11)
 こうして主に忠実に従う者たちに、主は一つの祝福の約束をくださいます。それが「いのちの冠」と言われるのです。いのちの冠、それは主イエスを信じる者に約束される永遠のいのちの祝福、この肉体の死を越えてなお与えられる永遠のいのちの祝福です。ですから主はこう言われます。11節。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」。死に至るまで忠実である者を主は勝利者と呼んでくださる。そしてその勝利を得る者は「決して第二の死によってそこなわれることがない」と言われるのです。ここには肉体の死と言うことに対する主イエス・キリストのあるきっぱりとした宣言が込められています。迫害や投獄によって突然のようにいのちの終わりを迎えようと、あるいは平和で長寿を全うして穏やかな最後を迎えようと、いずれにしても人は誰も第一の死、すなわち肉体の死を避けて通ることはできない。けれどもより肝心なことは、肉体の死で終わることのない永遠の問題にどう決着を付けるかということです。本当の決着は第二の死に勝利を収めるか否かにかかっているのです。死んで、生きられた方である主イエス・キリストのいのちにあずかって、私たちもまたこのいのちに、永遠のいのちに生かされる者とされる。ここに信仰の生涯のゴールをしっかりと見据え、焦点を絞って、私たちの信仰の戦いは続いていくのであり、そして終わりまで忠実に主に従う者たちに、主は「いのちの冠」としての永遠のいのちの祝福を賜ってくださるのです。
 「いのちの冠」という時の「冠」という言葉は、王様の頭に載せられる黄金に輝く冠ではなく、月桂樹で編まれ美しい花で飾られた冠を指しています。それはちょうどマラソン競争を走り終えた競技者に、その栄誉を称えて与えられるものでした。この冠は、走る前にかぶるものではありません。レースを走り終えた者、その長い長い行程を、息も絶え絶えになりながら、足がもつれそうになりながら、時には立ち止まりそうになったり、転んだりしながら、口は渇き、鼓動は高まり、苦しさに耐えながら、それでもひたすらにゴールを目指して走りきったランナーが、ゴールにたどり着いて初めて与えられる冠です。主は私たちの信仰の生涯を、そのようにゴールしたところで受け取ってくださる。途中には挫折もあるでしょう。スランプもあるでしょう。立ち止まることも、棄権したくなるときもあるでしょう。それでも主の御真実に支えられてどうにかこうにかやっとのことで倒れ込むようにしてゴールインする時に、主はそこに「よくやった」とのお褒めの言葉とともに「いのちの冠」、何にも代え難いいのちの冠の祝福を与えてくださるのです。そしてこの希望があるから、スミルナの兄弟姉妹たちは苦しみの中で、貧しさの中で、ののしられても、主に忠実に従うことができたのでした。
 翻って私たちはどうでしょう。私たちが生きるこの道も、苦しみ、貧しさ、ののしりの中で時にはいのちさえ落としていく信仰の歩みに連なっているものです。いったいそこに何のよきことがあるのか。何の得するものがあるのか。確かに地上の人生に限って損得勘定を数えてみれば、決して計算の合わない、割の合わない人生かも知れません。けれども最後に9節。「しかしあなたは実際は富んでいる」と主は言われる。隠し財産があるわけではない。埋蔵金があるわけでもない。けれども人間の計算で積み上げていっては決して辿り着けない祝福の富に溢れた世界が信仰の世界です。いのちの冠を得る者は勝利者であり、永遠のいのちを得ることが何よりの宝です。その約束に生きている限り、地上の教会はどのような苦しみ、どれほどの貧しさ、どれほどのののしりの中にあったとしてもなお、圧倒的な勝利者として立つことができるのであり、一番の宝を持つものとして歩むことができる。それが聖書の約束です。最後に第二コリント6章3節からの御言葉を心に刻みたいと思います。「私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまづきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」。
 貧しいようでも多くの人を富ませる存在、何も持たないようでもすべてのものを持っている存在。それがキリスト者であり、それが教会であり、それがいのちの冠を頭にいただいた私たちの姿である。この確信に立って、私たちもまた確かな足取りで、主の真実に支えられつつ、死に至るまで忠実に、永遠のいのちの希望と約束に向かって歩み出してまいりたいと願います。


 



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