朝拝説教    2018/08/19
『まことの隣人』 

ルカ10:25-37

 この朝、皆さんを愛してやまない主イエス・キリストが、お一人一人の名を呼んでこの場に招いてくださいました。主イエス・キリストの愛の語りかけを聞き、その愛に出会って、主イエス・キリストと共なる一歩を踏み出してまいりましょう。皆さんの上に、主の豊かな祝福がありますように祈ります。
 
(1)隣人愛の教え
 この朝与えられている御言葉は、大変よく知られた主イエスのたとえ話の一つで、しばしば「よきサマリヤ人」と呼ばれるものです。旅の途上で強盗に遭い、瀕死の重傷を負わされた「ある人」を、当時ユダヤ人とは敵対関係にあった一人のサマリヤ人が助け出し、介抱したストーリーは「あなたも行って同じようにしなさい」という主イエスのストレートなチャレンジの言葉で締めくくられる。隣人を愛する愛を教える、ある意味でキリスト教信仰を象徴するようなたとえ話と言ってもよいでしょう。確かにキリスト教は「隣人愛の宗教」というイメージは広く人々の中に共有されていて、それはそれでありがたいことだと思います。しかしながら、キリスト教を「隣人愛を実践する宗教だ」と考えてしまうと、聖書の語る福音と少しズレが生まれてしまうように思います。そもそも主イエスが語られた「愛」とはいかなる愛なのか。そこに立ち戻ってご一緒に御言葉から考えてみたいと思うのです。
 「よきサマリヤ人」のたとえ話はルカ福音書だけが記すものですが、その前にある主イエスと律法学者との対話は他の福音書も記録するものです。25節からお読みします。「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』イエスは言われた。『律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。』すると彼は答えて言った。『「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。』イエスは言われた。『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます』」。
 この主イエスと律法学者の対話には、この後のストーリーを読み解くためのいくつかのポイントがあります。一つめは「何をしたら永遠のいのちを自分のものとできるか」という問いかけです。主イエスが隣人愛を語られる前提となっているのは、律法学者たちの「自分のため」の問いなのです。二つめは「イエスをためそうとして」という彼らの意図です。つまり彼らは虚心坦懐にこの問いを持ってきたのではない。自分たちはすでにその答えを知っているが、あなたはどう答えるつもりですか、主イエスへの敵対心、対抗心をむき出しにした問いだということです。
 そうすると三つめに主イエスのお答えになった「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」とのお言葉も、単に彼らの答えを「ご名答」と称賛したのではない。むしろ「確かにあなたたちは正解を知っているではないか。それほどに正解を持っているのならなぜそのように生きることをしないのか、律法の通りに生きればよいではないか」という、理屈だけは正しくても生き方がそこから離れてしまっている律法学者たちの偽善的な姿を鋭く射抜く言葉だったのです。

(2)誰が隣人なのか
 このように見てまいりますと、「あなたも行って同じようにしなさい」とは、単なる隣人愛の実践の勧め、ということに収まらない主イエスからの挑戦の言葉として響いてまいります。律法学者たちはその言葉に込められた主イエスのチャレンジに敏感に応答しました。しかしその応答にすでに彼らの問題が現れています。29節。「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、だれのことですか』」。この言葉に潜むのは、実は私たち一人一人の中に潜む姿でもあるのです。主イエスの語られたたとえ話は、そのような私たちの心の内にある真の姿を露わにするものであったのでした。
 30節から。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』」。
 ここでのポイントは、冒頭に申し上げたように道ばたに息も絶え絶えになって倒れている一人の旅人のもとを、当時の宗教的指導者、社会的指導者であった祭司やレビ人が見て見ぬふりをして通り過ごした後、一人のサマリヤ人が彼を助け、懇ろに介抱したというものです。先週午後の教会セミナーでマーチン・ルーサー・キング牧師について学びました。そこでも触れたことですが、キング牧師の『汝の敵を愛せよ』という説教集に「良き隣人あること」という説教が収められています。そこでキング牧師はこの名前も知られない一人のサマリヤ人の示した愛を三つの愛として示しています。第一は「普遍的な愛」、第二が「危険な愛」、そして第三が「過度の愛」だというのです。
 サマリヤ人にあらわれた普遍的な愛とはどのような愛でしょうか。それは人を選別しない愛ということです。彼は道ばたに横たわっている人を「ユダヤ人」として見ることはしませんでした。当時の感覚で言うならばサマリヤ人がユダヤ人を助けることも、ユダヤ人がサマリヤ人を助けることもあり得ないことだった。キング牧師はこれを白人と黒人という当時の社会の姿を引き合いに出しながら説得的に語っています。私たちはしばしば人を選別します。そしてレッテルを貼ります。そして愛を傾けるに価する相手かどうかを限定し、その枠の中に入る人だけを愛そうとする。教会の交わりも気をつけなければならないことだと思います。しかし彼はこの傷ついた旅人が何人であるか、その肌の色、その思想、その国籍、その生まれ育ち、そんなフィルターを通して選別することをしなかった。彼が見たのは、ただ助けを必要とする一人の人間でした。そこに普遍的な愛が表れているのです。
 さらにサマリヤ人の愛は危険な愛だと言われます。なるほどエルサレムからエリコに下る道は、険しい山道が続く見通しの悪い道で、しばしば強盗の出没する危険な旅路だったようです。祭司もレビ人も足早に先を急いだのも想像がつきます。彼らの中には自分自身を正当化する言い分もあったでしょう。大事な礼拝奉仕に遅れる訳にいかなかったのかもしれない。こういう危険をなくすために大事な会合が待っていたのかもしれない。私たちは愛や善ということをしばしば抽象的に考えます。そして抽象的な愛のためには喜んで犠牲を払いたいと思う。しかしそれが自らの生活に入り込み、自分の安全を脅かす具体的な事柄となってくると話は別だということになってしまいやすいものです。しかし彼は自分を危険にさらしてこの旅人を助けました。道端でしゃがみ込み、旅人を抱きかかえて手当てする姿はまったく無防備な姿に見えます。先を急ぐ旅なのにやっかいごとを進んで抱え込む姿を危険な愛と呼んだのです。
 そしてサマリヤ人の愛は過度の愛だと言われます。彼の愛は十分過ぎるほどの愛、あり余るほどの愛でした。彼は旅人を介抱しただけでなく、宿屋に連れて行っただけでなく、こうも言うのです。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」。どうしてそこまで、と思うような彼の振るまいを見るときに、私たちはいかに自らが愛すらも計算尽くで無駄のないように、ちょうどぴったりになるように愛を考える者であるかを思い知らされます。しかし本当の愛とは、相手を満たし、そこから溢れ出て、なおそれを無駄とは見ない。そのような過度の愛なのではないでしょうか。
 
(3)あなたは隣人となりえるか
 こうして律法学者の「私の隣人とは誰のことですか」という問いから始まったこの物語の結論はこうです。36節、37節。「『この三人の中でだれが、強盗に襲われたものの隣人になったと思いますか。』彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。』するとイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい』」。「隣人とは誰か」と問う律法学者の眼差しは、誰が自分の隣人たり得るかというフィルターが組み込まれてしまっていて、その視野から外れた者たちはもはや「隣人」という定義の中には入ってくることができないのです。
 しかし主イエス・キリストは「あなたは隣人たり得たか」を問う。つまり誰が隣人であるかどうかは問題ではない。むしろ私の目の前にいるこの人の、私は真の隣人となりえたのかということをこそが問われているので。つまりこのたとえ話は、私の隣り人とは誰かという隣人探しの物語ではなく、むしろ私は隣人となり得るかという自分探しの物語なのでした。
 では私たちはどこでそのような自らと出会うのか。これが一番の問題です。「あなたも行って同じようにせよ」と言われた主イエスの言葉の通りに、この隣人愛を実践することで、私は私自身と出会うのか。もしそうであれば、キリスト教信仰とはまさに隣人愛を実践する宗教ということになるでしょう。しかし思い起こしていただきたい。聖書が突きつける私たち人間の現実、それは罪にまみれた姿でした。言い換えれば隣人になり得ない私。むしろ自分のことだけを考えてしまう私。愛の実践といってもどこかで打算的な、計算高い愛で自らへのリターンを期待するような私。そういういわば愛のない私自身に出会うのではないでしょうか。けれどもこれが大切なことです。己の愛の限界と向き合うこと、人間の愛の限界に絶望すること。そこから本当の愛への希望が開かれてくる。そして本当の愛に生きる道へと導かれていく。ここにキリスト教信仰の大切な心があるのです。

(4)まことの隣人、キリスト
 私たちはこの朝、この自分の身をどの立場においてこの御言葉を聞くのかということです。この御言葉を読む時、私たちは、では自分だったらどうするだろうかと考えるでしょう。私は「祭司、レビ人」か、それとも「サマリヤ人」かと。しかしそのように問う以上に、本当はむしろ旅人である「ある人」に自らを重ねることこそが必要ではないのかと思うのです。
 旅人である「私」は旅の途上で半殺しになっている。自分で自分を救うことのできない瀕死の状態です。その様な私を行いによる救いも、道徳倫理を説く宗教も救うことができない。しかしそんな私のもとに来てくれた方がいる。彼は死にかけている私を見て「かわいそうに思い」、私を抱き寄せ、懇ろに介抱し、宿屋に連れて行き、自分ですべての犠牲を払って私を救ってくださった。そこに示された愛は、まさに普遍的な愛、危険な愛、そして過度の愛そのものです。その愛が示されたのが、あの主イエス・キリストのいのちがけの愛、いやいのちを捨てるほどの愛、十字架において示された愛なのです。
 正しい人を招くためでなく、失われた罪人を捜し出して救うために来てくださった主イエスにこそ、普遍的な愛が示されています。取税人や遊女、病を負った人や悪霊に憑かれた人の側に立つことで、社会から危険視されることをも厭わず、喜んで罪人の食卓に着かれた主イエスにこそ、危険な愛が示されています。私たちのすべての罪を背負い、すべての辱めと苦痛とをその身に引き受け、父なる神に見捨てられるほどの苦しみを甘んじて十字架にかかってくださった主イエスにこそ、過度の愛が示されています。主イエス・キリストこそが私を愛し、私を助け、私を救い、私を生かすまことの隣人でいてくださるお方なのです。



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