2010オープンチャーチ父の日歓迎礼拝 2010/06/20
『祝福をあなたに』

民数記6:24-26

 今朝は、徳丸町キリスト教会のオープンチャーチ歓迎礼拝にようこそお越しくださいました。この朝はじめて教会に足を運ばれた方も、また久しぶりにお集いくださった方も、心から歓迎申し上げます。本当によく来てくださいました。私たちの教会では毎年この時期に、この地域におられる一人でも多くの方々に教会にお出でいただきたいと願ってこのようなオープンチャーチ、歓迎礼拝を開いています。午後からは今もすばらしい賛美を歌ってくださった岩淵まことさんによるコンサートがあります。ぜひその歌声とともに、特にそこで歌われる言葉と、その言葉に表れてくる岩淵さんの信仰に触れていただきたいと願っています。
 この日のために教会ではメンバーの一人一人が祈りつつ多くの準備を重ねてきました。それらはすべて皆さんにこうして来ていただきたいと願ってのことです。ですから教会のお一人一人の心を代表して、私はここに立って皆さんを心から歓迎しているわけです。しかし今日皆さんがここに来られたことを誰よりも歓迎しているお方、それが生ける神ご自身であられます。今日ここに集われた皆さんに生ける真の神ご自身が出会ってくださり、神様のすばらしい愛と恵みと祝福が注がれるようにと願いつつ、神様の祝福の語りかけをお伝えしたいと思います。

(1)祝福を取り次ぐ人
 この度のオープンチャーチのテーマは「祝福をあなたに God Bless You」です。神の祝福があなたにありますように。ここに集まれたお一人一人、また皆さんに連なる方々、そしてこの町に住む全ての方々に神さまの祝福があるように、そのような祈りを込めてこの主題を掲げました。今朝はじめて教会の礼拝に集われた方がおられますが、礼拝というのは主なる神の招きによって始まり、神の祝福によって終わります。そこではこの礼拝に招いておられるのが神ご自身であることが明らかにされています。皆さんをここに招かれたのは神ご自身です。それは私たちを祝福するためだというのです。そして祝福をたくさん注いで、皆さんをここからまた新しい歩みへと送り出してくださるのです。今日私が皆さんにお伝えしたいのはこのことです。あなたを祝福しようとされる生けるまことの神がおられるということ、その神があなたを祝福したいと願っていてくださること、そしてこの神から私たちは確かな祝福を受けることができるということです。
 確かにここで私も皆さんを歓迎し、祝福したいと思い、また祝福の言葉を語りますが、しかし私という人間が皆さんに祝福を与えるのではない。牧師というのはいわば祝福の取り次ぎ手です。神様からの祝福を皆さん一人一人にお届けする人、なるべくわかりやすく、またストレートに混ぜ物もせず、薄めもせずにたっぷりと満ち溢れる神の祝福をお届けする取り次ぎ手、それが牧師の役割です。今日開かれております民数記6章24節から26節をもう一度読みます。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」。この御言葉は伝統的に「アロンの祝祷」と呼ばれてキリスト教会の長い歴史の中で大切にされてきた言葉です。多くの教会では礼拝の最後のところでこのアロンの祝祷を牧師が述べて終わるようにもなっています。このアロンという人物は旧約聖書の出エジプト記から記されるイスラエルの民の歴史の中で、民の指導者モーセの兄であり、また「祭司」という重要な役割を担った人物です。この祭司という役割が今の牧師のような存在でした。神の御前に人の罪の赦しを求めてとりなしをし、人々に対して神の祝福をもたらす人、いわば神と人との仲介者でありました。人は祭司の所に行って自分の罪を告白し、祭司はいけにえを献げてその人の罪の赦しを神に求める。神は祭司を通して人々に罪の赦しと祝福を与える。ですからここで祭司アロンはイスラエルの民に向かって「主があなたを祝福し」と語るのです。
 父親の役割の中にこの祭司の姿があるように思います。父親は子どもたちとりなし手です。子どもがだれかに迷惑をかけるようなことがあれば父親は子どもに向かって叱りつけますが、しかし相手に対しては子どもの代わりに頭を下げます。そんな姿を見て子どもはお父さんに申し訳ないことをしたなと痛み入るわけです。しかし同時に父親は神の祝福の取り次ぎ手でもある。父親の手を通してもたらされる労働の実りによって家族は養われていくのですが、それもまた神の祝福の目に見える現れということができるでしょう。
 
(2)神が与える祝福
 あらためて「神があなたを祝福してくださるように」というこの祝福の言葉に目をとめておきたいと思います。「God Bless You」という表現は欧米では日常的に使われる言葉ですが、これに変わるような日本語の表現を捜してみてもピタリとはまる表現がないように思います。相手の上に幸いを願う、あなたの上に良いことがありますようにと願う。私たちが互いの間でこの祝福の交換を始めるならば、どんなにすばらしい関係が生み出されるだろうかと思います。家庭の中で、職場の中で、学校の中で、お互いにお互いを喜び合い、尊び合い、祝福し合う。私たちにはそんな真実な交わりが必要なのではないでしょうか。
 この朝、聖書は私たちに向けて「神があなたを祝福してくださるように」と語っていてくださる。これは本当にうれしい言葉だと思うのです。今日の御言葉は実に整った三連の言葉になっていますが、その後半の句の中に神が与えてくださる祝福がどのようなものであるかが示されています。「あなたを守られますように」、「あなたを恵まれますように」、「あなたに平安を与えられますように」。このように神が私たちに与えてくださる祝福とは、神の守り、神の恵み、神の平安です。旧約聖書の詩篇121篇に次のような御言葉があります。「主はあなたをよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」。「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」。また出エジプト記33章19節には「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」とあります。さらに詩篇4篇にはこうあります。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」。
 これらの御言葉が明らかにするように、実は「神の守り、神の恵み、神の平安」は神のくださるものということ以上に、実は神様の有り様そのものを指しています。つまり聖書が証しする神は私たちを守られる神、私たちを恵まれる神、私たちに平安を与えてくださる神なのです。そこで肝心なのは、これらのことを私たちがどう受け取るかということです。聖書が祝福の言葉を記すのは、この言葉を漠然と眺めて「ああキリスト教というのはこう考えるのか」と頷くためではない。ここでは抽象的なことが言われているわけではない。大切なことは、その祝福が私たちに向けて今日差し出されているという事実を知ることであり、知るだけでなく、この祝福を皆さんお一人一人が具体的に受け取り、その祝福に実際にあずかることなのです。

(3)神の御顔の前で
 では私たちがこの祝福にあずかる道はどのように開かれてくるのでしょうか。そこで目をとめたいのは25節の「主が御顔をあなたに照らし」、そして26節にある「主が御顔をあなたに向け」という言葉です。神の祝福がどうやって私たちのもとにもたらされるか、それは主なる神が私たちの方に顔を向け、私たちにその顔の耀きを照らしてくださる時だというのです。つまりここでは神と私たちとの人格的な関係、神と私たちとの顔と顔とを合わせた生きた交わりの姿が描かれているのです。私たちも相手との関係が良好なときは顔と顔を合わせて語り合います。若いカップルがお互いを見つめ合って楽しそうに話する姿などはまさにそうでしょう。しかし一度人間関係の中に破れが起こると、たちまち人は相手の目をまっすぐに見ることができなくなる。それで「あの人に顔向けできない」、「あの人に合わせる顔がない」ということが起こってくる。そこには相手との人格的な関係にある崩れ、破れが起こっていることが現れています。ここで私たちが向き合わなければならないのは私たち人間の罪の問題です。聖書における罪とはまさに生ける神との間の関係が崩れ、破れてしまって、神に顔を向けることができないでいる状態のことを指しています。最初の人アダムが罪を犯してエデンの園で「主の御顔を避けて園の木の間に身を隠して」以来、人は絶えず神の御顔を避けるようになってしまいました。こうして神との関係が断ち切れてしまった人の姿を預言者イザヤがイザヤ書59章でこう語っています。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」。
 では祝福の神が私たちを守り、恵み、平安を与える神であられることをどのようにして私たちが知ることができるのでしょうか。この問題に深く悩み苦しんだ人がおりました。それが宗教改革をはじめた人として知られるマルチン・ルターという人でした。彼は若い時から父なる神が怖くてしょうがなかった。どうしたら神が怒りの仮面をはずして自分にニッコリと微笑んでくれるのか。彼はその事のために修道会に入って一生懸命修行をしたのですが、自分の行いで神様の怒りを宥めて微笑んでもらおうと努力してもその恐怖から解放されることがなかったのです。しかしそんなルターがついに恵みの神を発見したのが新約聖書ローマ書の研究に打ち込んでいた時でした。彼は神の御顔の前で自分を正しい者とするために努力したのですが、そのルターが発見したのは神の御前での義は、私が自分の力で獲得する行いによる義ではなく、神が恵みによって私を義としてくださる恵みによる義、すなわち神の独り子イエス・キリストが私の罪の身代わりとなって十字架に命を捨ててくださったその贖いによって勝ち取られたキリストの義であり、このイエス・キリストを信じる時に、罪ある私はそのままでキリストの義のゆえに神の御前に罪赦され、正しい者と見なしていただける。行いによらずただ恵みによって信仰によって義とされる、これがルターの確信した信仰義認の教えだったのです。ここでも私たちが忘れてならないのはルターもまたこれをただ単に机の上であれこれと頭を働かせて理屈で作ったものではない。本当に自分の罪に悩み、苦しみ、神の祝福に飢え渇き、それを慕う中で御言葉によって与えられた彼の救いの体験だったのであり、それはまさに福音の発見であったのです。

(4)あなたを祝福される神
 神の御子イエス・キリストは祭司アロンのように自らが私たちの大祭司として今日も父なる神の御前にあって「父よ、彼らをお赦しください」と私たちのためにとりなしていてくださるお方です。そして私たちに父なる神からのすべての祝福をもたらし、恵みを注ぎ、平安を与えていてくださいます。その究極の祝福が御子イエス・キリストによる罪の赦しと永遠のいのちの祝福なのです。
 聖書は神のことを指して「父なる神」と言います。神様は私たちのお父さんだというのです。子どもにとって父親は時に厳しく時には怖い存在ですが、しかしいつも私を守り、私によいものを与え、私を支えてくれる存在です。それは両者を結ぶ関係が愛の関係であるからにほかなりません。神が私たちに与えてくださる祝福も父の子に対する愛そのものです。神は私たちを祝福したいと願っていてくださる。罪の中におぼれ、いつまでも御顔を避けたまま滅びに向かって突き進む私たちを決して見過ごしにすることができない。なんとしても私たちを取り戻し、ご自分の御顔の前に立たせ、私たちに溢れるほどの祝福を与えたいと願っておられる。そのために愛する独り子のイエス・キリストを私たちのもとに遣わし、十字架による身代わりの死によって、そして三日目の復活によって私たちに真の祝福としての罪の赦しと永遠の命を与えてくださいました。
 神が私たちを祝福しようという心はこういう心です。もらってもよし、拒んでもよし、どちらでもお好きなようにというようなものではない。何としてもあなたを守りたい、あなたに恵みを注ぎたい、あなたに平安を与えたい。祭司アロンが語った心もこの神の心です。イスラエルの民よ、神の祝福を受けて行きよと。この朝、私も牧師として皆さんに申し上げたい。神の祝福を受け取っていただきたい。その神の祝福がかたちをとって現れたイエス・キリストを信じ受け入れていただきたい。イエス・キリストは神の愛の実現として私たちのためにご自身のいのちを差し出してくださいました。それほどの愛をもって父なる神は皆さんお一人一人を、そしてあなたを祝福しようとしておられる。この方のもとに来る時に、この方を信じて立ち帰り、この方の御顔の前に立つときに、私たちは父なる神が御子イエス・キリストを通して与えてくださる罪の赦しと永遠のいのちの祝福にあずかることができるのです。この朝の礼拝の招きの言葉に主イエスがお語りくださったマタイ福音書の御言葉が読まれました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。わたしがあなたを守り、あなたを恵み、あなたを休ませるよ、と主は言われる。誰もここから漏れる人はありません。ぜひこの朝、この神からの祝福を受け取って、神と共に憩い、またここから生きる新しい人生をはじめていただきたいと切に願います。

 



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