2009オープンチャーチ歓迎礼拝 2009/06/14
『あなたを背負われる方』

イザヤ46:3-4

 今朝は、徳丸町キリスト教会のオープンチャーチ歓迎礼拝にようこそお越しくださいました。心から歓迎いたします。はじめて教会に足を運ばれた方もおられると思います。いささか場違いな所に来てしまったと居心地の悪さを覚える方もあるかもしれません。しかし今日、この場に皆さんがこうしてお出でになられたのは、一方では神の招きによることでもあります。礼拝のはじまりに「招きの言葉」が語られました。神が招いてくださったのでこの礼拝は開かれています。そしてこの礼拝の場に皆さんお一人一人が招かれて来られたことでこの礼拝は成り立っています。このことをまず神に感謝したいと思うのです。
 では神が私たちをこの礼拝に招かれたのはなぜか。そのことを今日のこの朝の礼拝、そして午後の集いの中で御言葉から聞いていきたいと願っている次第です。この朝の説教に「あなたを背負われる方」、そして午後の集いでは「あなたを休ませる方」と題を付けて聖書の御言葉をお届けしたいと願っています。まさに神は皆さんを背負うために、そして皆さんお一人一人を休ませるために、ここに招いておられるのです。この神との出会いをぜひ果たしていっていただきたいと願っています。

(1)背負いつつ、背負われつつ
 「あなたを背負われる方」と題を付けましたが、あらためて思うに、最近このように誰かを背負う、誰かに背負われるという経験をした方があるだろうかと考えます。最近は赤ちゃんもおんぶするよりも抱っこしている若い親御さんを見ますし、自分も子どもたちが大きくなって、子どもたちを背負うこともしなくなって久しくなります。まして自分が背負われるということも、やがてはそういう日が来るかも知れませんが、当分はなさそうです。しかし誰しもが自分自身の記憶を辿っていくと、幼い頃の背負われた思い出というものが残っているのではないかと思うのです。私は牧師の家庭に生まれ育ち、小さい頃にはまだ牧師館と集会場所が兼ねられており、家の和室二間を礼拝堂に使っていました。私自身は小さい頃の写真があまり手元に残っていないのですが、自分のアルバムの中に、一枚の写真があります。恐らく2歳頃のものと思うのですが、その自宅の集会で礼拝の後か祈祷会の後か、ともかく皆で祈っている光景、その中に母におんぶされている私がおりまして、カメラに向かって何と言えない満足した顔で映っている写真です。お祈り中なのに誰が撮った写真だろうかと思うのですが、背負われている安心感、満足感が伝わってくるような写真です。誰かに背負われる安心感、そこから伝わってくる体温、鼓動、息づかい、それらを通して子どもは、自分を守ってくれる存在に身を委ねるのだと思います。
 しかし何時の頃からか大きくなると、自我の目覚めとともにもはや背負われることに恥ずかしさを覚えるようになり、自分で歩ける、自分でできると、強がってもはや自分を委ねることをしなくなる。そしてむしろ今度は自分がたくさんのものを背負うようになっていきます。人それぞれ人生の重荷を背負いながら歩んでいく。それが私たちの歩みです。子どもたちや学生の方は親からの期待、周囲の友だちからの視線、成績や結果やそういうもののプレッシャーを背負っているかもしれません。若い人は今置かれている自分のポジションについて、将来についての見通しについて、少しずつ生まれつつある責任について重荷を感じておられることでしょう。働き盛りの方々は、果たして行かなければならない仕事、そこで示していかなければならない業績、養っていかなければならない家族のことなど文字通り重い荷を背負っておられることと思いますし、子どもたちの成長のこと、夫婦の関わりのこと、年老いていく親たちのこと、自分自身の老いていく後のことなどの心遣いが絶えずのしかかってきます。そして年を重ねていけば、健康のこと、それぞれが歩み始めている子どもたちや孫たちのこと、そして一番の問題である自分の人生の締め括りと死のことが背中にずっしりと担われていることでしょう。人の眼には見ることができませんが、今ここにこうして集っておられるお一人お一人の背中にもそれぞれに重く大きな重荷があるのです。重荷を背負って生きること。それは人が責任ある存在として生きる上では避けられないことですし、それによって一回りも二回りも成長する大事なきっかけとなることも事実です。しかしその一方でその重荷のあまりの重さに、自分ではまだ大丈夫、まだ耐えられると思っていても、実はもう体が、心が悲鳴を上げているということがあるかもしれません。

(2)背負う神、背負われる神
 私たちは幾つになっても、大人になってもどこかで自分の存在を丸ごと委ねられる確かな背中を必要としているように思うのです。今日開かれております旧約聖書のイザヤ書では、神がご自身の民イスラエルに語って聞かせてくださったこのような言葉が記されています。「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」。旧約聖書というのは神と人間とが織りなす壮大な救いのストーリーが描き出されているスケールの大きな書物ですが、その中でもイザヤ書という書物は、神が私たち人間をどれほどの愛をもって愛しておられるかを描き出す重要な書物です。旧約聖書は特に神とイスラエルという民族の関わり合いを中心に描かれているのですが、イスラエル民族にとっての最も中心的な神体験というのは、かつてエジプトで四百年もの長きにわたって奴隷のくびきを追わされていた中から、神が立てられたリーダー、モーセによって助け出された経験、いわゆる「出エジプト」と言われる経験でした。イスラエルにとっての神とは、このように自分たちを助け出してくださった救いの神なのです。
 しかしその後のイスラエルの歴史を見てまいりますと、彼らはそのような救いの神のもとを行くたびも離れ、他の神々のもとに走り、あるいは自分たちの力を過信して、神に背を向けて生きていこうとします。出エジプト直後の荒野での四十年の放浪生活の時もそうでしたし、その後のパレスチナでの定住生活に入ってからもそうでした。その度毎に彼らは神に背負われることを嫌い、自分たちの力でやっていけると言っては失敗を繰り返し、他の神々のもとに走っては、また神のもとに舞い戻ってくるという不真実を繰り返してきたのです。そして今はこのイザヤ書の時代、イスラエルは民族の最大の危機に直面していました。国が南北二つに分離してしまい、北の国は当時の強国アッシリヤの侵略を許して滅亡し、今や南の国には、そのアッシリヤを打ち倒して勢いづく新興国バビロンが迫り、祖国は壊滅的な状況にあるのです。しかしそのような危機の中で主なる神はイスラエルの民に語りかける。「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」と。
 聖書があかしする神は、背負われる神、私たちを背負って救い出す神だというのです。確かにイスラエルの民も何かにすがりたい、助けを求めたいと思うのですが、しかしだからといって素直にこの神のもとに来ることをせず、他の神々に頼ろうとしてきました。今日の御言葉の前後には次のように記されています。1節、2節。「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らはともにかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりこになって行く」。また5節から7節にはこう記されます。「わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない」。ここに出てくる「ベル」や「ネボ」というのは当時のバビロニアの神々のことで、特に「ベル」は神々の父と崇められるような神とされていました。しかしここで言われていることは、要するに彼らが頼りとした神々は、彼らを背負い担うどころか、神々の方が人間に担われ、担がれる者で、それを担ぐ家畜も疲れてしまうというのです。ここには偶像礼拝に対する強烈な皮肉が込められているのですが、しかし私たちはこれを遠い昔の遠い国の言葉として読み過ごすことはできません。家族が自分を終わりまで背負ってくれるのか、会社がそうなのか、国がそうなのか、どれだけの財産が、どれだけの社会的な地位があればそうしてくれるのか。頼りとしてきたものがあっけなく崩れ去って行き、責任を担ってきたはずの相手に簡単に不要だと放り出され、もうあなたは役に立たない、私はあなたを必要としないと面と向かって言い切られ、そうやって絶望の淵に立たせられている人が、今どれだけ溢れていることでしょうか。一体だれが私たちを、本当に終わりまで背負ってくれる方なのか、本当にそのような方はおられるのか。これは実は私たちにとって切なる問いであるのです。

(3)白髪頭になっても背負う愛
 しかし主なる神は言われます。「あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」。しらがになっても背負う神、それは私たちの持つ何事か、私たちの示せる何事か、そのようなもののゆえに背負うというのでなく、私という存在そのものを担ってくださるお方です。人は人間の価値を能力や資質、成績や業績で量ります。謂わば人間を数字と置き換えて、人間をモノのようにして扱うのです。そうであれば若い時の私、働き盛りの私、健康な私、何かができる私、何かが示せる私は背負う価値のあるものであっても、年老いて白髪頭になってしまってはそれこそ単なるお荷物ではないか、ということになってしまうでしょう。しかし神は私たちをそのように扱うことを決してなさらない。私の何かのゆえでなく、私という存在そのものをありのままに受けとめて、その私を背負う、どこまでも背負う、終わりまで背負い続ける。そう言ってくださるのです。
 もう十年ほど前になりますが、私たちがまだ神戸におりました頃、夏の教会学校のキャンプで子どもたちとともに鳥取と岡山の県境にある大山というところにまいりました。内からは私と当時小学一年生の満で参加したのですが、キャンプ二日目のメインイベントが大山登山で標高1700メートルほどの山を往復四時間ぐらいかけて歩くのですが、途中で参加していた小学一年生の男の子が足を挫いてしまいました。それでその子の父親と何人かのスタッフで代わる代わるこの子を背負って山道を歩くという経験をしました。お父さんは小柄な方なのですが、男の子は一年生といっても人一倍体格のよい子で、ずっしりと重い彼の体を支えながら山道を歩くというなかなか貴重な経験でした。最初は数人で順番に彼を背負って歩いたのですが、その内に大人たちも足を痛める人が出て来てしまったため、ついに最後はお父さんが一人で背負って下山したのですが、私はその姿を見て改めて父親の凄みのようなものを感じたことを記憶しています。今日の御言葉を備えながら、足を痛がる息子を一生懸命励ましながら、吹き出す汗をもろともせずにひたすらに歩くお父さんの姿が思い起こされて仕方がありませんでした。
 私たち人間が背負っている重荷は様々と言いました。しかし実は人間の誰しもが、だれ一人例外なく背負っている重荷があると聖書は語ります。それは人間の内にある「罪」です。罪の重荷、これはだれもが背負っている人生最大の重荷です。その重荷は絶えず、私の心を苦しめ、締め付け、責め続けます。そしてその罪の呵責はついには私を押し潰し、呑み込んでいこうとします。そしてついに罪がもたらすものは人間の死です。だれがこの罪の重荷から逃れることができようかと、聖書のなかでも悲痛な叫びがあちこちに記されています。友達を許せず、妬んだり憎んだりする自分の心の闇を知る子どもたちや学生の方があるでしょう。他人の成功を喜ぶことができず、将来よりも今の自分が楽しければよいと投げやりな人生に流されて、この世の醜い欲望にとらわれてる若い人があるかもしれません。他人を蹴落とし、出し抜いて生きるのがこの世の中だと言い聞かせながら、自分の心を削り落とすようにして生きてきて、気がついたら家族も自分の周りには近寄ってもくれないと言いようのない孤独の中にある方があるかもしれません。子どもを自己実現の手段のように取り違えてみたり、親同士の見栄にまみれたうわさ話や陰口の誘惑に取り付かれてしまっている人があるかもしれません。そして年を重ねて死に恐れおののき、自分と向き合うことから逃げ出したいという思いに駆られている人もあるかもしれません。誰もが背負っている罪の重荷。それは自分の力ではどうすることも出来ないほどに大きく、重く、そして深いものなのです。しかし預言者イザヤは、私たちを背負われるお方が、そのために私たちの重荷を身代わりに担わせた方がいることを指し示してこう記します。イザヤ書53章4節から。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。ここに登場する「彼」、この「彼」は私たちの全ての病を負い、痛みを担い、私たちの罪をその身に背負われたといいます。いったいこの「彼」とはだれなのか。実はこの方こそが、私たちの罪をその身に背負って十字架に死なれたイエス・キリストというお方なのです。イエス・キリストが背負って歩まれたあの十字架は、実は本来私たちがそれぞれ負うべきはずのものであった。しかしイエス・キリストが私たちの十字架をすべてその身に引き受けて身代わりとなってくださったと聖書は語ります。いろいろな人生の重荷を背負って生きる私たちを、主イエス・キリストはその重荷を負う私たちもろともに引き受けてくださり、しかもその重荷の一番のものである私たちの罪を身代わりに背負ってくださり、しかも決して途中で私たちを投げ出すことをなさらず、私たちを終わりまで背負い続け、黙ってその重荷を背負い遂げてくださるお方です。

(4)あなたを背負われる方
 教会は私たちを背負われるお方、イエス・キリストを礼拝する群れです。ここに集まっているのは皆、このイエス・キリストに背負われている人々です。教会は正しい人の集まりではありません。強い人の集まりでもありません。何かを悟りきった人の集まりでもありません。重荷を感じない人の集まりでもありません。皆それぞれが人生のある地点で、主イエス・キリストによって背負っていただいた人たちです。罪に苦しみ、生きる重荷に疲れ果て、自分の弱さに打ちひしがれ、まだまだ自分の力で生きていけると思っていたのが、もうこれ以上は無理だと、その限界を受け入れたのです。最初は人の目が気になり、恥ずかしさもありました。この年になって背負われるなんて、自分のプライドが許さない。自分はそれほど落ちぶれてはいない、まだまだ自分の力でなんとかなるはずだ。でもそう強がってみても、どうにもならない自分の弱さがあるのです。限界があるのです。だからこそ恥を忍んで主イエスの背中に飛び込んだ人たちです。でも考えてみていただきたい。主イエスに背負われる事を恥と思うなら、私たちのために身代わりとなって十字架を負ってくださり、その十字架の上に架けられた主イエス・キリストの恥とはどれほどのことであったか。
 しかし主はそれを恥となさらなかった。私たちをどこまでも背負うと決意してくださった主は、その通りにでも私たちのために十字架を担い切り、そうやって私たちを背負ってくださったのです。でもそうやって主イエスの肩に手を掛けて、背中に乗ったときに、実は主なる神が私のことをずっと前から招いていてくださり、背負い続けてくださっていたことを知ったのでした。そして主はお前をずっと背負い続けるぞ、といつも語りかけてくださるのです。主イエスに背負われて生きる。これにまさる慰めはありません。ぜひこの朝、この主イエス・キリストを信じてご自分のもとに迎えていただきたい。洗礼を受ける決心をして主イエス・キリストに背負われて生きる慰めの中を歩み始めていただきたい。それがあなたを背負ってくださるお方の一番の願いであり、また私たちにとっての一番の幸いなのです

 



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