2008オープンチャーチ歓迎礼拝 2008/06/22
『あなたを生かす愛』

ピレモンへの手紙1-25

 今朝は徳丸町キリスト教会のオープンチャーチ歓迎礼拝にようこそお越しくださいました。心から歓迎いたします。今回のオープンチャーチは「ともに生きよう」という主題のもと、昨日は関根先生から「向き合うこと、寄り添うこと」と題してメッセージが語られました。午後にも「生かされてこそ生きる」と題して、再び関根先生が御言葉を取り次いでくださいますが、この朝の礼拝では「あなたを生かす愛」と題して、主なる神からの語りかけを皆さんにお届けしたいと願っています。

(1)愛の語りかけとしての説教
 教会では毎週日曜日の礼拝を行っていますが、そのプログラムの中心にあるのは、牧師が聖書を説き明かす「説教」です。「説教」という言葉を聞いて、皆さんはどんなことを創造されるでしょうか。校長先生や上司の訓辞のようなものを思い描く方があるかも知れませんし、あるいは「お説教」される、何かお小言を言われるようなことを考えるかも知れません。しかし礼拝における説教とは、そのような訓辞やお小言ではありません。それは神が私たちに対して聖書を通して語っていてくださる愛の語りかけを取り次ぐことです。すなわち大いなる神の愛の語りかけであり、あなたを生かす愛の語りかけなのです。
 日本を代表する説教者であり、実践神学者である加藤常昭という先生が『愛の手紙・説教』という著書の中でこう言っておられます。「説教は『愛のわざ』である。・・・愛によって語られる預言、説教の言葉は、罪に打ち倒されているひとのところに届き、これを立ち上がらせる。大工が家を建て上げるように造り上げる。励まし、慰める。愛があるから、それができるのである」。つまり牧師が語る説教とは神の愛を示す言葉であり、その示された神の愛をもって語りかける言葉であり、この愛の語りかけを聞いた人々の中に神の愛に生かされる愛を呼び覚ます言葉であるといえるのです。そしてこのような愛の語りかけは、私たち人間にとって実はなくてならないもの、そのような愛の語りかけなしには、生きていくことができないほどのどうしても必要な言葉なのです。

(2)パウロからピレモンへ
 今日開かれている聖書の中には、このような愛の言葉が溢れています。先ほどお読みいただいたピレモンへの手紙というのは、聖書の中で実にユニークなものとして知られています。そのユニークさの第一は、たった25節しかない短い手紙であるということ、第二は、新約聖書にはパウロが書き送った十三通の手紙が納められていますが、その中で個人に宛てて書かれた幾つかのものの中でもひときわ個人的な内容を書いた私信であるということ、そして第三は、その書き送った中身が、個人的な頼み事という他の手紙にはない内容であるということを挙げることができます。順を追って手紙の中身を見ていくことにいたしましょう。まず1節から3節。「キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。また姉妹アビヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」。手紙の差出人はパウロ、彼はキリスト・イエスの囚人と名乗りますが、これは単なる表現ではなく実際に福音のためにローマで捕らえられていることを表しています。手紙の宛先はピレモン。彼は自分の家を開放して礼拝を守る熱心なクリスチャンであり、恐らくパウロを通して信仰に導かれた人物でした。このピレモンに向けてパウロは実に心のこもった丁寧な挨拶の言葉を書き送ります。4節から7節。「私は祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行いをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように」。

(3)命令でなく、愛によって
心のこもった挨拶を記した後、パウロはいよいよ本題に入っていきます。8節から16節までを一気に読んでいきましょう。「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。彼がしばらくの間、あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか」。
 ここでパウロがピレモンに書き送っているのは、ある個人的な頼み事をするためでありました。要するにどういうことかとまとめてみると、ピレモンの家に仕えていたオネシモという若い奴隷がいた。ところが彼はある日、主人の家から飛び出して行方をくらましてしまったのです。恐らくオネシモは奴隷という人生、道具のように使われて、使い物にならなくなったら捨てられるというそんな人生に絶望し、いいようのない孤独の中で、人生を投げ出したくなってしまったのではないか。当時のローマ社会にあっては逃亡奴隷は見つかれば連れ戻されて命を奪われるのですが、そうなったらそれでも構わない。そんな捨て鉢な考えを抱きつつ、彼は大都会ローマへと逃亡し、そしてローマの町の片隅にひっそりと息を潜めて生活していたのでしょう。しかしどういう経緯か分かりませんが、オネシモはやがてパウロと出会い、パウロを通して主イエス・キリストの福音に触れ、ついには主イエスを信じてクリスチャンになるのです。救われたオネシモはやっと人生の目標を得て、水を得た魚のように命を吹き返しました。そしてパウロの手伝いをしながら、教会のために一生懸命働いていたのでしょう。しかしある時、ついにオネシモは「実は自分は逃亡奴隷なのです」と隠していた事実をパウロに告白する。これを聞いたパウロは驚き、彼の身を案じ、一緒に悩み、祈る中で、ついに主人ピレモンのもとに帰って行くようにとオネシモを説得し、自分がピレモンとの間を取り持ってあげるからといって筆を執ったのがこの手紙なのです。
 今の私たちの社会にも、オネシモはたくさんいる。オネシモのように人生の絶望する人々は後を絶ちません。年間三万人を超える自殺者が10年も続くというこの異常な時代の中で、絶望と孤独に喘ぐ人々があるのです。私はこの一週間、ピレモンへの手紙を繰り返し読みながら、先日起こった秋葉原の事件が頭から離れません。誰でもよかったと言って多くの人々の命を奪った彼もまた、他者からは誰でもよかったと言われ続けた若者であったことを思うとき、ここにも現代のオネシモがいると思えてならないのです。しかし、オネシモは人生の絶望と孤独の淵で、主イエスと出会いました。そして主イエスと出会ったときに彼の人生は大きな方向転換を遂げたのです。自分は生きていていい。誰かの役に立ちながら、そうやってまた生きていっていいのだと、彼は自分の人生を主イエスにあって受け入れることができたのです。
 しかし本題はこれからです。彼は今度は自分の人生の責任を果たすため、主人ピレモンのもとに帰って行かなければならない。私たちはここで、逃亡奴隷オネシモを赦してもう一度迎えてやってほしいと願うパウロの心に触れてみたいのです。もし私が、皆さんがピレモンの立場だったらこの手紙を受け取ってどう答えるでしょうか。パウロ先生は甘すぎる。どうせ長続きしないだろう。だいいち最近の若者はいい加減すぎてなっていない。一度赦せばつけあがるし、二度あることは三度ある。そんな風に考えることがあってもおかしくありません。もっと厳しい現実に照らせば、所詮奴隷は奴隷であって使い捨ての道具や家畜と同様。代わりはいくらでもいるのであって、何も逃げた奴隷を受け入れてやることなどない。見切りを付けることは実に簡単なことですし、切って捨てることもできないわけではない。しかし私たちがこの朝、特に心に留めておきたいのが8節、9節の言葉です。「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います」。命令によってではなく、むしろ愛によって。パウロはピレモンの師ですから、彼に命令しようと思えばできないことはない。しかしそれでは本当の赦しと和解とはならないことをパウロは知って、命令ではなく、ピレモンの愛を呼び覚ます言葉をもって語りかけるのです。ここに私たちは人を生かす愛を見ることができるのではないでしょうか。

(4)人を生かす愛
 当時の社会で言えば、何の価値もないとレッテルを貼られる奴隷オネシモ、代わりはいくらでもいると罵倒される奴隷オネシモ、使い捨ての道具と同じと扱われる奴隷オネシモ。しかしそんな中でパウロは彼を何と呼んだのでしょうか。10節。「獄中で生んだわが子オネシモ」。これが愛の言葉でなくてなんでしょうか。そしてさらにパウロの筆は究極の愛の言葉を紡ぎ出して行きます。17節から20節。「ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。あなたが今のようになられたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください」。実にパウロはこのオネシモのために「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います」とまで言うのです。これを受け取ったピレモンは、年老いたパウロの愛の筆遣いに圧倒されるような心持ちでこの手紙を読んだのではないでしょうか。人を生かす愛。それこそが本物の愛です。そこで言われる愛とは、何か言葉や口先だけの通り一遍のことではない、さらさらとよどみなく流れていくが、何も残らないきれい事のようなものではない。人を生かす愛とは、そのために具体的に犠牲を払い、時間をささげ、お金をささげ、労を厭わず、自分を差し出す、そういう愛です。それはまさに「わが子オネシモ」のために「親身になって」愛を注ぐ年老いたパウロの姿が私たちに見えてくるような、そんな具体的な愛なのです。
 伝道者として生きていく時に、多かれ少なかれ、これと同じような経験をさせられることがあります。そしてそんな時によく言われるのは、みんなに同じようにしていたらとても身が持たない、牧師も人間だからあまり無理をしすぎないようにという忠告です。そうするとオネシモのケースは特別扱いということになるのでしょうか。私はそうではないだろうと思います。むしろパウロはこういう親身になっての牧会をこれまでもずっと続けて来たのではないか。そして願い通りに行かない悔しさ、やりきれなさを繰り返し味わってきたのではないか。なんとか若い魂を更正させたいと手を尽くし、心を尽くし、でもその心が相手に伝わらない。そんな砂を噛む思いを繰り返してきたのではないかと思うのです。けれどもパウロは諦めないで、なおこの若者を何とか立たせよう、生かしめようと渾身の力を振るってこの手紙を書く。それはいってみればただの言葉の羅列ではない。この手紙を通してパウロは自分自身を差し出しているとさえ言えるのです。それは「にもかかわらず」の愛であり、「どうしてそこまで」の愛です。打算や計算尽くでは成り立たない愛。それによって自分の評価を高めようとするようなポーズとしては代償の高すぎる愛。しかし人を生かす本物の愛は、こういう愛ではないでしょうか。 
  
(5)イエス・キリストの愛に満たされて
 私たちはこの手紙を読むときに、ただパウロの人間愛を見つめると言うことであっては聖書の心を正しく受け取ったことにはなりません。この手紙はパウロの人間愛を描くために書かれたのではないのです。そうではなくて、パウロもまたこの愛で愛され、この愛を受け取った人としてオネシモを愛し、ピレモンもまた同じくこの愛で愛されている人であるからこそ、パウロはピレモンの愛に訴えかけているのです。では、このような愛はいったいどこから来るのか。その愛の源はいったい何なのでしょうか。21節から25節を読みましょう。「私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言うこと以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです、それにまた、私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところに行けることと思っています。キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように」。
 パウロはこの手紙の中で自分を紹介する時、何度も何度も「キリスト・イエスの囚人」、「年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロ」と言います。それは文字通り、福音のためにローマ帝国によって捕らえられて囚人となっているというだけでなく、より究極的には、主イエス・キリストの愛によって捕らえられた人、キリストの愛の囚人だということなのです。つまりこの愛の由来は、私たちのために十字架の上でいのちを捨てて、私たちの払いきれない罪の負債をすべて肩代わりし、身代わりとなってくださった神の御子イエス・キリストの愛なのです。そうすると、パウロがオネシモがピレオンに与えた損失や負債を肩代わりするという申し出も、まさに神の御子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなってご自身の命を差し出してくださった、その愛に裏付けられ、その愛に捕らえられ、その愛に押し出されたものであることがよく分かってきます。まさにキリストこそが、わたしを生かす愛、あなたを生かす愛の源、そのような愛そのもののお方なのです。
 教会という場所は、このキリストの愛で愛された人々、キリストによって罪赦された人々の集いです。最後にもう一度1節から3節を読みましょう。「キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。また姉妹アビヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」。ここで言われてることは、要するにオネシモを案じて、ピレモンに一生懸命、愛の言葉で訴えかけ、とりなしているのはパウロひとりではない。パウロともにいるテモテもエパフラスもマルコもアリスタルコもデマスもルカも、同様の愛の心でいるということであり、彼らが懇願している相手もピレモンひとりではない。彼とともにあってキリストの愛に生かされているアビヤ、アルキポ、教会の兄弟姉妹たち、彼ら一人ひとりの愛への訴えかけなのです。教会は愛の共同体です。こんなに多くの人々が、パウロと一緒に、ひとりの若者の将来を心底心配し、案じている。そして彼らの心を代表して、パウロはピレモンの愛に訴えかけている。そういう愛の中に生きるとき、私たちは人生に絶望することをしないで、人生を投げ出すことをしないで、また明日から生きていくことのできる確かな希望の力を得ることができるのです。今この時代、この愛が必要とされています。あなたを生かす愛。この神の愛を、十字架の主イエス・キリストによって示された神の愛を受け取り、この愛によって生きる人生をぜひ歩み出していただきたいと切に祈ります。

 



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