朝拝  2011/03/13
『私の助けは主から来る』

詩篇121:1-8

 この朝、私たちは特別の思いを持ってこの礼拝に集っています。11日に起こった東北地方太平洋沖の大地震と津波、そして福島の原子力発電所の被害はまだまだその全貌が掴めておりませんが、ともかく大変な被害をこの国にもたらしています。まずは教会の兄弟姉妹たちが守られて、この朝、この礼拝に集うことができたことを主に感謝します。なお余震も続き、それぞれご家族、ご親族の安否も気遣いながらの中とは思いますし、実際に本当に多くの方々がいのちを失い、家族を失い、家を失い、町を失っています。同盟教団の諸教会も東北、常磐の地区では多くの被害が出ています。
 この朝は、本来ならば開かれるはずのヨハネ福音書にかわって詩篇の第121篇が与えられています。私たちはこれらの地域とそこに住む方々を覚えて、特別にとりなし祈る礼拝として、この礼拝をおささげしたいと思います。そしてこのような時にこそ、狼狽えることなく、落ち着いた心で、まどろむことなく、眠ることなく御自身の民を守ってくださる主の御声にご一緒に聞きたいと思うのです。そしてその御言葉に導かれて主の御前に祈りの手を上げ、とりなし祈る祭司の務めを果たしたいと思うのです。この朝、愛する兄弟姉妹の上に、またその家族の上に、東北、常磐地区の主の教会とその礼拝の民、そしてかの地で救いを待ち望んでおられる多くの人々に主の確かな守りの御手と、祝福とがあるように祈ります。

(1)人間の限界を前にして
 金曜日、私は東京キリスト教学園の卒業式に参列していました。証書の授与が終わり、来賓の祝辞の最中にチャペル全体が揺れ始め、最初はすぐに収まると思っていたのが、次第に揺れが大きくなり、やがてこれまで経験したことのないような揺れになって、ついにチャペルの外に全員避難することになり、結局、式はそこで中止となりました。しばらく中庭に避難し、繰り返される余震がひとまず収まるのを待ってから、それぞれ帰宅の途に着き始めましたが、電車がすべて止まってしまったため、さらに夕方まで学園で待機し、その後、東京方面に車で帰る友人牧師に母と二人で便乗させてもらい、およそ六時間かけて夜中の十二時過ぎに帰り着いた次第です。地震の最中に家内に電話したところ、ちょうど教会に来ていたということで、牧師室の本が落ちたぐらいという様子を聞いて一安心したのですが、その後はまったく繋がらなくなりました。教会の皆さん、特に一人暮らしの方々や高齢の方々のことを案じながら帰ったのですが、家に着いてからはじめてテレビで様子を見て、あらためてその被害の大きさ、特に津波のすさまじさに絶句しました。
 夜の間も余震を感じながらしばらく深夜までニュースを見て、それから床に入ったのですが、何とも言えぬざわつく心で夜を過ごし、朝を迎えました。それから遅ればせながら教会の皆さんの安否を電話や訪問で確認し、その後、教団関係の対応に追われて一日を過ごした次第です。修学旅行で沖縄で足止めを食っていた長男も無事に帰り、やっと安心したのですが、その間、私の心に浮かんでいたのは、本当に人間は無力だ、ということです。このような未曾有の大惨事を前にして、もちろん懸命に救助にあたっていてくださる方々、行政の方々、国のリーダーたちの働きを覚えますが、それでもやはり、あのすべてのものを一気に押し流し、呑み込んでいく津波の光景を見ると、本当に人間は無力だということを思い知らされるのです。今日開かれている詩篇の詩人も、そのような人間の無力さを知っていたのでしょう。彼はこう歌うのです。1節。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか」。ここには人間の無力さ、限界を思い知らされた人の姿があります。彼はもはや己を頼みとすることもできず、他の人間を頼みとすることもできない。彼が救いを求めるのはもはや水平の次元ではない。ただ彼が仰ぎ見ることができるのは、垂直の次元であり、彼は「私の助けはどこから来るのか」とひたすら高みを仰ぎ見るのです。

(2)私の助けは主から来る
 そうして彼が仰ぎ見たところに、彼は確かな救いを見出した。ここに私たちの希望があるのです。2節。「私の助けは、天地を造られた主から来る」。今この大変な状況の只中にある人々の多くは、本当に切なる思いで助けを待っています。一時も早く、何よりも確実で、十分な助けが来るのを待っています。私たちも主が立ち上がってくださるように、御手を動かしてくださるように、速やかにことをなしてくださるように、十分に行き届いてくださるように祈らなければなりません。多くの人は神に助けを求めることはないかも知れない。むしろ神がいるならどうしてこんなことが、と思うでしょう。それはある意味で私たちにも共通する思いです。
 けれども、私たちはこの朝、「なぜ」と問うことは封印したい。むしろ「なぜ」と問う暇があるならば、むしろ主なる神の手足となって「いかに」人々のために仕えられるのかを問いたい、そしてその答えを待つのでなく、問いつつ動き始めていきたいと思うのです。なぜなのか、どうしてなのか、どうしてこのようなことが起こるのか、それは私たちも分からない。でも私たちにはっきりと分かることをもって語り、とりなし、祈り、仕える者でありたい。その一番はっきりしている確かなことこそが「私の助けは、天地を造られた主から来る」という信仰です。そうやって私たちは多くの人々のために主を信じてとりなし祈るものとなりたいと思うのです。今から88年前の1923年9月1日に起こった関東大震災の時、日本を代表する二人の説教者が語った説教が残されています。その一人は内村鑑三、そしていま一人が植村正久です。このところよくご紹介する雨宮栄一先生の植村正久の評伝三部作の三冊目、『牧師植村正久』の中に、彼の死の二年前に起こった震災の時の様子が描かれているのですが、雨宮先生はこの二人の説教者を並べて、「天罰か、神の業の顕れんためか」という見出しを付けて論じておられます。それはある意味で説教の預言的役割と祭司的役割と言ってもよいかもしれません。内村は震災に日本に対する神の裁き、天罰としてのメッセージを聞き取ります。しかし植村はこの災害の中で苦しむ人たちを慰め、これを通して神の業が顕れると希望を語るのです。どちらも大切なメッセージには違いない。けれども私はやはり植村の説教に、牧師としての彼の信仰と生き様を見、また何よりも慰めと励ましに満ちた主なる神へと信仰の眼差しを向けさせられるのです。
 
(3)イスラエルを守る方
 これほどの大惨事の中で、ではなぜ私の助けは主から来ると信じることができるのか。それは主なる神御自身がまことにそのように信頼するに足りるお方であるからにほかならないのです。3節から8節。「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方、主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」。
 まことにこの御言葉の通り、主は私たちを守ってくださるお方です。なぜ、と詮索するよりも、いかに、と愛を示す方法を考えるにあたって、私たちは主御自身がこのようなお方であられることを信じ、感謝し、信頼して、この主に執り成しの祈りを捧げるものでありたいと願うのです。まどろむことなく、眠ることなく、守り、救ってくださる主が、今この時も岩手県、宮城県、福島県、茨城県、その他、多くのこの地方の人々、地震で傷つき、津波で押し流され、放射能汚染の恐怖におののき、家を失い、家族を失い、友を失い、職場を失い、町を失い、大切な思い出や未来や、希望や夢を失いつつある人々に、確かに臨んでくださることを信じて、祈りの手を上げ続ける者でありたい。主よ、立ち上がってください。主よ、見つけてください。主よ、助け出してください。主よ、癒してください。主よ、ともにいてください。主よ、間に合ってください。主よ、与えてください。そして主よ、救ってください、そう祈りたいと思います。そしてその祈りの中で主が私たちにせよと命じてくださること、促してくださること、許してくださることを、精いっぱいさせていただきたいと思うのです。ともに祈りをささげましょう。



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