主日朝拝説教 2007/09/02
『収穫の主に祈れ』

マタイ福音書9:35-38

 9月を迎えました。多くの教会では9月第一主日を「振起日」と呼んで、信仰を振るい起こして伝道への姿勢を整える日としてきました。私たちも実り豊かなこの季節を、主イエス・キリストの福音を熱心に宣べ伝える伝道の季節として歩んでまいりたいと思います。そこで今朝はマタイ福音書9章の終わりに記された主イエス・キリストの御言葉を通して、福音を宣べ伝える教会に対する主御自身からの約束と励ましの御声を聞いていきたいと思います。

(1)巡り、教え、宣べ伝え、直された(v.35)
 35節。「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」。この御言葉は主イエス・キリストが地上の宣教の御生涯をどのように生きられ、歩まれたのかを福音書記者マタイがまとめている言葉です。マタイは4章23節でもこれと同じ言葉で主イエスの宣教の御生涯の始まりの時の様子を記しています。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」。ここに共通して出てくる四つの言葉が主イエスの御生涯を象徴しています。それは「巡り」、「教え」、「宣べ伝え」、「直された」という言葉です。「巡る」という言葉は直訳すると「あちらこちらと歩き回る」という言葉です。文字通り主イエスの生涯は神の国の福音を携えて北へ南へと歩き回る旅から旅の歩みであられましたし、主イエスに続く福音宣教者たちもまた、この主イエスの生き方に倣って各地へと遣わされていきました。パウロの生涯がそのような生き方をもっともよく示しているでしょう。「教えた」とは、主イエスが旧約の律法にまさる新しい教えを権威を持って教えられた姿をあらわす言葉です。「宣べ伝えた」は神の国の福音の宣言を意味します。主イエスが語られたもっとも大切な言葉、それがこの神の国の福音、人々の罪を赦し、永遠の命に生かすよきおとずれの言葉でありました。そして最後の「直された」は病気を治療するという意味の言葉です。これもまた神の国の近づいたことを証しする主イエスの力ある業のあらわれでした。このように主イエス・キリストの福音宣教は主御自身が人々のもとを訪れ、懇ろに教え、権威を持って宣言し、人々の体の必要も満たされるという全人的な関わりであったことが分かります。主イエスは私たちの心の必要も体の必要も、魂の飢え渇きも生活の困窮も、それらのすべてを知って私たちのもとにやって来てくださる、まさに私たちのもっとも信頼すべき救い主であられることが証しされているのです。

(2)羊飼いを求める民(v.36)
 こうして旅から旅の日々を過ごす中で、主イエスのもとにはいつも大勢の群衆たちが集まってくるようになりました。ちょうど今、夕の礼拝で「主イエスと出会った人々」というシリーズで福音書を読み進めていますが、そこでも毎回、いろいろな町で主イエスのもとにやってくる実に様々な人々がいたことを教えられているところです。貧しい者、病んだ者、傷ついた者、虐げられた者、人生の重荷を背負い、悩み迷いながら生きる人々が、主イエスに救いを求めてやってくるのでした。そんな彼らを主イエスは決して疎んじたり遠ざけたりはなさいません。どんなに疲れていても、どんなに多忙にされていても、それを理由に人々の求めを断るということをなさらないのです。先日、ある伝道団体のニュースレターを読んでいましたら、ある牧師先生の神学生時代のエピソードが記されていました。慣れない生活で一人寂しくしておられた時に、一人の宣教師が家に招いてくださったそうで、それ以来、毎晩のように出かけていっては夜遅くまで話し込むという日々が続いたそうです。それでもその宣教師の先生はいつも嫌な顔一つせず、煎れ立てのコーヒーを用意して待っていてくださったということでした。それから10年ほどして引退して母国に戻っておられたその宣教師を訪ねる機会があり、その先生は当時のことを、都合を顧みることもせずに夜遅くまでお邪魔して申し訳なかったとお詫びしたそうです。その時にその宣教師の先生は「いいえ、人を愛するということは、人に時間を与えることだと思います」と答えられたと記されていました。人のために自分の何かを犠牲にする心、それが愛ということでしょう。まさにその究極の愛を示されたのが、私たちのために十字架に命を捨ててくださった主イエス・キリスト御自身なのでした。このように主は御自身のまわりに集まってくる群衆たちに深く心を寄せてくださるお方であります。36節。「また群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」。この「かわいそうに思われた」と言う言葉は単なる同情や憐れみ、憐憫というようなものではありません。この言葉のもとにになる言葉は「内蔵」という意味を持っています。日本語に「断腸の思い」という言葉がありますが、まさにそのようなはらわたのちぎれるほどの痛切で激しい感情を表す言葉です。相手の心の痛みが自分の心の痛みとなって伝わってくるような深い共感の中にある心、相手の抱える痛みや苦悩に自分の中にはらわたが引きちぎられるほどの痛みをともに感じる心を主イエスは抱いていてくださるというのです。
では、主イエスが御自身のもとに集まってくる群衆たちに対してこれほどの思いを抱いてくださったのはいったいなぜだったのでしょうか。それは彼らが「羊飼いのない羊のように弱り果てて」いたからだと聖書は記します。聖書はしばしば私たち人間を「羊の群れ」にたとえます。ある人は自分が羊扱いされることに抵抗を感じられるかもしれませんが、私たちは羊同様に一人では生きていけない、確かな導き手なる牧者を必要とする存在だと聖書は語るのです。しかし旧約聖書を見るとさらに深刻な場合があると言われます。それは羊飼いがいるのに羊飼いの務めを果たさないことの悲惨です。責任を放棄した羊飼いによっ群れがどのような悲惨な状態に置かれるかを次のように語っています。エゼキエル書34章1節からお読みします。「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力づくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」。まさに主イエスの目に映った群衆の姿はこのような羊飼い不在の羊の群れの姿でありました。それはまた私たち、この時代に生きる人間たちの姿を表しているとも言えるのではないでしょうか。上に立つ者たちが私利私欲のために権力をほしいままにし、社会の格差はどんどん広がり、富むものと貧しいものとの差は深刻になる一方です。そんな中で人々の霊的な飢え渇きもまたこの上ない危機的な状況にあります。まさに今の時代は「まことの羊飼い」を必要とする時代であると言わなければなりません。まことの羊飼いとは誰か。ヨハネ福音書10章11節には次のように記されます。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。また14節、15節には「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」。このように私たちの本当の羊飼いはただ私たちの姿を見て憐れむだけのお方ではあられない。はらわたがねじ切れるほどに私たちの有様に心動かし、そして私たちのために進んで御自身のいのちを捨てるほどに命がけで私たちを愛し、私たちを守り、私たちを救うと言い、事実その救いを十字架の上で成し遂げてくださったお方なのです。

(3)収穫の主に祈れ(v.37-38)
 このように群衆への激しいほどの愛の心を抱かれた主イエスは弟子たちに言われたのが次の有名な御言葉です。37節、38節。「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』」。この御言葉は教会が伝道への姿勢を作り上げていく上で繰り返し聞いていくべき大切な言葉ですが、時にこの言葉が前後の文脈から切り離されて単ある威勢の良いスローガンのように扱われてきたこともあるように思います。しかしあらためて今朝、この御言葉の前に立つ時に、教会に委ねられた福音宣教の使命に込められた主イエス御自身の熱い心を感じずにはおれません。失われゆく魂、羊飼いのいない羊のようにさまよい傷つき倒れている人間の悲惨。そのような私たちのために命をも惜しまずに差し出してくださった主イエス・キリストの御愛を覚える時、「収穫は多いが働き手が少ない」と言う言葉の持つ痛切な響きを私たちもこの朝、しっかりと聞き取っておきたいと思うのです。
 主の教会が福音の宣教に励むのはいったいなぜでしょうか。人数を増やすためでしょうか。社会の中で影響力を持つためでしょうか。自分たちの力を誇示するためでしょうか。私たちが福音の宣教に励むのは、まさに主イエスが御自身のもとに集まってきた群衆を見られたそのまなざしのゆえではないのか。失われ行く羊のためにいのちを捨てるまことの羊飼いの心が私たちの心を動かし、その羊飼いによって先にいのちを得た者として、この羊飼いのもとに仲間の羊たちを連れ戻すためではないでしょうか。この主イエスが抱かれた御自身の民に対する愛の思いを置いてほかに私たちを宣教の情熱に駆り立てるものはないはずですし、またあってはならないのです。そして最後にもう一つ学んでおきたいのは、「収穫の主に祈れ」との主イエスのご命令です。主は「収穫は多い」と言われます。この終わりの時代、主の福音によって悔い改めて立ち返る者たちは多い、神の国の畑には刈り取りを待っている刈り穂が色づいているのです。収穫の時、それは主イエスが再びお出でになる終わりの時を指しています。それは厳粛な時です。しかしその時に主のものとされる者たちは多いのだと主は約束される。だからこそ私たちは倦むことなく、諦めることなく福音の宣教の種蒔きの業に励み続けることができるのではないでしょうか。「恐れないで語り続けなさい。この町にはわたしの民が大勢いるから」とパウロを励まし続けてくださった主は今も私たちとともにいて、私たちをも励まし続けていてくださいます。だからこそ私たちも一層熱心に、そして真剣に収穫の主に祈り求めなければなりません。何を祈るのか。それは「収穫のために働き手を送ってくださるように」との祈りだと言われます。ここで私たちは早合点をしてはいけません。収穫のための働き手を送ってくださいとの祈りは、この私自身を蚊帳の外に置いた祈りではありません。私でない誰かを送ってくださいという祈りではないのです。今日の箇所に続いてマタイ福音書10章では主イエスが福音宣教のために十二弟子に宣教の心構えを教えて彼らを遣わされる様子が記されます。そして11章1節で「イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり、宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた」と記されます。このように主イエスは「収穫のための働き手を求めて祈れ」と命じられてただちに、弟子たちを宣教の旅に遣わされ、彼らを遣わした後にはすぐに主イエス御自身も宣教のために旅立って行かれるのです。
 つまり魂を救いに導くために、魂の収穫の主に祈り求める教会は、自らがその魂の収穫のために神の畑に遣わされていく教会であるのです。私たちは福音宣教の重荷を誰か人任せにする教会であってはならない。自己たちの現状に満ち足りてしまう自己満足の教会であってはならない。満ち足りてしまって、落ち着いてしまって、主に何も願い求めない教会、神の畑で汗水流して働くことを厭う怠惰な教会になってしまってはなりません。むしろ宣教の使命をいつも覚え、神の畑の大収穫の幻を見つめ、一人の魂を追い求める情熱を燃やし続ける宣教の教会であり続けるために、この朝、もう一度主の御前に信仰の姿勢を整え、背筋を伸ばし、足もとを踏みしめて、働き手をおこしてください、働き手を送ってください、そして何よりも私たちを、この私を神の国の収穫のために遣わしてくださいと収穫の主に祈り求めるものでありたいと願います。

 



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