主日朝拝説教 2007/08/26
『見守られる神』

エレミヤ書1:1-12

 この朝はエレミヤ書1章のエレミヤの召命物語を通して、伝道者に対する主からの励ましと慰めの御声を聞き取ってまいりたいと思います。

(1)エレミヤの召命(v.1-8)
 1節から3節。「ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった」。預言者エレミヤ。彼はしばしば「涙の預言者」と紹介される人物であり、また偉大な預言者イザヤと対照的な人物でもあります。エレミヤの生きた時代はイザヤより後、すでに北王国はアッシリヤによって滅ぼされ、その手は南王国にまで伸ばされ、しかも南からはエジプトが台頭し、バビロンの陰におびえる、そんな激動の時代、混乱の時代、そして霊的な衰退の時代でありました。そんな時代にエルサレム郊外の僻村アナトテの村でくすぶっていた若き田舎祭司エレミヤに、主は御声をかけられたのです。これが以後およそ50年にわたって祖国に神の裁きのメッセージを語り続け、ついにはその終わりを見届けなければならない彼の預言者としての生涯の始まりでした。 4節から6節。「次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた』」。このように突然に主から呼び出され、しかもあなたを預言者と定めていた、と語られて、アナトテの田舎の青年祭司エレミヤは青天の霹靂の思いであったに違いありません。そして彼のうちには大きな恐れの感情が起こってまいりました。6節。「そこで、私は言った。『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません』」。エレミヤが抱いた恐れとは、己れの若さ、未熟さ、経験のなさからくるものでした。私は若くてどう語ればよいのかわからない。それは偽らざる彼の本心です。しかし考えてみればそれは至極真っ当な恐れではなかったかと思うのです。ですからエレミヤは自分の正直な心の内をそのまま主の御前に差し出します。けれども主はそんなことで引き下がることはなさいません。7節、8節。「すると、主は私に仰せられた。『まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。−主の御告げ−』」。こう言われてしまってはもう断る理由はありません。ただ主に頼っていくほかはない。自分の力、自分の経験、自分の知恵で語れと言われれば、何も語る言葉を持たない私たち。しかし主はそのような言葉でなく、主ご自身の託される御言葉を語り、それを語らせてくださる聖霊に徹底的に信頼するようにと私たちに語っておられるのでないでしょうか。
 F・B・マイアーは「涙の預言者・エレミヤの生涯から」の中でこう語っています。「神にとっての最高の説教者は、人間的な雄弁を持ち合わせていない場合が多い。もし雄弁が豊かに備わっていて人々を動かす偉大な力を所有していたとしたら、それに頼り、結果をその磁石のような能力のせいにする危険性がきわめて高い。神は、ご自分の栄光をほかの者に与えることができない。神は、ご自分の誉れを人に分け与えるようなことはなさらない。また、ご自身のしもべを、自分の財布をはたいたり、自己の能力に拠り頼んだりする誘惑にさらすことも決してない。すべてのものが、神より出で、神によってなり、神に帰する。それは栄光がとこしえに神のものとなるためである。だから、あなたはこれらの人間的な資質がないからといって失望してはならない。それらのものがないことは、あなたから神の声を遠ざけることにはならない。人間的な資格が一つもないとしても、主の言葉はあなたに望んでくる。それは、あなた自身の益だけでなく、あなたが遣わされる人々の益を考えてのことである。神があなたに求められるものは、ただ一つ、神の目的のために徹底して献身すること、神があなたを遣わされる使命がどのようなものであろうとも、喜んで果たしていくことである。この気構えがあなたにあるならば、その他のいっさいのものは、添えて加えられる。神は、あなたの騒がしい心を静められる。『恐れてはならない』」。

(2)エレミヤの使命(v.9-10)
さて、このようにして預言者としての召しを受けたエレミヤに、続いて主は彼が果たすべき使命とそれを遂行する権威とを授けられます。9節、10節。「そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。『今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる』。エレミヤに命じられたこと、それは要するに祖国の同胞たちに対して神の裁きと災いを語れ、ということでした。主なる神の怒りがすぐ近くにまで来ているのに、それでも主が忍耐をもって「背信の子らよ、帰れ」と語り続けていてくださるのに、主を侮り、預言者に反発し、御言葉を聞こうとしない人々。5章12節、13節。「彼らは主を否んでこう言った。『主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは見はしない。預言者たちは風になり、みことばは彼らのうちにない。かれらはこのようになる」。エレミヤがこれから遣わされていくのはこのような人々のもとです。しかも彼の預言者としての生涯は孤独な戦いを強いられるものでもありました。当時の王国の霊的状態は著しく低下し、預言者たちは己れの利得をむさぼり、民の顔色をうかがい、彼らが好む言葉だけを語り、偽りの平安を語る慰み者の偽りの宗教者に成り下がっていたのです。6章13節、14節。「身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。彼らはわたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている」とあるとおりです。このことは当時だけでなく、いつの時代にも伝道者が目を覚まし、また心にもっていなければならない認識と思います。主が語れとお命じになる言葉は、喜びは慰め、平安を与える言葉だけでなく、鋭く罪を暴き、それを断罪し、悔い改めに導く剣の言葉でもあります。それを私たちがオブラートに包んだり、水で薄めたりすることはできないのであり、人々に気に入られようとして言うべきことを言わない者になるならば、それこそ偽預言者となってしまうでしょう。
しかしながら、このような人々の聞きたくない言葉、人々が耳を背けると分かっている言葉を語り続ける時に、そこにどんな反応が起こってくるかは容易に想像のつくところです。それはあからさまなエレミヤへの反発、排斥の運動となっていきました。愛する同胞たちに神の裁きと悔い改めを促す言葉を熱心に語れば語るほど、彼は疎まれ、憎まれ、偽りの平和を語る偽預言者たちがもてはやされ、エレミヤを嘲笑う。耐え難い孤独と苦難野道を彼は歩まなければなりません。召命が揺さぶられ、預言者としての危機を迎えていたのではないかと思います。そんな彼の心の内をもっとも露わに記すのが20章7節以下の御言葉でしょう。7節から9節をお読みします。「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私はいちにちじゅう、物笑いとなり、みなが私をあざけります。私は語るごとにわめき、『暴虐だ。暴行だ。』と叫ばなければなりません。私への主の御言葉が、一日中そしりとなり、笑いぐさとなるのです。私は、『主の言葉を宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。』と思いましたが、主の御言葉は私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はしまっておくのに疲れて耐えられません」。ここでエレミヤは主に訴えています。あなたのせいだ。あなたが私をこんな目に会わせているのだ。あなたが語れと言う言葉を語ったから、私はみんなから馬鹿にされ、物笑いの種になってしまっている。どうして自分だけがこんな屈辱的な思いをしなければならないのか。ついにエレミヤは「主の言葉を宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」とさえ口にするのです。このあたり、15章16節の御言葉と読み比べてみると、どれほどエレミヤが追いつめられた心であったかが伝わってきます。「私はあなたの御言葉を見つけ出し、それを食べました。あなたの御言葉は私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです」。けれども、そこで彼は立ち止まらされるのです。「もう御言葉を語るのはやめた」と言ったその彼の心の中で、主の御言葉が燃えさかり、とどめておくことができなくなってきたというのです。御言葉を語るとき、御言葉を聞くとき、心がうちに燃える。彼のうちにあって止め置くことができないほどに燃え上がる御言葉の炎、それが私たちを孤独の中から立ち上がらせ、また御言葉を語る道に立たせるものなのです。

(3)見守られる神(v.11-12)
そのように苦難の道を、孤独の道を強いられるであろう預言者エレミヤに、しかし主はただ彼を突き放すように、あとは自分の力で行け、とはおっしゃらず、そこに一つの慰めの印を備えてくださいました。11節、12節。「次のような主のことばが私にあった。『エレミヤ。あなたは何を見ているのか。』そこで私は言った。『アーモンドの枝を見ています。』すると主は私に仰せられた。『よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ』」。この主の御言葉は、直接には次の13節以下とともに主の預言された裁きが確かに成就することを示す言葉です。しかし今朝私たちはこの主の御言葉の中に私たちに対する主からの慰めの響きを聞き取っておきたいと思うのです。ここでは「アーモンド」、「あめんどう」の木の枝と「見張る」という言葉の語呂合わせがされていて、アーモンドの木が、主が見張られる、主が見届けられる、という約束のしるしとされているのです。この「見張る」と訳される言葉には「目覚める、見守る、注視する」という意味も込められています。それはちょうどアーモンドの木がパレスチナの冬から春へと季節が移り変わる際に、ちょうど梅の花のようにまだ冬の寒さの中にあってひときわ早く花をつけ、春の訪れを告げ知らせるもの、冬からの目覚めを伝えるものであることとの結びつきを意味しています。目覚めの木、見守りの木、それがアーモンドの木であります。主なる神はそのアーモンドの木を見なさい、と言われるのです。これはただ一度見なさい、ということではありません。何度も何度も繰り返し繰り返し、毎年毎年、厳しく苦しい冬の日々にあっても、春の訪れを告げて花をつけるアーモンドの木を見よ。あるいは神の言葉を携えて孤独の道を行く時にも、その道ばたにアーモンドの木があったならそれを見よ。そしてそうやってアーモンドの木を見る度に思い出せ。「わたしはちゃんと見ているよ、見守っているよ。見届けているよ」との約束のお言葉を、というのです。これは本当に大きく深い慰めの言葉です。
 信仰生活は時に孤独なものです。一人二人の信徒とともにいても、たくさんの信徒に囲まれていても、本当のところでは主の御前に一人で立つほかないものです。しかしそんなときにこそ、私たちは私たちを見守られる主なる神のまなざしを、そういう人知れず黙々とささげられた奉仕を、涙の祈りを、確かに見守り、聞き届け、それらをすべて知っていてくださる主のまなざしのもとに見つめられていることの確かさ覚え、そこに慰めをいただき、また力をいただいて歩み出したいと願うのです。私たちに委ねられた神の言葉はとこしえに立ち、人々を生かし、人々を救うことのできるただ一つの言葉であります。その言葉を語り続ける者たちを決して神は見過ごしになさらず、また見捨てることをなさらない。誰も見ていなくとも、主は最初から最後まで目を離さず見守り続け、見届けてくださる。だから私たちはこの労多くともしかし光栄な務めに召されたことを感謝し、光栄に思い、また忠実に、誠実に主にお従いしていく献身の思いを新たにさせていただくことができるのです。そしてついには終わりの時に主がその救いの御心を成し遂げてくださる。この希望が私たちを奮い立たせ、また明日からの奉仕の日々へと向かう力を与えてくださるのであります。
 31章27節、28節。「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが引き抜き、壊し、滅ぼし、災いを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は彼らを立て直し、また植えるために見守ろう。主の御告げ」。

 



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