主イエスに出会った人々 その9  2007/06/24
『主イエスの足を洗う女』

ルカ福音書7:36-50

 今晩は、主イエスの足を自ら髪で拭った一人の女性の姿を通して、罪の赦しを与えてくださる主イエス・キリストとの出会い恵みに目を留めておきたいと思います。

(1)ひとりの罪深い女(v.36-38)
 36節。「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた」。主イエスがパリサイ人、後にこの人の名前は「シモン」と明らかにされますが、この人の家に招かれて食卓に着くという場面です。パリサイ人と主イエスがいっしょに食卓に着くというのは珍しい光景に思えます。パリサイ人は自分たちこそ律法を守る義人であるという強烈な自負の持ち主であって、主イエスの教えと衝突して厳しく断罪され、後には主イエスを亡き者にしようと考えていく人々でした。しかし一方で当時のパリサイ人たちはユダヤ教のラビを自宅に招いてもてなすことをしていたようで、彼も主イエスをそのような旧約の教師と扱っていたのでしょう。ですから一見すると和やかな食卓の雰囲気の下にさまざまな緊張を孕む空気があったのです。そしてその空気が一層張りつめることになる一つの出来事が起こります。37節。「すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」。泣きながら主イエスの足を高価な香油で拭い、口づけしてやまないこの女性について、福音書は多くを語りません。むしろ語ることをはばかったと言うべきでしょう。ただ「罪深い女」と記されるのみです。それだけで彼女がいかなる女性であるかを知らせるのに十分だったのです。おそらく彼女は自らの体を売ることを商売としていた売春婦でありました。主イエスとパリサイ人がともに食卓に着いているだけである種の緊張感が漂う中に、第三の人物が登場する。しかもそれがよりによってパリサイ人が最も忌み嫌う「罪深い女」であった。ここにこの物語は一つのピークを迎えるのです。

(2)より多く赦された人(v.40-43)
 さっそくパリサイ人シモンは心の中でつぶやきます。「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」。ここにおいてパリサイ人の自らを義人とし、罪人を見下し、裁こうとする本心が露わにされます。しかし主イエスはそんな彼の心を見抜き、一つのたとえをもって語りかけて言われます。40節から。「するとイエスは、彼に向かって、『シモン。あなたに言いたいことがあります。』と言われた。シモンは、『先生。お話しください。』と言った。『ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか』。シモンが、『よけいに赦してもらったほうだと思います。』と答えると、イエスは、『あなたの判断は当たっています。』と言われた」。
 ここで主イエスが教えておられること、それは「多く赦された者は多く愛する」という原則でした。ここで主イエスが示される罪の赦しにおいては、赦されるべき罪の数や量といったものを比べることはできません。要するに、自分がどれだけ罪の赦しを必要としているか、そしてどれほどの罪を赦されたかという自覚の深さが、そのまま赦し主なるお方への愛へと結びついているということなのです。この点においてまさに、パリサイ人シモンと罪深い女とは実に対照的な存在でありました。

(3)赦されたものの交わり(v.44-50)
 主イエスは言われます。44節。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません』」。そして女に、『あなたの罪は赦されています。』と言われた」。ここで大切なのは47節の御言葉です。この文章は幾つかの訳の可能性があるのですが、新改訳の読み方ではともするとこの女が主イエスを多く愛したから多く赦されたと理解され、それこそ功績の思想が読みとられることになりがちです。むしろここでは愛と赦しは入れ替えて理解すべきでしょう。つまり「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」。罪深い女の示した愛の行為が、彼女がどれだけの罪の赦しを受けているかを示すのだと主は言われるのです。たとえどれほど私たちが主イエスに対して愛を示したとしても、到底与えられた赦しに見合うものではあり得ません。主イエスの赦しは限りないものであって、それを量ることはできないのです。しかし敢えて主イエスはご自身が与えてくださるその量りがたい、限りない赦しを、私たち罪赦された者のほんのささやかな主イエスに対する愛と献身においてしっかりと認めていてくださり、それゆえに48節で「あなたの罪は赦されています」と宣言してくださるのです。
 主イエス・キリストは私たちの罪を赦すお方でいらっしゃる。人がどんなに蔑むような者であっても、主は私たちの罪を限りなく赦してくださるお方である。それが聖書が示す主イエス・キリストのお姿なのです。さらに主イエスは罪の赦しを得て、主を愛する者とされた罪深い女に向かって「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。それが信仰だ、というのです。自分の罪を見つめる時、そこには絶望だけが残ります。しかしそこでその罪を赦したもう主イエス・キリストを仰ぐ時、そこに生まれる愛を主イエスは「あなたの信仰」と呼んでくださるのです。そして最後に主イエスは彼女に向かって「安心して行きなさい」と言われました。彼女がしかし安心して行くことのできるところ。それは罪の赦しの交わりであります。赦された者の交わり、赦し合う交わり、限りない赦しのもとに生きることのできる、そのような赦しの共同体、すなわち教会こそが私たちにも必要なの場所なのです。

 



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