主イエスに出会った人々 その8 2007/06/17
『ゲラサの男』

マルコ福音書5:1-20

 今晩は、ユダヤ人たちからは汚れた異邦人の町とされていたゲラサに住む悪霊につかれた男と主イエス・キリストとの出会いの出来事を通して、本当の人間らしさ、自分らしさに回復してくださる主イエスの恵みの御業に目を留めておきたいと思います。

(1)人間性の喪失(v.1-5)
 1節から5節。「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」。今晩、私たちの前に登場するのは大変おぞましい姿をした一人の男です。墓場を住処とし、鎖や足かせで縛り付けられ、夜昼となく叫び続け、自分のからだを石で傷つけるこの男を、聖書は「汚れた霊」すなわち悪霊につかれていたと紹介します。悪霊につかれていた、などと聞くと私たちはすぐさま荒唐無稽なお話しだと高をくくりたくなるものですが、ここに男の姿を通して、今日の私たちの抱える人間の闇が浮き彫りにされてくるような気がします。
 この男の姿を一言の言葉で言い表すとするならば、それは「人間性の喪失」ということになるのではないでしょうか。姿形は人間の様であっても、彼はもはや人間としてのあり方を失ってしまった存在なのです。聖書が人間を汚れた霊、悪しき霊に支配された存在という時、それは神から離れた人間を意味します。聖書によれば人は神の支配のもとにあるか、さもなくば神に敵対する悪しき霊の支配のもとにあるかのいずれかであって、どちらでもない中立な状態と言うことはあり得ません。そして神の支配から離れて悪しき霊のもとにある時、人間は神のかたちに創造された本来の人間としての尊厳、人間らしさを失って獣化していってしまうのです。
 今日、神のかたちとしての人間の尊厳は失われてしまっています。その知性においても、理性においても、宗教性においても人間は罪と悲惨のもとにあり、その心は絶えず悪へと傾いてしまっているのです。確かに、親が子どもを、子どもが親を殺す。殺した遺体をバラバラにする。お金と引き替えに体を売る。生まれた赤ん坊を産み落として死なせる。人間を虫けらのように扱って命を奪う。神のかたちを失い、悪霊の支配のもとにある人間がどれほど残虐な獣の存在になるか、それは人間の歴史の数々が物語る通りです。そうやって考えるならば、私たちは今晩、このゲラサの男を私たちとは全く無縁な異質な存在とは言えなくなるということに気づかされるのではないでしょうか。

(2)悪霊の支配のもとで(v.6-13)
しかし主イエスがこの男と出会われる時、そこで彼のうちに住み着く悪しき霊は主イエスの神の子としての権威に恐れおののきます。主イエスこそが、悪しき霊の支配から私たちを解き放つことのおできにあるただお一人のお方であることが、ここではっきりと示されるのです。6節から9節。「彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄ってきてイエスを拝し、大声で叫んで言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。』それは、イエスが、『汚れた霊よ。この人から出て行け。』と言われたからである。それで、『おまえの名は何か。』とお尋ねになると、『私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。』と言った」。悪霊は主イエスが誰であるかをはっきりと知っており、その御力も権威もよく知っています。そこで彼はこの男の代わりに豚の群れに乗り移ることを願い出て、結果的に二千匹の豚の群れとともに湖になだれ込んでいくのでした。大変な光景がここに繰り広げられたわけです。

(3)回復された人間の新しい生(v.14-20)
 しかしそのような大騒動以上にゲラサの町の人々を驚かせたのは、悪霊が去った後のこの男の姿でした。15節。「そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった」。ここに私たちは彼の中から人間性を失わせていた原因が、ただ悪霊の支配にあったということだけでなかったことに気づかされます。彼は人々からも疎外された存在であった。彼自身も最初から獣のように墓場に住み着いていたわけではなかったでしょう。悪霊の力に悩まされ始めた頃、人々の助けを求めたかもしれない。しかし結果的に誰も彼の傍らに寄り添って、本当に親身になって彼の問題をともに担ってくれる隣人はいなかった。家族も疲れ果てて彼の面倒を見きれなくなったのでしょうし、人々はみな彼を怖がり、彼との関わりを避け、彼を町はずれの墓場に追いやり、そこで鎖につなぎ止めていた。まさに彼を疎外して獣のように扱ったのは周囲の人々でもあったのです。
 しかし、主イエスはそんな彼を再び人間として取り戻してくださった。そして彼に新しいいのちを与え、人生を与え、彼を人々の中へと再び遣わしてくださったのです。正気に返った彼は主イエスの弟子入りを志願しますが、主イエスは彼に答えて言われます。18節から20節。「それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。『あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。』そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた」。この御言葉を読むたびに思うことですが、彼にしてみれば主イエスの弟子として彼の過去を知らない人々の中で心機一転新しい人生を歩み始められた方がどれほどよかっただろうかと思います。しかし、主イエスは彼を彼の家族、町の人々の中へと送り返されるのです。そこには様々な偏見や噂、好奇心や時に悪意に満ちた人々の言葉やまなざしがあるかもしれない。けれども敢えて彼をそのような人々の中へと新しくお遣わしになることを通して、失われてしまった彼の人間性を取り戻し、壊れてしまった人々との交わりの中へと彼を送り返して行かれるのです。
 主イエス・キリストとの出会い、それは私たちを本当の人間の姿に取り戻してくださる出会いである。この恵みを覚えてここからまた遣わされてまいりたいと思います。

 



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