主イエスに出会った人々 その5 2007/05/20
『取税人レビ』

ルカ福音書5:27-32

 今晩は、主イエス・キリストと出会い、主の弟子としての新しい人生を歩み始めた一人の取税人の姿を通して、罪人を招いて救うために私たちのもとに来てくださる主イエスの恵み深い訪れの姿を見つめていきたいと思います。

(1)取税人レビを招く主イエス(v.27-28)
 27節、28節。「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」。ここに登場するのは「取税人レビ」と紹介される人物です。この出来事と同じことを記すマタイ福音書9賞9節には「収税所にすわっているマタイという人をご覧になって」と紹介されています。つまりこのレビという人は、主イエスの十二弟子となり、後にはマタイ福音書を記すようになったマタイと同一人物であることが分かります。彼は主の弟子となる以前は取税人だったのです。「取税人」と聞くと、聖書に親しんでいる方ならばすぐに思い起こすのが、あのルカ19章に登場してくる取税人ザアカイの物語でしょう。いずれこのシリーズでも取り上げることになりますが、大変有名な、心に残る救いの出来事がそこには記されています。さてこの取税人と職業についてですが、福音書の舞台となるユダヤ地方は、当時ローマ帝国の支配以下に置かれ、ローマへの重い税金を課せられていました。しかもローマは支配地の民衆の反感が高まることを防ぐため、徴税の役割をその支配している国の人々に担わせていました。取税人とは、このようにローマへの税金を集めるために雇われた人々で、同胞でありながらローマの手先となって税を取り立てる人ということで人々からは時に裏切り者呼ばわりされ、しかも一部には決められた税金よりも多く取り立てをして、その一部を懐に入れるという不正の輩もいたようであり、ユダヤ人たちからはいわば鼻つまみ者、罪人の代名詞のように見られていた人々であったのです。後の30節でパリサイ人や律法学者たちが彼らを「取税人や罪人」と呼んでいることもこのような事情によることでした。
 そんな罪人呼ばわりされるようなレビに、しかし主イエスは目をお留めになり「わたしについてきなさい」と招きの声をかけられたのです。ちょうどあのガリラヤ湖畔で四人の漁師たちを招かれた時と同じように、主はレビを新しい人生、新しい使命のもとへと招かれたのです。この主イエスの招きの言葉にレビはただちに立ち上がり、従っていきます。主イエスとの出会いは、どこからでも、どんな人であっても、その人に新しいいのちの使い道、使命を与えるものなのです。 

(2)仲間たちを招くレビ(v.29-30)
 29節、30節。「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかの大ぜいの人たちが食卓に着いていた。すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。『なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか』」。主イエスと出会い、主イエスに招かれたレビがしたこと。それは自分の家に主イエスを招き入れ、自分の取税人仲間たちを集めて大宴会を催すということでした。立ち上がって従っていったはずなのに、自分の家で宴会とは、と訝しく思う方があるかもしれませんが、この宴は単なる飲み食いの集まりではなかったと思うのです。主イエスに招かれたレビの出会いの物語は、彼自分が新しい人生に招き入れられたことで完結しなかった。そうではなく、招かれたレビが今後は人々を主イエスのもとへと招き、人々と主イエスを同じテーブルの交わりの中に迎え入れているということです。それは主イエスに出会ったレビの心の内からわき起こる喜びがさせたことだったのではないでしょうか。自分が主イエスと出会うというこんな大きな喜びに与った。新しい人生の喜びを得た。それまで嫌われ者、鼻つまみ者であった者にも新しい人生が与えられた。その喜びを分かち合いたい一心で準備した宴、それがこの主イエスを囲む交わりの意味であったと思うのです。
 この集まりを見て眉をひそめる人々もありました。パリサイ人、律法学者。自分たちこそ神の前に正しい者だと自負する彼らは、主イエスの弟子たちに「なぜあなたたちの先生はあんな罪人どもと食事をするのか」とつぶやくのです。しかし主の弟子たちはみな、かつてはまさにあの罪人の中にいた者たちです。彼らにはこの宴には何の違和感も感じなかったことでしょう。「あんな罪人ども」と指さすような心は主の弟子たちのうちには誰一人としてありません。その理由は主イエスご自身の言葉によって明らかにされます。

(3)罪人を招く主イエス(v.31-32)
 31節、32節。「そこでイエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです』」。この聖書の言葉、心に留めておきたい言葉です。丈夫な人、正しい人とは神の救い、主イエスとの出会いを必要としない人のことです。本当はそんな人は誰もいないのですが、そう自負している人々を指して主は言われたのです。しかしわたしを必要とするのは、自分の罪を知り、救いを必要とする病人であり、罪人であり、わたしはまさにそのような人々、今この食卓に着いている、周囲の人々からは罪人呼ばわりされている取税人たち、まさにこのような人々を招いて救うために来たのだとおっしゃってくださるのです。「わたしは罪人を招いて悔い改めさせるために来た」と主は言われます。
 この「悔い改め」と言う言葉が重要です。悔い改めは反省や後悔とは違います。聖書の言う悔い改めとは「方向転換」ということです。今あるところから向きを変えて新しい方向に生き始めること。新しい人として、新しい使命に生き始めること。神を無視し、キリストを無視して生きてきた人生に訣別し、新しく神を信じ、キリストとともに生き始めることなのです。その方向転換には遅すぎるということはないし、自分は当てはまらないと言う人は誰一人としていません。たとえ周囲から罪人呼ばわりされるような過去を負っていたり、後ろ指さされるような人生を歩んできたとしても、主イエスに出会い、主イエスに招かれ、悔い改めて主イエスを信じるならば、そこで新しい人生への方向転換が起こるのです。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。私たちを新しく造りかえ、主とともにある人生に生かしてくださる主イエスとの出会いを果たし、その招きに答えて歩み始めていっていただきたいと切に願います。

 



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