主イエスに出会った人々 その4  2007/05/06
『中風の人と四人の友』

マルコ福音書2:1-12

今晩は、一人の寝たきりの病人が主イエス・キリストに出会い救いに至るまでのいきさつを通して、ともに信じる信仰の交わりの恵みを受け取っていきたいと思います。

(1)出会いを阻むもの
1節から5節を最初にお読みします。「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らを見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた」。
 私自身がこの場面を読むときにいつも心に残るのが5節の「イエスは彼らの信仰を見て」という御言葉です。主イエス・キリストと私たちの出会いは、それがたとえ一人であっても大人数であっても突き詰めれば一対一の個人的な出会いであって、そこでは主イエスに出会った一人一人の主への信仰が問われるのですが、今日の箇所では、主イエスのみもとに連れてこられた中風の人、その本人だけでなく、むしろ彼を主イエスのもとに運んできた四人の友たちに主はご自身への信仰を見て取ってくださったというのです。今日の主人公である一人の人、彼は中風を病み、どれほどの月日であったかは分かりませんが、恐らく相当長い間寝たきりの生活を強いられていました。回復の望みもなく弱っていく体を横たえながら、自分の行く末を嘆く日々を送っていたのかも知れません。しかし彼には本当に心の支えとなってくれる友人たちがいました。彼らは恐らくこの寝たきりの友のために喜んで骨折ってくれる人々だったのでしょう。すでに不思議な癒しの奇跡を行いその評判が知れ渡っていた主イエスが再びカペナウムに来られたことが知らされると、中風の人自身が願い出たのか、それとも友人たちが聞きつけたのかも分かりませんが、何とかこの友を主イエスに引き合わせようと床に寝かせたまま連れ出すのです。ところが、主イエスのおられる家へ行ってみると、すでに大変な人だかりができており、とても寝たきりの病人を運び込めるような状況ではない。家の中は隙間もないほど、外にまで人はあふれ出し、家の周りも多くの群衆が取り囲んでいたことでしょう。一目見て「これではとても無理だ。また出直してこよう」、そう判断してもおかしくない場面です。中風の人自身も、「ああ、これではとても主イエスにお会いすることなどできない」とあきらめる気持ちが起こってきたかも知れませんし、友人たちに無理を言うこともできない。今日はやめておく、と言ったかも知れません。主イエスとの出会いを阻むもの。それは客観的な状況ということもあるでしょうが、しかしそれ以上に自分の心の中にある少しの遠慮やためらいということであったのではないかと思います。ああやはりここは自分の来るべき所ではなかった。もう時は遅すぎた。これでは無理だ。私ではダメだ、と。

(2)隔てを越えて
しかし友人たちはそんな状況にひるみません。彼らはやおら中風の人の床を担ぎ上げると、あろうことかその家の屋根へ上り始めます。そしてちょうど主イエスがおられる真上に来ると、なんと屋根を漆喰を剥がし、煉瓦を崩して穴を開け始めたのです。「もういいよ、そこまでしてくれなくてもいいよ。みんなの気持ちだけで十分だよ」と、中風の人は叫んだことでしょう。しかし彼らはやめません。ついに大きな穴を天井にあけると、彼を主イエスの目の前に床のままするするとつり降ろしたのです。ポッカリと空いた天井を見上げて呆気にとられる人々、いったい何をするつもりかと怒鳴り声を上げる人々、何と非常識なことを、と憤慨する人々。しかし主イエス・キリストはそうやってご自身の前に吊り降ろされた彼と、その四人の友たちを見て「子よ、あなたの罪は赦されました」と語りかけてくださったのです。
 中風の人と主イエスとの隔てを越えさせたもの、それはこの四人の友たちの信仰だったと聖書は語ります。普通なら非常識と暴挙と思われるような彼らの振るまいも、彼らにしてみれば必死の思いでの、何とか一目だけでも主イエスの前にこの中風の人の姿を見せたい、そんな一途な思いの成し遂げたことでした。中風の人自身にはためらいや遠慮があったでしょう。主イエスに対するためらいだけでなく、この友人たちに対しても、そこまでしてもらっては申し訳ない、もう十分、という思いであったかも知れない。けれども彼ら四人が本当に心を一つにしてはじめて可能となるそんな彼らの信仰の決断をもって彼らは主の前にこの寝たきりの友を連れて行ったのです。

(3)ともに信じる幸い
 今晩私たちはこの中風の人と四人の友人たちの姿から、ともに信じることの幸いを覚えたいと思うのです。最初に申し上げたように、主イエス・キリストとの出会いは究極的には一対一の個人的なものです。ほかの誰でなくこの私が主イエス・キリストと出会い、主イエス・キリストを救い主として信じ告白することです。誰かが私の代わりに信じて老いてくれると言うことではないし、私が誰かの分まで信仰を持っておくと言うことでありません。しかしそれとともに、私たちが主イエスと出会い、主イエスを信じて歩む信仰の道は一人孤独の中を行く孤高の道ではなく、主にある仲間たちとともに信じる道であることを覚えたいのです。
 私一人であれば主イエスの前に出ることをためらったり、遠慮したりしてなかなか進み出すことできなかったかも知れない。そんな私の手を取り共に歩んでくれる友、背中を押してくれる友、時には強引と思えるほどに私を主のもとに導いてくれた友、信仰の道を歩み始めて、その道すがら、疲れたり、迷ったり、悩んだりする中で、喜びの時はともに喜び、泣く時はともに泣いてくれる、いっしょに信じる信仰の友の交わりが与えられていることはなんと幸いなことかと思います。私の信仰はそんな教会の交わりの中で支えられ、信仰の友によって励まされて続けられていく。一人の人の救いのためにみんなが祈りを捧げ、その床の四隅を抱えて主のもとに携えていく。そういう労を、何の気負いも衒いもなく進んでさりげなく、しなやかに果たしていく。私たちもまたそのような信仰の友によって導かれてきた一人として、今度は自分が信仰の友の一人となって遣わされていきたいと思います。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.