主イエスに出会った人々 その3  2007/04/29
『カペナウムの病人』

マルコ福音書1:40-45

今晩は、主イエス・キリストと出会い、重い病いをいやされ、喜びの人生を歩み始めた一人の病人の姿から、絶望の人生を希望の人生に造りかえてくださる主との出会いのすばらしさを味わっていきたいと思います。

(1)お心ひとつで
 40節。「さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。『お心一つで、私はきよくしていただけます』」。今晩ここに登場してまいります人、彼はカペナウムという町の周辺に住む人ですが、その名前も人となりも明らかにはされていません。ただ私たちに知らされていることは、彼が非常に重い病いを背負った人、そしてそれゆえ私たちの想像を絶するような過酷な人生を生きていた人であったということです。ここで彼は「らい病人」と紹介されますが、最近はこの言葉を聖書で用いることはしなくなっています。別の日本語訳聖書では「重い皮膚病」としたり、聖書の言語のまま「ツァラアート」としたりしていますが、これは聖書の「らい病」が今日のいわゆる「ハンセン病」と直接結びつけられない病いであることをはっきりさせるための扱いです。しかし一方では聖書に表れるらい病人の扱いが、そのまま日本の国での戦前から戦後つい最近までまれに見る悪法とされた「らい予防法」とそれにともなう隔離主義、断種主義と繋がっているのであり、私たちはこの問題を今日的なテーマとして読むことが求められているでしょう。当時、らい病人とされた人がどのような環境に置かれたかを如実に示すのは、旧約聖書のレビ記13章45節、46節です。「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』。と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない」。
 宗教的にも社会的にも「汚れた存在」とレッテルを貼られ、文字通り、孤独と虐げと差別の中で死んだように生きていた一人の人。町の中に入ることも、人々に接触することすらも禁じられていた彼が主イエスのみもとにやってきたと言うこと自体が、彼の決死の覚悟に基づく行動であったことを物語っています。彼の主イエスとの出会いは、まさにすがるような必死の覚悟と決断によって起こったことなのです。しかしそれだけに、と言ってよいでしょう。彼の中には主イエスに対する迷いや疑いはありません。「お心ひとつで、わたしをきよくしていただけます」。恐らく彼は、これが自分が頼れる最後の手段と心に決めていたのではないか。これでだめならもう自分のいのちはこれまで、と思い定めていたのではないか。ただ主イエスにすがるほか道はない。そんな思いが伝わってきます。 

(2)わたしの心だ、きよくなれ
 このような彼の必死の思いでの申し出に主はこう応じられます。41節、42節。「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。『わたしの心だ。きよくなれ。』すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった」。ここには驚くべきいやしの奇跡が記されます。主イエスに触れていただき、言葉をかけられた時、彼の体からは長年彼を苦しめ続けていた腫れ物が消え、その病いがいやされ、その人はきよくなったというのです。ここで主イエスご自身のお姿に目を留めておきたいと思います。主イエスは彼の願いを聞いて「深くあわれ」まれました。この言葉ははらわたがちぎれるような思い、断腸の思いというニュアンスの言葉です。ただの同情、憐れみではない。本当にその人の苦しみが自分の苦しみとなるほどに、はらわたがねじ切られるほどの激しく熱い思いを抱かれたことを意味します。主はそのように人間の痛み、苦しみ、悲しみ、孤独の思いを知ってくださるお方、そればかりでなく、その心をいっしょになって苦しみ、揺り動かされるお方であられるのです。さらに主は彼に「手を伸ばし、さわって」いかれます。らい病人に触れることも、同じ場所にいることもみなが忌み嫌う中で、まして彼に手を伸ばしてさわる人など誰もいない、それこそ「腫れ物にさわる」という言葉がありますが、さわることすらしない中で、ただ一人主は彼に手を伸ばし、彼にさわられたのです。いったいいつ以来の感覚だったでしょう。人の肌のぬくもり、その指先から伝わる体温、そのあたたかみ、その愛。そして主は言われます。「わたしの心だ、きよくなれ」。主が触れてくださったその御手、そこに込められた主のお心。それが彼の体の病いを癒すのみならず、彼の心に愛を吹き込み、彼の乾ききり、冷え切った心を癒してくださったのです。

(2)出会いの喜びに満たされて
 主イエスは彼を癒されると、こう告げられます。43節、44節。「そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。『気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物としなさい』」。このくだりはなかなか理解しがたいところかもしれません。なぜ主イエスは彼をすぐに立ち去らせるのか、なぜご自分のなさった御業について秘密になさるのか。恐らく主は癒された彼を衆目に晒し、寄せパンダのようにして、それでご自身の御国の福音を宣べ伝えようとはなさらない。ましてそれをもって人々の間に名が知れ渡ることをよしともなさらない。ただ彼自身がきよくされること、再び人々の交わりの中に迎えられていくことを主は願ってくださっているのです。
 しかし癒された彼自身は、その喜びを自分のうちにしまっておくことはできませんでした。45節。「ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た」。マルコ福音書は、この名も無きらい病人を、先に召された四人の弟子たちに先んじて、最初の福音宣教者として描き出します。この人が、出て行って主の御業を言い広め始めたというのです。主イエスとの出会いを果たした人、主の大いなる御業に与った人、主に触れていただき、新しく変えられた人は、もはやその喜びをうちにとどめおくことができない。そういう喜びの声が今私たちのもとにも届いて来たのであり、また私たちから届けられていくのです。この主との出会いを、私たちも体験していきたいと思います。私をきよくしてくださる主イエス・キリスト、あらゆる罪と汚れを洗い清めてくださるこのお方のもとに、今晩私たちも進み出てまいりましょう。

 



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