主イエスに出会った人々 その24  2007/11/25
『囚人バラバ』

マタイ福音書27:15-26

今晩は、主イエス・キリストの十字架刑の判決が下る一方で、それと引き替えに赦免されていった人物、あの囚人バラバの姿を見つめていきたいと思います。

(1)囚人バラバ
 「主イエスに出会った人々」というテーマでの連続説教をしていますが、今晩ここに登場して来る人物は、主イエスと出会う人というよりも、むしろ主イエスとすれ違い、入れ違いで出て行く人ということができるでしょう。聖書には実に様々な人物が登場してきますが、ただ一度きり姿を表すだけで、しかも彼自身の発する言葉は一言も記されず、それでいて強烈な印象を残していく人物。それがこの「バラバ」という男です。15節から17節。「ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。そのころバラバという名の知れた囚人が捕らえられていた。それで彼らが集まったとき、ピラトが言った。『あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか』」。彼の人となりについては限られた情報しか与えられていませんが、今日の箇所では彼は「名の知れた囚人」と紹介されます。その名を人々に知れ渡るほどの大悪人、彼の死刑はもはや免れない、それほどの悪事を働いた人物として皆がその名を恐れおののきながら記憶にとどめる男、それがバラバです。マルコ15章7節では「暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢にはいっていた」、ルカ23章19節では「バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた者である」、そしてヨハネ18章40節では「このバラバは強盗であった」と紹介されています。人々を扇動して暴動を起こし、人殺しをし、金品を奪った大悪党なのです。

(2)あり得ない選択
 主イエスの裁判を担当する総督ピラトは、主イエスの振る舞いにユダヤ人たちが十字架刑を求めるほどの問題を見出すことができません。そこで彼らを怒りと興奮をなだめる意図もあったのでしょう。イエスとこの大悪党のバラバのどちらを釈放するのかと問われれば、いくらイエスを憎むユダヤ人とてバラバを選ぶことなどあり得ないと考えて、あえてイエスか、バラバか、という選択を迫ったのです。ところがユダヤ人たちの選択の結果は驚くべきものでありました。21節、22節。「しかし、総督は彼らに答えて言った。『あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。』彼らは言った。『バラバだ。』ピラトは彼らに言った。『では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。』彼らはいっせいに言った。『十字架につけろ』」。まさかの選択、あり得ない選択。ピラトはそう感じたのではないでしょうか。かたや暴動、殺人、強盗の罪を犯した極悪人バラバ、かたや神の子と名乗ったぐらいでとりたてて罪を認めることのできないイエス。しかし彼らはそれなのに群衆たちはバラバを釈放し、イエスを十字架につけよと叫び続ける。それでピラトはなおもかすかに残った良心を働かせます。23節。「だがピラトは言った。『あの人がどんな悪い事をしたというのか。』しかし、彼らはますます激しく『十字架につけろ。』と叫び続けた」。この期に及んではもはや公平な裁判などあり得ない、ただただイエス憎しという異様な現実を目の当たりにしてついにピラトも自らの責任を投げ出すようにバラバの赦免と主イエスの十字架刑を決定するのでした。26節。「そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した」。

(3)主イエスのいのちと引き替えに
自由の身になったバラバ。いったい彼はこの出来事をどのように受け取ったのでしょうか。極刑は免れ得ないと覚悟を決めていたであろうところに、全く思いがけない仕方で赦免と解放の知らせが届けられたのです。彼が牢から連れ出され、群衆の叫びの中を解放されていく傍らで、まさにその彼とすれ違うようにして主イエスは繋がれて人々の嘲りといたぶりの中へと引かれていく。彼の心にはかすかな疼きはあったのでしょうか、良心の痛みを感じたのでしょうか。それとも心の中で舌を出すような思いだったのでしょうか。聖書はその後のバラバの歩みについては全く沈黙しています。だからこそまた、バラバのその後の生涯について後の時代の人々はあれこれと想像を巡らしたのでしょう。有名なスウェーデンの作家ラーゲルクヴィストの小説、映画にもなった「バラバ」はまさに彼のその後の人生の遍歴を描いた傑作ですが、しかし実際には聖書はバラバのその後の人生については口を閉ざしたままなのです。
 では私たちは今晩、このバラバと主イエスのすれ違い、入れ違いのような出会いの光景から何を受け取ることができるのでしょうか。私たちが今晩ここで起こった事柄そのものを見つめることを通して言いうることは、バラバとは主イエスの十字架とひきかえに赦免された人、主イエスのいのちと引き替えに生き延びた人であるという事実です。この事実の中に、主イエスの十字架によって代わりに赦しを得、そのいのちと引き替えに解放されたバラバの姿の中に、私たちの姿そのものを見ることができるのではないでしょうか。まさにバラバは私たちの象徴といってもよいのではないかと思うのです。自分から命乞いをしたのでない、助けを求めたのでもない。主イエスというお方を知りもしない。どういういきさつによってかも分からない中で、彼は突然、牢獄から解き放たれ、赦しの宣告を受けて自由の身となった。その陰で、彼に感謝されることもなく、詫びられることもなく、ただただすれ違い、行き交うようにして主イエスは十字架へと進んで行かれた。彼はそれがどういうことであったのかの消息を知る機会があったのかどうかも分からない。しかし私たちは今、それがどういうことであったのかを知らされています。まさにこの主イエスの十字架はバラバの罪の、そして私たち一人一人の、さらにはこの私の罪の身代わりであったということです。私たちはこの十字架の意味を知って、なお主イエスに背を向け続けるのか。その恩に報いることなく生きようとするのか。今晩、このバラバと主イエスの姿を見つめることをもって、主イエスからの愛の迫りをしっかり受け取りたいと思います。
 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:6-8)。

 



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