主イエスに出会った人々 その23 2007/11/18
『主を否むペテロ』

マタイ福音書26:69-75

 今晩は、主イエスの言われたとおりに三度も主を否んでしまったペテロの姿を通して、人間の不真実にも関わらず、真実を尽くしてくださる主イエス・キリストの恵みについて、御言葉から教えられてまいりたいと思います。

(1)ついていくペテロ
 最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で夜通し血と涙の祈りを捧げられた主イエスは、ついに逮捕され、大祭司カヤパの邸宅に連行されて深夜の裁判を受けられることとなりました。その主イエスの後ろを追うように、そっとついてきたのが弟子ペテロでした。この時のペテロの振る舞いをどのように理解することができるでしょうか。単なる好奇心からでないことは確かですが、かといって「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」とかつて威勢のよい言葉を口にしたように、いざとなれば自分が主イエスを救い出そうか、あるいは自分が身代わりに名乗り出ようか、そんな勇ましい思いを抱きながらということでもなさそうです。自分も捕らえられることはこわい、かといって主イエス一人を見捨てる訳にも行かず、どうしたらよいものかと悶々とした複雑な思いを抱いたまま、気がついてみたら、カヤパの邸宅にまで来てしまっていたというのが本音なのではないでしょうか。そこには、かつて主イエスが予告された「鶏が鳴くまでに三度、わたしを知らないと言う」という言葉を認めたくないという思いと、しかし状況は少しづつ確実に、その言葉の通りに近づいてしまっていることへの後ろめたさとが入り交じる、そんなペテロの心の内側が映し出されているようです。

(2)主を否むペテロ
 69節から74節。「ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。『あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。』しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、『何を言っているのか、私にはわからない。』と言った。そしてペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。『この人はナザレ人イエスといっしょでした。』それでペテロは、またもそれを打ち消して、誓って、『そんな人は知らない。』と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、『確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。』と言った。すると彼は、『そんな人は知らない。』と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた」。大祭司邸にいた人々が、そんなぺテロの存在に気づきます。最初に一人の女中が、次にもう一人の別の女中が、さらにしばらくすると周囲にいる人々が次々にペテロと主イエスの関係を問い詰めるのです。焚き火の中にあぶり出されるペトロの顔には、じっと見つめられ、ガリラヤ訛りを指摘され、平静を装おうとすればするほど、動揺を隠しきれない、そんな表情が映し出されていたに違いありません。そして彼は一度、二度、そして三度と、ことごとく主を否んでしまうのでした。当然、恐れがあったでしょう。彼なりに自分に対する言い訳もあったのではないでしょうか。「これは本心からではないのだ」「ここで自分も捕まっては主をお助けできなくなる」、そんな自己正当化が起こっていたのかも知れません。一度主を信じた者が、その愛を受けた者が、仮に罪を犯すとするならば、その時には神に対する絶えざる自己正当化が起こっていると考えなければなりません。しかもその場合、私たちがもっとも陥りやすい自己正当化は、「これは主のためのことなのだ」という口実でしょう。しかしペテロにとって、主イエスを否んだという事実だけは、何をどのように言い訳しても、実に動かし難いことでした。「主のために」は我々にとっての免罪符とはならないのです。
 私たちは試練の時や孤独の時には、主イエスがどうして私を見捨てたのかと訴えたくなるものです。けれども困難の時、迫害の時を迎えると、いとも簡単に主イエスとともにいることを否定する。私はその人を知らないとさえ言う。それが私たちの罪の現実の姿です。ペテロの姿を通して、今晩私たちは今一度、神の前に失われた存在である罪人の現実に気づかなければならないのです。

(3)人の不真実と神の真実
 75節。「そこでペテロは、『鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。』とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた」。ペテロが三度主イエスを否んだちょうどその時、鶏が鳴きました。ここに至って彼の自負心、彼の主の弟子であるというアイデンティティーは完全に崩れ去ったのでした。ここに至っては、もはや何の言い逃れも、自己正当化の余地も残されてはいません。主イエスの御言葉を思い出したペテロは、外に出て激しく泣いたのでした。主イエスの御言葉を思い出した時のペテロの思いとは、どのようなものだったのでしょうか。悔やんでも悔やみきれない後悔の涙、自分自身のふがいなさへの怒りの涙、そして主イエスを否んでしまったことへの懺悔の涙でしょうか。けれどもこの涙の中で、ペテロはあの主イエスの御言葉を思い出したに違いありません。今晩私たちはマタイ福音書からこの出来事を学んでいますが、前回のルカ福音書22章でのやりとりを思い起こしていただきたいのです。
 主イエスの御言葉を通して、ペテロはありのままの自分自身を見るのです。それは一番弟子の自負心に膨れ上がった自分でなく、自分をごまかしつつ自己正当化を図る自分でなく、ただただ、主イエスを否んでしまうような罪深く弱い一人の罪人としての自分自身の姿であり、主イエスの十字架によって罪を赦されなければならない罪人としての自分に、です。この認識から逃れることなく、身を隠すことなく、罪深い自分自身と向き合うことなしには決して味わうことのできない恵みがある。それが赦しの恵みであり、救いの恵みです。IIテモテ2章13節にこのような御言葉があります。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」。主を否んでしまうような私たちを、しかし決して御自身を否むことなく、また愛する者を見捨てることをなさらない主の御真実が支えていてくださる。この恵み深い御手に支えられつつ歩んでまいりたく願います。

 



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