主イエスに出会った人々 その22  2007/11/11
『挫折するペテロ』

ルカ福音書22:31-34

 前回のイスカリオテ・ユダの裏切りの場面に続いて、今晩は、サタンの揺さぶりにあって挫折を経験していくペテロと、そんなペテロのためにとりなし祈られる主イエス・キリストの深い御愛について、御言葉から教えられてまいりたいと思います。

(1)サタンにふるわれるペテロ
 主イエスが弟子たちと最後の食事を取られた大切な席で十二弟子の一人であるイスカリオテ・ユダの裏切りを予告された主は、続いて弟子たちの中でも一番の愛弟子であったペテロに向かって驚くような言葉を投げかけられるのでした。31節。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」。主はここで今の時がサタンが攻勢に出て、主にある者たちに揺さぶりをかけてくる時であるという認識を明らかにされます。イスカリオテ・ユダの心に忍び込んだサタンは、今や主の弟子たちを麦のようにふるいにかけようとしているのです。信仰の試練、それは私たちにとっても避けて通ることの出来ない事柄ですが、今日の御言葉はその背後にあるサタンの存在へと私たちの目を向けさせるのでした。しかしその中にあっても心に留めたいのは、サタンといえども主の御手にある者たちを勝手気ままに惑わすことができないという事実です。サタンは人をふるいにかけることを神に願い出て、聞き届けられるというプロセスを経なければならない。つまりサタンの活動といえども神の主権のもとに置かれる限定的なものなのだということです。それならばなぜ、神はそのようにサタンに人を惑わすこと、ふるいにかけるようなことをお許しになるのかという疑問が湧いてくるでしょう。それはまさにあの旧約の義人ヨブの苦しみの中での問いでもあります。これはこれで聖書における大変重要な問いなのですが、今日の箇所においてはその問いにこれ以上深く入っていくことはいたしません。ここではただシモン・ペテロがサタンの揺さぶりの中に置かれていったということ、そしてそれとても神の主権のもとにあって起こった出来事であったという事実を受け取っておきたいと思います。

(2)「シモン、シモン」と呼ばれる主イエス
 主イエスはここでペテロに「シモン、シモン」と呼びかけられます。「シモン」はペテロの本名ですが、福音書の中で主イエスがペテロを「シモン」とお呼びになることは極めて希なことであり、しかも名前を二度呼ぶということも大切な呼びかけの言葉であることを示してます。他の例の中でも特に印象深いのはヨハネ福音書21章のペテロの再献身の場面で、これも今日の箇所と関わりの深いところです。主はここで十二弟子の筆頭としてのペテロとしてではなく、他の人々とともに試みの中に置かれ、躓き、挫折し、苦悩するであろうひとりの裸の人間としてのシモンに語りかけていると言えるのではないでしょうか。そしてこれから遭遇するであろうサタンの試みに際して、次のように語られるのです。32節。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
 主はご自身の愛する者たちをサタンの手に渡しはしない。苦難の中で、あなたのために祈ったと言われるのです。もちろん主は「私たちを試みに会わせないでください」との祈りを弟子たちに教えられました。またご自身もゲッセマネの園において「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られます。しかし神との交わりにおいて重要なのは、試みを避けて生きる道ではなく、その試みの中で主の愛の確かさと出会っていくことなのです。ペテロはこの時にはこの言葉がどれほど慰めに満ちた言葉であるかを知りません。しかしやがて彼は本当にこの主イエスの言葉があって自分は立ち直れたと心の底から言うことのできる、そんな言葉であったに違いないのです。

(3)挫折するペテロ
 しかし、このような主イエスのお言葉にも関わらず、ペテロは自分自身がまさか主を裏切る者になるなどとは思ってもいないペテロは主の言葉を遮っていきます。33節から。「シモンはイエスに言った。『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております』」。ペテロは今の時の認識を欠いていました。従来の弟子の道においては彼は胸を張って堂々と「主よ、ごいっしょなら」と言うことが出来たでしょう。しかし今はもはやそのような時ではない。サタンの猛反撃の時であることを主イエスは示され、何よりもその事態の深刻さをペテロ本人に突きつけて言われるのです。34節。「しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います』」。よりによってペテロが、イエスを否むというような非常事態が起こると主は言われるのです。聖書は「立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい」と語ります。絶対に私は大丈夫、ということはあり得ない。誰がペテロの裏切りを予想したでしょうか。けれども主のことばはやがて現実となっていくことを私たちは御言葉を通して知っています。ペテロが威勢のいい啖呵を切れば切るほど、彼の挫折する姿が痛々しいほどに私たちの前に浮かんでくるでしょう。
 そういう結果をやがて目の当たりにする時、私たちは問います。「では、主イエスのとりなしは空しかったのか」。答えは否です。ここでの主イエスの祈りの要点は「ペテロが誘惑に会わないように」という祈りではなく、「信仰がなくならないように」であり、そして何よりも「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という祈りなのです。主は当然のことながらこの後のシモン・ペテロの裏切りを知っておられてなお、その先にある悔い改めと立ち直りの時を先取りしてくださっているのです。主イエスがペテロに約束してくださったこと、それは人生にやり直しがきく、という約束でした。もう二度と立ちに直れないような挫折を経験していこうとするペテロに、主は、その前にすでに彼に立ち直りのための祈りを捧げていてくださる。そればかりか、その挫折の経験を持って「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とまでおっしゃってくださるのです。私たちも信仰の生涯において挫折を経験することがあります。膝が崩れ落ちてしまい、起き上がることもできない、立ち上がって顔を上げることもできない、ふがいなさや恥ずかしさや罪の思いや、そんな中で立ち直れないようなところに追いやられることがあるかも知れない。けれども主イエスはそんな私たちのために十字架の愛によってとりなしつづけていてくださるのです。この主の深い御愛に触れて、ここから立ち上がる私たちでありたいと願います。

 



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