主イエスに出会った人々 その21 2007/10/28
『裏切る者ユダ』

ルカ福音書22:1-6

 今晩開かれている御言葉は、主イエスの弟子の一人でありながら、主イエスを裏切ってユダヤ人たちに売り渡した人物、イスカリオテ・ユダについて記されるところです。今晩はこの「難所」のような箇所を通して、私たちの罪のために死に引き渡された主イエスのお姿と、そこに置かれたユダの姿の中に込められた神の深い御心を読み取っておきたいと思います。

(1)主イエスとユダ、主イエスとサタン
1節、2節。「さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである」。過越の祭りの最中にあって、主イエス・キリストの十字架の時が刻一刻と近づいています。いずれの福音書も主イエスの十字架が父なる神の御心であり、主御自身もそのことを十分に受け取りながらここまでの旅路を歩んでこられたことを描き出してきたのですが、しかしここにきて主の十字架に至るきっかけとなったのが十二弟子の一人の裏切りによるというショッキングな事実が明らかにされるのです。3節から6節。「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた」。
 今晩私たちが特に目を留めておきたいのは、ここにたびたび出て来る「引き渡す」という言葉です。この「引き渡す」という言葉には「裏切る」と言う意味も含まれています。つまり主イエスが祭司長、律法学者たちに引き渡されるのは、実にイスカリオテ・ユダの裏切りによってであるというのです。それにしても、なぜユダは愛する師であるイエス・キリストを裏切ってユダヤ人の手に引き渡したのだろうか。これは実に大きな問題であり、答えのない謎なのですが、ある人は彼が金に目がくらんでイエスを売ったのだと言い、ある人はイエスに地上的な革命家を期待していたのにそうならない失望からイエスを見切ったのだとも言います。しかしルカ福音書の説明はこの点について実にはっきりしています。それは「イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った」ということでした。つまり今日の御言葉は私たちの前に「イエス・キリストとユダ」という二人の人物を置きながら、実際にはそこで「イエス・キリストとサタン」という構図を描いて見せているのです。

(2)死への引き渡し
 ここで私たちは今日の箇所における主イエスの「引き渡し」について確かめておきたいと思います。一つ目は主イエスがイスカリオテ・ユダから祭司長、律法学者たちへ引き渡されるということ、二つ目は主イエスがユダヤ人の手からローマ人すなわち異邦人たちに引き渡されるということ、そして三つ目の最終的な段階、これが最も本質的な「引き渡し」なのですが、それは主イエス・キリストのいのちから死への引き渡しということです。「引き渡される」と言うときに、一番中心となるのはこの主イエスの死への引き渡しと言うことでした。ローマ書4章25節に「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され」たとあるとおりです。
 主イエスは確かにユダによって裏切られ、引き渡された。しかしそこで起こっていることは、主イエスが私たちの罪のためにご自身のいのちを死へと引き渡してくださったということなのです。ここで私たちはこの背後に流れるあのイザヤ書53章の苦難のしもべの預言にも耳を傾けておきたいと思います。「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り者としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」(イザヤ53:12)。つまりここでの主イエスの「引き渡し」とは、直接的にはユダの裏切りをきっかけとしながらも、実はその背後にあるのはそのユダの裏切りをも包み込んだ父なる神の私たち罪人を救うための御心の成就であり、その御心をご自身の身に引き受けて十字架にかかり、ご自身のいのちを死へと引き渡すことによって、私たちのいのちを死から贖い出して下さるための主イエス・キリストの御業なのでした。そしてまさしくこの時こそが次の7節にある「過越の小羊がほふられる日」、直訳では「ほふられなければならない日」なのです。

(3)裏切る者ユダ
 では最後に、この主イエスの引き渡しが神の御心の成就であるからと言って、ではそこでのユダの裏切りは免罪されるのか。そこでもなお最初の問いは残り続けます。そして聖書はそれについては沈黙しているのです。しかし第三者がその真意を測り得ないとしても、当のユダと神様との間では事柄は明らかにされていたでしょう。続く主の晩餐の席上で主イエスは言われます。21節。「見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります」。実は今日の鍵言葉である「引き渡す」の言葉が、この主の晩餐の場面と結びついて登場する非常に重要な御言葉がIコリント11章23節以下で語られます。そこではこの最後の晩餐の夜が「主は渡される夜」と言われます。主の晩餐の夜。裏切る者の手が置かれた主の食卓で、主は引き渡されたのだと言うのです。あの夜、あの食卓で、この言葉の意味を知ったのは他ならぬユダただ一人であったでしょう。パウロが語る「ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」という言葉が鋭く私どもの心に迫ってまいります。主の食卓で主を裏切り、主をいのちから死へと引き渡す役を担ったユダ。その姿が私たちに絶えざる警鐘を鳴らしているのではないでしょうか。今晩、裏切る者ユダの姿を見つめながら、今一度、自らを主の御前に深く省み、吟味して、赦しの恵みを味わい知る者でありたいと願います。

 



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