主イエスに出会った人々 その20  2007/10/21
『貧しいやもめ』

マルコ福音書12:41-44

 今晩は「主イエスと出会った人々」というよりも、「主イエスが出会った人々」と言ってもよいかも知れません。主イエスがその信仰を称賛された一人の貧しいやもめの姿から、主に献げる信仰について教えられていきたいと思います。

(1)レプタ二つをささげるやもめ(v.41-42)
 41節、42節。「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる」。今日の舞台となるのはエルサレム神殿の一角です。主イエスは神殿の献金箱の前に座られると、人々がそこに献金を投げ入れていく様をじっと見つめておられたというのです。しばらくすると金持ちたちが献金を投げ入れている列に混じって、一人の貧しいやもめがやってきて献金を捧げます。その金額は「レプタ銅貨二つ」であったと記されます。レプタとは当時の通貨の最小単位で、しばしば聖書に登場する労働者一日分の賃金に相当するあの1デナリの128分の1という単位です。今の感覚で1デナリを1万円と換算するとレプタ二つというのはだいたい150円ぐらいということになるでしょう。しかしここで大切なのは、このやもめが持っていたのはたった二枚の銅貨であったということ、そして彼女がその二枚の銅貨をそのまま献げたということです。
 私たちはここに登場する二種類の人間たちをどのように見るのかが問われているように思います。かたや金持ちたちは大金を投げ入れる。それはそれで彼らの神に対する犠牲と献身をあらわす行為として称賛されるべきことでしょう。かたやこの貧しいやもめは自分の手元に残されたほんの僅かなものを献げた。ともすると私たちが金持ちが投げ入れる多額の献金を見て驚きの眼差しを向けている間に、ついつい見過ごしてしまうような小さな振る舞いです。けれども主イエスは彼女の振る舞いを見ておられた。彼女のささやかな献金に込められた彼女の思い、決して声高に叫ぶことも、人前にひけらかすこともない、いやそうすることのできない小さな小さな信仰の振る舞いに、しかし主はじっと目を留められたのでした。ある人は、この出来事を見て、なけなしの金をはたく彼女の潔さを称賛するかも知れません。しかし一方である人は信仰と無謀を取り違えさせ、人間の常識を麻痺させる宗教の恐ろしさを示すようなエピソードと読むかも知れません。あるいは貧しい者からも献金を搾り取る悪徳宗教のにおいを感じるかも知れません。私たちは今晩、彼女の姿をどう見るのかを考えるに当たり、まず何よりも主イエス・キリストが彼女の振る舞いをじっと見ておられたという事実をしっかりと受け取っておきたいと思います。そこから離れてこの出来事を見るならば、主イエスが見つめられた彼女の信仰から学ぶことはできなくなるでしょう。では主イエスは彼女のどこに真実を見出されたのでしょうか。

(2)献げる決断(v.43-44)
 43節、44節。「すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなはあり余る中から投げ入れたのに、この女は乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」。ここで主イエスはこの貧しいやもめの姿を見て弟子たちを呼び寄せられ、彼女の振る舞いを称賛されました。主イエスはこの出来事を大声で周囲の人々に信仰の美談として知らせたのではない、それをもって金持ちたちに「彼女の献身を見よ」と迫って彼らを恥じ入らせたのでもない。ただ弟子たちに向かって彼女の姿を示されたのです。それはすなわち、主に従う者たち、自らを献げて主についていく者たちに対して彼女の信仰の姿を見せられたということでしょう。
 主イエスはこの貧しいやもめのほんのわずかな捧げものを見て、彼女はどの人よりもたくさんささげた」と言われたのです。もちろんこれが金額の多少を意味しているのでないことは明らかです。そうではなく彼女が「乏しい中から、持っていた生活費の全部をささげた」ことの中に主は彼女の全き献身の姿を見て取られたのでした。それはまた、すべてを主に献げても、いやすべてを主に献げるがゆえに、必ず主が養ってくださるという確信なしにはなしえない振る舞いでありました。ここに主に献げて生きる生き方の、この世の計算を越えた世界があります。金持ちたちの献金の姿勢は、律法の規定に従って自分の所得の中から計算をして弾き出した、いわば妥当な額の献金でありました。しかしやもめの献金はそのような計算すら起こらない、いや起こりようのない額です。けれども、計算ずくではなしえない献身の姿勢がそこにあることを主は弟子たちに教えられたのではないでしょうか。主に献げて生きていこうとするとき、そこでは計算は成り立ちません。損得勘定をして、おつりが来ることを計算に入れて生きていこうとすれば、主に献げて生きるという選択肢は消えていくでしょう。けれどもそこで主に従う信仰の世界が開かれてくる。収支を償ってあまりある祝福の道が開かれてくる。どうやって生きてきたのか計算できないけれど、それでも主は養ってくださったという、そういう生き方があるのだということです。そういう生き方が成り立つのはなぜか。それはすべてのすべてなる主イエス・キリスト、自らもまた一切を、何よりもそのいのちを私たちのために捨ててくださった主イエス・キリストが私を御自身のものとしていてくださるからにほかなりません。主は私のためにすべてをすててくださった。私は主のために何をささげるのか。貧しいやもめの小さな献身の姿は、私自身の生涯全体を主に献げることへの大きなチャレンジを私たちに今、突きつけているのです。
 「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(IIコリント8:9)。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.