主イエスに出会った人々 その19 2007/10/07
『取税人ザアカイ』

ルカ福音書19:1-10

 今晩は「主イエスと出会った人々」というこのシリーズにもっとも相応しいといえる御言葉が与えられています。主イエス・キリストとの出会いを果たした取税人ザアカイの姿を通して、主イエスによって見出される喜びを味わっていきたいと思います。

(1)「見つめる人」ザアカイ(v.1-4)
 1節。「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった」。御自身の十字架の時を見定めてエルサレムに向かわれる主イエスの旅の途上、エリコの町で一人の男との出会いが起こります。それが取税人ザアカイとの出会いでした。2節。「ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった」。彼の名は「ザアカイ」、取税人のかしらで、金持ちであったと紹介されます。取税人とは、当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤ社会で、ローマの手先になって同胞から税金を取り立てる人々で、同じユダヤ人たちからは大変忌み嫌われた罪人の代名詞のような存在でした。彼の人生の価値観はお金に支配されていました。人と人との関わりを犠牲にしてもお金に執着する心。それと引き替えに彼は周囲の人々から嫌われて孤独の中にいたのです。それでも彼は人々の前では強がり、威張り散らしていたことでしょう。しかし一人になったときに言いしれない孤独感に苛まれていたに違いありません。
 そんな彼の耳に主イエスが町にやってきたという知らせが届きます。彼は自分のうちにある飢え渇きがどのようなものであるかも知らぬまま、ともかく主イエスという男を一目見ようと出かけていくのでした。ところが3節。「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった」。彼はイエス・キリストを一生懸命に「見ようとする」。しかし彼の目に入るのは群衆の背中だけ。聖書はそれを「背が低かった」と説明します。何ともユーモラスで、しかし何とも切ない説明です。恐らく群衆の意地悪い行動でもあったのでしょう。けれどもそれで彼は引き下がらない。4節。「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである」。このザアカイの行動には、その実深い所で、主イエスへの期待と、それとともにあるためらいが存在しているように思えます。ザアカイはここで主イエスを「見ようとする」が、しかし自らは「見られない者」であろうとしているのです。主イエスのことは見たい、知りたい、けれども自分自身の姿を見せることは出来ない。そこには自分の問題は解決されたいが、しかし必要以上に干渉されたくはない。そんな思いがあったのかも知れません。あるいは主イエスの視線に自分は耐えられる者ではないという罪の自覚があったのかもしれません。ここにザアカイの抱える苦悩があるのです。ザアカイの内には切なる求めがある。あの盲人バルテマイのように「ダビデの子のイエスさま、私をあわれんでください」と叫ぶことができない。そういえればどれほど楽かと思います。けれども彼は彼は生い茂ったいちじく桑の葉にひっそりと身を隠し、それでも主イエスを求めてじっとその姿を見つめているのです。

(2)「訪れる神・捜す神・救う神」(v.5-10)
 しかし主イエスは通り過ぎるだけの御方ではありませんでした。5節。「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい」。主イエスはいちじく桑の木の下でザアカイを見上げ、「ザアカイ」と、その名をもって呼びかけられます。ここでザアカイの視線と主イエスの視線が出会うのです。さらに主は驚くべき言葉をもって語りかけられます。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。この言葉、他の訳では「ぜひあなたの家に泊まりたい」という言葉ですが、直訳すると「泊まらなければならない」という意味です。この「ねばならない」という言葉はルカ福音書の鍵言葉の一つです。主イエスはエルサレムに向かわなければならない旅の途上で、ザアカイの家に「泊まらなければならない」と言われる。それは主イエスがどうしてもしなければならないこと、すなわち主イエスの救い主としての使命と深く結びついたことだったのです。この主イエスの思いがけない声を聞いてザアカイはすぐさま応答します。6節。「ザアカイは急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」。この主イエスの呼びかけによってザアカイは見出され、その内なる願い、切なる求めが満たされた様が人々の前に公にされるのです。それは彼の喜びの姿によって証しされています。ルカはザアカイが主の「急いで降りて来なさい」という言葉に、何のためらいもなくすぐに応じて「急いで降りて来て、大喜びでイエスを迎えた」のです。そこにはもはや身を隠し続けようとする姿はありません。そこにあるのは見出された喜びを体全体で表す人の姿です。
 さらにザアカイは言います。8節。「主よ、ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」。これが主に見出されたザアカイの喜びの応答、感謝の姿でありました。直前の18章で主イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と語られ、「それでは、だれが救われるのだろうか」と問う人々に「人にはできないことが、神にはできる」と答えられました。まさにその言葉がザアカイの姿において実現しているのです。そして9節で決定的な救いの宣言がなされます。「きょう、救いがこの家を来ました」。イエス・キリストの訪れは、救いの訪れそのものでした。イエス・キリスト御自身こそが救いの訪れそのものなのです。
 このザアカイの物語は主イエスの次の言葉で締めくくられます。10節。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。ここでの「捜す」は、実は3節の「見ようとした」と同じ語で「捜す・求める・見出そうとする」という意味の言葉です。つまりこの物語の中心は主イエスを見出そうとしたザアカイが、実は主イエスによって見出されたというザアカイ発見の出来事なのです。主イエスはこのためにエルサレムへの旅の途上、エリコに足を止め、ザアカイの家に泊まらなければならなかった。それは主がエルサレムに向かう旅の途上で果たすべき最も御旨にかなったことだったのです。なぜならイエス・キリストは罪人・取税人のもとを「訪れる神」であられ、失われた者を「捜す神」であられ、そして何よりも、そのような者を「救う神」であられるからです。もしこの礼拝において自らは身を隠しつつ、見出されまいとしつつ、しかし切実に、誠実な思いでイエス・キリストを見出そうとしている方があるならば、そのような方をこそ主イエス・キリストは見出し、捜し出し、救うために、訪れていてくださるという恵みの事実を知り、この主イエスとの出会いを果たしていただきたいと切に願います。

 



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