主イエスに出会った人々 その18 2007/09/23
『盲人バルテマイ』

マルコ福音書10:46-52

今晩は、主イエス・キリストに救いを求めて叫ぶ盲人バルテマイの姿を通して、主イエスに自らの願い求めを率直に申し上げる信仰の大胆な姿勢について御言葉に聞いていきたいと思います。

(1)主イエスへの叫び(v.46-48)
 46節から48節。「彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。』と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立てた」。
 今日の主人公の名前はバルテマイと紹介されます。彼は盲人であり、また道ばたにすわって道行く人々にすがるこじきであったと記されます。当時の社会にあっては身体に障害を負った人々の生活は困難を極めていました。人々の中には特に生まれ持っての障害を祖先たちの罪と結びつけるような理不尽な考え方が染みついていましたし、後から障害を負った場合はその人の行いの結果とするような理解があったようです。それだけでなく、時には家族からも見放され、社会の底辺で文字通り這いつくばるようにしながら日毎の糧をどうにか得て一日をしのいでいくような生活を強いられていたのであり、ここでバルテマイが盲人でこじきであったということは、決して珍しい事例ではありませんでした。彼は人々の蔑みに満ちた視線に耐えながら、人間としての尊厳を差し出し、それと引き替えに人々が落としていく僅かな物によって日々を何とか生き抜いていたのです。しかしそんな彼の耳に主イエスの訪れの声が聞こえてきます。
 主イエスがこの道を通られる。そのことを知った時にバルテマイが取った行動は実に大胆なものでした。彼は「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と大声で叫び始めたのです。主イエスの回りを取り囲む人々は、その突拍子もない叫び声に驚き、彼をたしなめようとします。しかし彼はそんな声に構わず、ますます大声で叫び立てたというのです。こういう場面を読むときに、私たちは信仰の大胆さと常識という二つの基準の間で揺れ動く心を抱くのではないでしょうか。御言葉を読むだけならば、彼の大胆さ、と言う一言でこの出来事を受け取ることができるかもしれません。しかしもし自分がその場に居合わせたなら、いったい自分はどういう振る舞いをするだろうか。何と非常識、場をわきまえない行動かと憤って他の人々同様に彼をたしなめる側に立つか、何とも空気の読めない困った人がいると無関心を装うか。しかし今晩、私たちは彼の渾身の叫び声を、つまらない社会常識といったもので圧し殺してしまうことがないように、しっかりと聞き取っておきたいと思うのです。

(2)叫びを聞かれる方(v.49-50)
 人々が彼をたしなめ、彼の叫びを押さえつけようとする中で、ただ一人だけその切なる叫び声を聞き取り、その叫びに込められた渾身の思いをしっかり受け取った方がおられました。49節、50節。「すると、イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい。』と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。』と言った。すると盲人は上着を脱ぎ捨てて、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た」。主イエス・キリストはバルテマイの叫びを聞いて立ち止まり、彼を御自身のもとに招かれました。主イエスの常識はそのような魂の叫びを発する人を見過ごしにはなさらない。この人間の常識と主イエスの常識の違いを目の当たりにして主イエスに付き従う人々も恥じ入ることになります。先ほどまでバルテマイをたしなめていた彼らはそうやって主イエスのために機転を利かせているつもりだったでしょう。それが彼らの常識でした。しかし主イエスはバルテマイを招かれる。「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」とバルテマイに伝える彼らの内心は主イエスの前に恥じ入る心でいっぱいだったのではないかと思います。その心がまた私たちの心にも伝わってくるのではないでしょうか。

(3)わたしに何をしてほしいのか(v.51-52)
 こうして主イエスの前に招かれ、主イエスとの出会いを果たしたバルテマイに対して、主は単刀直入、実に率直に問いかけられます。51節、52節。「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。』するとイエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」。私たちは今晩、この主イエスとバルテマイとの間に交わされたまことに短い言葉の交わし合いを通して、そこに込められた主イエスとの出会いの幸いと祝福の姿をしっかりと受け取っておきたいと思います。「わたしに何をしてほしいのか」。「目が見えるようになることです」。率直に問われ、率直に答える。バルテマイにはもはや疑いも迷いも、遠慮もありません。くどくどと前置きをすることも必要はない。全て主が知っていてくださる。その信頼の中で彼は自分の願い求めをはっきりと口にする。そこに主イエスはバルテマイの信仰を見出してくださったのです。私たちはどうでしょうか。「わたしに何をしてほしいのか」と問われて、素直に自分の願いを口にすることができるでしょうか。ここでも人間の常識が邪魔をすると言うことはないでしょうか。率直かつ大胆に自らの願い求めを申し上げる者でありたいと思います。
 最後に、より重要なのは、「わたしに何をしてほしいのか」という主イエスの問いかけです。ほかの誰でない「わたしに」何を求めるのか。この問いかけは、主イエス・キリスト御自身への信頼を問う問いかけです。つまりこの問いかけの力点は「わたし、このわたし」に何を求めるのかということでしょう。主が私たちに求めよと言われるとき、それは応えてくださるお方としての問いかけです。応えてくださるお方への信頼をもって私たちも率直に私の願い求めを申し上げることが許されているのであり、またそうすべきなのです。そこでは大胆に、遠慮もためらいもなく、主に自らの願いを申し上げる。それは主がその願いに聞いてくださる方であるからこそ成り立つ交わりです。今晩も主は私たちに「わたしに何をしてほしいのか」と問いかけていてくださる。この問いかけの前に私たちもバルテマイのように大胆かつ率直に願い求めを申し上げていきたいと思います。

 



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