主イエスに出会った人々 その17 2007/09/09
『金持ちの役人』

ルカ福音書18:18-30

今晩は、主イエス・キリストのもとを訪れた一人の金持ちの役人の姿を通して、によって重い病をいやされた十人の男たちの、九人と一人の対照的な姿を通して、主の眼差しの前に立つ信仰の姿について御言葉に聞いていきたいと思います。

(1)永遠への問いかけ(v.18-23)
 18節。「またある役人が、イエスに質問して言った。『尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか』」。「役人」と言うのは当時のユダヤ社会のリーダーを意味する言葉です。しかも彼は21節からも明らかなように、小さい時から律法の教えを受けて育った人物であり、23節では「大変な金持ち」でもありました。さらに並行箇所のマタイ19章20節ではこの人物が「青年」であると記されています。つまり彼は幼い頃から一流の教育を受け、若くしてすでに多くの財産を持ち、社会的にも高い地位につき、これからの将来に様々な可能性を持つことのできる前途有望な人物であると言えるのです。ところがこの彼が主イエスのもとに来て「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と尋ねるのでした。地上の人生において何一つ不自由や不安の種などないと思えるこの人物でも、永遠の命についての漠然とした不安は拭い去ることはできないのです。この世でどんなに満ち足りていても、それでも人は永遠への問いを抱かざるを得ない存在なのです。
 彼の問いに対する主イエスのお答えは意外なものでした。19節。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え』」。主は彼にユダヤ人なら誰もが親しんでいる十戒を引き合いに出して「これらの戒めを守れ」と言われるのですが、ユダヤ人の彼にしてみればそんなことは当然のことです。21節。「そのようなことはみな、小さい時から守っております」。しかし主はさらに畳みかけるように言われます。22節から。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」。なぜ主は永遠への切なる問いをもってご自身のもとにやってきたこの人物に、律法の遵守を要求されるのでしょうか。それは彼の問いの中に潜む自信を突き崩そうとされるからなのです。彼は「何をしたら永遠の命を得られるか」と問いました。しかしこの「何をしたら」という問いの中に、すでにそのような自己義認の思いが横たわっているのを主は鋭く見抜かれたのでした。むしろ神の国を生きるいのちは、律法の義によって獲得することではなく、己れの罪を認めて悔い改める者、神の御前に受け入れられる幼子のような者に与えられるのでした。こうして自らの価値観を突き崩された彼は23節。「すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ」とあります。なぜなら彼は「たいへんな金持ちだったからである」と聖書は記します。

(2)救いは神のわざ(v.24-30)
 しかし彼の中の価値観の崩壊が救いの時の始まりをも意味していました。24節。「イエスは彼を見てこう言われた。『裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい』」。「イエスは彼を見て」と記されます。並行箇所のマタイやマルコでは彼は23節の後にその場から立ち去っていますが、ルカだけは彼はまだこの場にいると記します。となればもしかすると彼は次のように主に問いかける人々の中にもいたのかも知れません。26節。「これを聞いた人々が言った。『それでは、だれが救われることができるでしょう』」。この世の価値観を持ったままで、あるいはそれを微調整したぐらいで神の国に入ることの難しさを主イエスは語られます。むしろそこに大いなる逆転が起こらなければならない。ではそれはどのようにしてか。主は言われます。27節。「人にはできないことが、神にはできるのです」。私にはできないことを神が成し遂げてくださる。救いは神の業なのです。
 この主イエスと役人とのやりとりを見てペテロが言います。28節。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました」。ペテロのことですから、ここぞとばかりに少々誇らしげな気持ちも混じっての言葉でしょう。しかし事実として、彼らは家族や持ち物、家を捨てて主に従ってきた者たちです。けれどももっと言うならば、彼らこそが神によって新しくされ、逆転された価値観の中に生きた人々でもあるのです。彼らは主の招きに与り、それを受け入れ、従ってきました。まさしく幼子のように神の国を受け入れた人々でした。社会的にも経済的にも力はありませんでしたし、一流の教育を受けたわけでもありません。しかし彼らはそのようにして神の国の価値観を体現して生きた人々であったと言えるのです。あのガリラヤ湖畔で「わたしについて来なさい」との主イエスの招きの御声を聞いた時、彼らは「どうしたら永遠の命を得られるのか」という計算のもとに、主に従っていったのではありません。もちろんその動機を聖書は語りませんので全く純粋に、と言うことでもなかったのかも知れません。しかしながら主は彼ら弟子たちの歩みをしっかりと受け取って言われます。29節。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」。主イエスは彼らのご自身に従う歩みが「何をしたら永遠の命を自分のために得るのか」という計算によってではなく、ただ「神の国のため」という地上のものによっては全く計算の立たない、神の支配に生きるものであると語られます。そして神の国に生きる者にこそ、地上における祝福と天における永遠のいのちが約束されるのです。
 金持ちの役人にとっては、永遠のいのちを前にしても今手の中にある財産はそう簡単に捨てられるものではありませんでした。確かに私たちには絶えず失うことへの恐れがつきまといます。しかし私たちはそこで主イエスにあってこそ真に得るものがあることを忘れてはなりません。神が下さる永遠のいのちは、自らの義を打ち立てることによって得られるものではなく、ただ主イエス・キリストからのみ来るのです。そしてこのお方にあって生きる時、私たちはすべてのものを神からの祝福として得ることができるのです。

 



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