主イエスに出会った人々 その16 2007/09/02
『十人の男たち』

ルカ福音書17:11-19

今晩は、主イエス・キリストによって重い病をいやされた十人の男たちの、九人と一人の対照的な姿を通して、主の眼差しの前に立つ信仰の姿について御言葉に聞いていきたいと思います。

(1)言葉を信じて(v.11-14)
 11節から14節。「そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。』と言った。イエスはこれを見て、言われた。『行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。』彼らは行く途中でいやされた」。今晩、主イエス・キリストとの出会いを果たしたのは十人の男たちでした。彼らは人と人との出会いの経験ということから最も遠く隔たったところで生きる人々でした。なぜなら彼らは当時の社会において最も抑圧された立場にあった「らい病人」たちであったからです。すでにこの病いについては、これまでの説教の中でも触れてきましたが、人々の交わりから隔離され、宗教的には汚れた者というレッテルを貼られ、社会的に抹殺されたような存在、それが当時のらい病人の置かれていた状況でした。しかしそんな彼らのもとにも主イエスのいやしの御業の噂は届いていたようです。人々との接触を許されていない彼らは遠くから声を張り上げて主イエスに叫び求めます。それは彼らの渾身の、いのちがけの叫びです。本来ならそのように人々の前に自分たちの姿を明らかにすることすら許されない、そんな彼らがこの時を逃せばもはや生き延びていくすべはないというほどの覚悟を持って叫んだ決死の声が、主イエスの耳に届いたのでした。 この声を聞いた主イエスは彼らに向かって「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われます。この主イエスの言葉、聞きようによっては、あるいはこれまでの癒しの場面と比べてみると、少しばかり素っ気ない、腰の退けたような対応にも思えます。近づいて親しく声をかけるなり、手を触れて患部を癒してくださるなりの振る舞いがあってもよいのではないか。ただ「行って祭司に見せよ」というだけという姿を見ると、主イエスの中にもらい病人との接触へのためらいがあるのではないか、などと訝る声が聞こえてくるかも知れません。しかしそのような考えはうがった見方ということになるでしょう。ある注解者たちは、この出来事の背景に旧約聖書のII列王記5章に記された預言者エリシャによる異邦人シリヤの将軍ナアマンの癒しの物語があると指摘します。らい病を病んだナアマンは神の人エリシャの奇跡的な御業を期待してそのもとを訪れるのですが、エリシャが命じたのはヨルダン川にただ七回身を浸すようにという言葉だけでした。拍子抜けしたナアマンは怒りを燃やしますが、しもべたちにうながされて身を浸した時、その体はきれいに癒されたのです。この時しもべたちが言った言葉はこうでした。「わが父よ、あの預言者が、もしもむずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか」(II列5:13)。信仰に入る決断にも同じような面があるのです。ただ信じるだけでいい。これがとても簡単すぎて、あっけなさすぎて出来ない。もっと驚くような劇的なことがあればと思うのです。しかし大切なのは主のお言葉に信頼して自らを委ねることです。あのナアマンがそうであったように、今この十人のらい病人がただ主のお言葉だけを握りしめて祭司のもとに進んでいったようにです。その時、「彼らは行く途中で」いやされたのでした。

(2)真の礼拝者(v.15-19)
 物語はこれで終わりません。15、16節。「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった」。ここで福音書は「十人が癒された」ことと「一人だけが感謝のために戻ってきた」ことのコントラストを巧みに描き出します。しかもその効果は「彼はサマリヤ人であった」の一句によって一層鮮明になります。主イエスのもとに帰ってきたのはよりによってユダヤ人から蔑まれていたサマリヤ人一人であったというのです。他の九人も同じように癒されたのですが、しかし彼らはその病いが癒されたという事実によって満たされてしまった人々でした。しかしこのサマリヤ人にとっては癒されたところではまだ終わらない。真の信仰とは、主の御業に与ることだけでなく、生ける主ご自身の御前に立つことによって全うされるのです。ここで一つの言葉に注目しておきたいのですが、それは14節の「主はこれを見て」の「見る」という言葉です。これと15節の「自分のいやされたことがわかると」の「わかる」は同じ言葉です。15節を直訳すると「自分のいやされたことを見て」となるのです。つまり、彼は主イエスによって見つめられた自分自身の姿を見た時に、もういても立ってもいられなくなり、「大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝」せずにはおれなくなったのです。かつての彼は他人からは蔑み、差別、恐怖の視線を浴びせられ、自らも自分の身を呪うほかないような存在であった。そんな彼が主イエスの眼差しに触れられて、そしてその主の眼差しにおいて見つめられた自分自身の姿を見た時に、そこに大いなる主への感謝と賛美がわき起こってきたのです。主の眼差しにおいて見つめられた自分自身を見る視点。これこそが主イエスとの出会いを果たした者に与えられる大いなる恵みなのです。
 17節から19節。「そこでイエスは言われた。『十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。』それからその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです』」。主イエスとの出会いは私たちを主を礼拝する者へとつくりかえていきます。恵みを受けただけで終わってはならない。その恵みを受け取ったならば、その恵みへの応答が起こってくる。賛美と感謝。それこそが真の礼拝の姿です。九人の男たちは自分たちの病いが癒されたことで満足し、その源なる主イエスへの礼拝にはせ参じることはしませんでした。私たちは彼らのように恵みを受けたことで満足し、恵みの与え主なるお方への賛美と感謝、まことの礼拝を怠らぬ者でありたいと思います。そしてむしろこの一人の男のように、主の眼差しで見つめられる自分自身の姿を絶えず主の御前に見つめながら、この主への賛美と感謝の生涯、礼拝の生涯を歩ませていただきたいと願います。

 



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