主イエスに出会った人々 その13 2007/07/22
『ベツサイダの男』

マルコ福音書8:22-26

 今晩は、ベツサイダに住む一人の目の見えない男性と主イエス・キリストとの出会いを通して、私たちの心の眼を開くために、近く、深く関わってくださる主イエスのお姿に触れて行きたいと思います。

(1)主イエスに触れられて
 22節、23節。「彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、『何か見えるか。』と聞かれた」。これまでに幾つかの主イエス・キリストによる癒しの場面を読んで来ました。それぞれの箇所に、その箇所ならではのユニークさがあるのですが、今日の御言葉もまた、これまでの癒しの出来事と比べてみても大変意味深く、また興味深い箇所です。今日の箇所を読んで気がつく特色として、まず二つの点を挙げることができるでしょう。一つは、主イエスがこの目の不自由な男性を群衆から引き離して、村の外に連れて行かれたということです。これは主イエスのこれまでの癒しの出来事においてあまり見られない振る舞いです。いま一つは、今日の癒しの箇所は他の箇所の比べてとても詳しい書き方がされているという点です。「両眼につばきをつけ」、「両手に手を当ててやって」、「何か見えるか」と聞かれる主イエスのお姿、それはさながら、町医者の先生が患者さんに親しく懇ろに語りかけながら、それこそ「手当をする」、そんな光景を思い起こさせるような書き方です。福音書が、そのような書き方をするということには、必ず意図があるわけで、その意図を辿りながら読み進めることが相応しいと思いますが、ここで主イエスはこの目の不自由な男性を群衆の興味本位な好奇の目から守り、彼と一対一で向き合うため、そうして彼と人格的な関わりを持つために、彼に触れ、言葉をかけて行かれたのではないかと思います。
 ところがここでもう一つの興味深い御言葉が記されます。24節。「すると彼は、見えるようになって、『人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。』と言った」。この箇所の持つユニークさにお気づきいただけるのではないでしょうか。彼は主イエスによって触れられて見えるようになった。それはこれまでも繰り返されてきた癒し物語の結論です。ところが今日の箇所、「人が見ます。木のようですが、歩いているのが見えます」とある。つまり彼の目は見えるようになりつつあるが、しかし十分ではない。またくっきりと像が結ぶまでには見えるようになっていないのです。これは一体どういうことなのでしょうか。主イエスの癒しの業が力不足だったのか、失敗だったの、ちょっとお疲れでいつも調子が出なかったと言うことなのか。時にはこういうこともある、というようなことなのでしょうか。実はここに今日の御言葉の大切なポイントがあるのです。

(2)心の眼が開かれる
 まずは続く主イエス様の振る舞いを見てみましょう。25節。「それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると。すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった」。このように主イエスは「もう一度」彼の両眼に触れられる。すると「すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった」というのです。そして26節。「そこでイエスは、彼を家に帰し、『村に入って行かないように』と言われた」。一度目では失敗したけれど、二度目にようやく成功した。ああ、群衆の前でなくて一対一の時で良かった、そういって主イエスもホッと胸をなで下ろされた。そう言うことなのでしょうか。もちろんそうでありません。このような二度にわたる癒しの行為を主イエスは敢えて行われたのです。それは主イエス御自身の意図であり、またこの福音書を記したマルコの意図でもあるということができるでしょう。
 ではなぜそう言うことができるのか。この問いを考えるには、マルコ福音書の中でこの御言葉が語られている位置に注目することが必要です。マルコ福音書は全部で16章からなる四福音書の中で一番古くて短い書物ですが、ちょうど8章は全体の折り返し地点ともういうべき箇所です。マルコはこの福音書を一つの問いを見つめながら書き記し、その頂点を折り返し地点として後半に書き進めるという書き方をします。その問いとは「主イエス・キリストとは誰か」という問いです。福音書の冒頭で「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と記したマルコは、この神の子イエスとはどのようなお方であるかを問いながら8章でクライマックスを迎え、そしてそれ以降は十字架と復活に焦点を当てながら結論へと進んでいくのであって、その頂点となるのは今日の箇所の次にある27節から30節、特に29節の「あなたは、キリストです」という信仰告白の言葉です。つまり福音書はこの言葉を導き出すために、それまでのイエス・キリストのお姿を記していくのですが、最初からはっきりわかるのではなく、少しずつ少しずつ主イエスのお姿に触れ、その教えに聴き続け、その御業にあずかり続けていく中で弟子たちの中に霊的な開眼が起こる。そういうことを書こうとしているのです。とするならば、今日の箇所はまさに一人の男の肉の目の開眼を記しながら、実はそれを通して私たちの心の眼が開かれて、イエスが主であるとはっきりわかるようになる、そういう主イエスを信じる信仰への道筋を示すための象徴的な出来事であるということになるのです。
 そのように考えて今日の箇所を読み直すならば、このことが一層よく分かるのではないでしょうか。私たちも主イエスにお会いして、一度にすっきり、はっきり主イエスを信じられるわけではない。けれどもそういう私たちに主イエスは懇ろにお声を掛け、御手をもって触れてくださり、私たちの閉ざされた心の眼を開いていってくださるのです。しかも一対一の人格的な交わりの中で、人の声に惑わされることなく、人の眼にさらされることなく、ただ主の御前にあってその心の眼を開いていってくださるのです。このベツサイダの男、彼の眼が開かれていったとき、彼の目に最初に飛びこんできたもの、彼の目がそこではっきりと見たものは一体なんだったでしょうか。それは彼の前に立って彼の両眼に両手をつけて、彼の目を開いていくださった主イエス・キリストのお姿です。それはただ単に彼の肉の目が見たと言うことに留まらない、実はそこに彼が本当に主イエス・キリストが癒し主であり、救い主であられる神の子、まことの主であることを信じた、そういう主イエスとの真の出会いが起こっていたのです。私たちもまた主イエスの前に立って、御声を掛けていただき、御手をもって触れていただいて、私たちの堅く閉ざされた心の眼を開いていただいて、本当に見るべきもの、ただ一人の救い主イエス・キリストのお姿をはっきりと見させていただきたいと願います。

 



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