主イエスに出会った人々 その12  2007/07/15
『サマリヤの女』

ヨハネ福音書4:1-26

 今晩は、サマリヤの地での一人の女性と主イエス・キリストとの出会いを通して、心の奥深くにある飢え渇きを満たしてくださる主イエスのお姿に触れて行きたいと思います。

(1)目を留め、声をかけられる主イエス
今日の箇所は、いくつかの点で大変印象深い出来事が描き出されているところです。今日の出来事の舞台も、登場人物も、ことの推移も、そこで交わされるやりとりも、実にユニークな、そして大変深い霊的な事柄を扱っている、そんな箇所であると言えるでしょう。まず今日の出来事の舞台ですが、3節、4節に「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」とあり、9節後半には「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったのである」と記されます。ルカ福音書の「よきサマリヤ人」のたとえ話でも明らかにされているように、主イエスの時代、ユダヤとサマリヤの間には遡れば旧約の分裂王国時代にまで行き着くほどの根深い対立があり、両者はいわば犬猿の仲でありました。サマリヤが神の民の純潔を捨てて異民族と混血になったことをもって、ユダヤ人はサマリヤ人を宗教的な清さを失った民として見下すようになり、その反発からサマリヤ人もユダヤ人を敵対視するということが長年続いていたのです。そんなサマリヤの地に主イエスは足を踏み入れられたのでした。次に今日の登場人物であるこの女性も何かしら曰く付きの雰囲気が伝わってきます。6節、7節。「そこはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た」。炎天下の真昼の十二時に、立った独りで人目を憚るようにして水をくみに来るこの女性。恐らく他の女性たちが集まる夕暮れ時、それこそ井戸端会議に花を咲かせる時間帯に井戸にやって来ることのできない事情を抱えていたようです。後に15節から18節で明らかになるように、彼女は実にこれまで5度も結婚、離婚を繰り返し、そして今もまた夫でない男性と暮らしている。そこにはさまざまな事情があったのでしょうが、それでも人前に公然と出ることのできない後ろめたさを抱えて生きてきた、そんな女性であったのです。次にことの推移についてですが、もう一度7節を見ますと「ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください。』と言われた」とあります。つまり彼女のほうから主イエスに救いを求めたのではなく、主イエスから彼女に目を留め、声をかけられたということです。しかもそのやりとりは一読するとかみ合っているのかどうかもわからない不思議なやりとりから始まっていくのでした。しかしそれが彼女の主イエスとの出会いから救いへの始まりであったのです。

(2)渇きをいやし、まことの礼拝を求められる主イエス
 渇きを覚えて水を求められた主イエスがこの女にかけられた言葉はこうです。10節。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」。さらにその言葉の、特に「生ける水」という言葉の真意をはかりかねる彼女に主はこうも言われます。13節、14節。「この水を飲むものはだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」。このやりとりから見えてくるものがあります。のどの渇きを求めて「水を飲ませてさい」と彼女に声をかけられた主イエスですが、実は本当に飢え渇いているのは彼女のほうでした。彼女はしかしその心の奥深くにある飢え渇きをどのようにして満たしたらよいのか分からない。しかもその中心にあるのは愛されることへの渇きであったのでしょう。彼女がこれまで5度も結婚、離婚を繰り返し、今もなお男性とともにいるという現実が、彼女の中で飲んでもまた渇き満たされない姿を象徴していると言えるのです。しかし主イエスはそのような彼女の心の奥深くにある飢え渇きを見つめ、それを感じ取ってくださり、「わたしが与える水」を受け取るようにと導かれるのでした。
 19節以降のやりとりは一転してサマリヤ人の礼拝とユダヤ人の礼拝の話に転じていき、少し脈絡をとらえづらいところですが、実はこの飢え渇きを満たす生けるまことの神への礼拝の大切さを記すところです。彼女も一方では非常に落ち着かない生活を送っていましたが、その一方では宗教的な習慣は重んじて、サマリヤの神殿で礼拝を守っていたようです。この背景にもユダヤ人とサマリヤ人の対立があるのですが、ユダヤ人はエルサレム神殿こそがまことの神礼拝に相応しい場所であるとして、神の民としての純潔を失ったサマリヤ人を神殿から閉め出してしまいました。これに対抗してサマリヤ人はゲジリム山に自分たちの神殿を築いて、そこを礼拝の場所として定めていたのです。しかし主イエスは21節で「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない」と言われ、23節、24節では今こそまことの礼拝をささげる時が来ていること、その時の礼拝は形式や儀式的でなく霊とまことをもっての礼拝がささげられることを明らかにされました。つまり儀式的な礼拝を繰り返していても飢え渇きの満たされることの無かった彼女の前に立たれた主イエスは、本当の礼拝、私たちの飢え渇きを満たす真の礼拝とは、霊とまことをもっての礼拝であることをはっきりと示してくださったのです。
 では霊とまことの礼拝とは何でしょうか。25節、26節。「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです』」。このように、主イエス・キリストを礼拝すること。それこそが霊とまことをもっての礼拝だというのです。今目の前に立っているお方、このお方こそが本当のメシヤ、救い主キリストであられ、この方こそが本当の飢え渇きを満たし、私たちを救ってくださるまことの救い主、ただお一人礼拝を受けるに相応しいお方であられる。彼女が出会いを果たしたお方は、まさにこの救い主御自身であられたのでした。彼女はこの主との出会いによってその飢え渇きを満たされ、もはや人の顔を恐れ憚って生きる生き方をやめていきます。今日は読みませんでしたが28節、29節。「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか』」。そして39節。「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、『あの方は、私がしたこと全部を私に言った。』と証言したその女のことばによってイエスを信じた」。これがその何よりの証しなのです。

 



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