主イエスに出会った人々 その10 2007/07/01
『会堂管理人ヤイロと娘』

マルコ福音書5:21-24,35-43

 今晩は、主イエスと死んでいたのが生き返らせられた十二歳の少女、そしてその父、会堂管理人ヤイロとの出会いの経験を通して、人間の現実や常識を越えて神の現実、神の常識の中を生かしてくださる主イエス・キリストの姿に目を留めておきたいと思います。

(1)父親の切なる願い(v.21-24)
 21節から24節。「イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。『私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。』そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った」。今晩登場してくるのは会堂管理者、すなわちユダヤ教の会堂の管理を一手に引き受け、人々からの信頼や尊敬の厚い敬虔な信仰者ヤイロと言う人物です。彼には小さい娘、後に12歳の少女であると明らかにされますが、この最愛の娘が重い病いに罹って死にかけているというのです。ここでのヤイロは彼の社会的な立場や人々からの尊敬される人物といった評価とは全く関わりのない、何とかしてこの娘を助けてほしいとただひたすら娘の癒しを願う父親です。「足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願って」とは、他の訳では「必死に乞い願って」とありますように、その必死さが伝わってくる表現です。人目もはばからず、社会的な立場も脇に置いてひれ伏して願う父親の姿がそこにはあるのです。 しかしその一方で、ヤイロはただ闇雲に主イエスにすがっているわけではありません。彼はこれまで各地でなされた主イエスの御業を耳にしていたのでしょう。彼の言葉には彼が主イエスがどのようなお方でいらっしゃるかをよく知っており、その御力を信じていることが伝わってきます。「娘が直って、助かるように」とは他の訳では「娘が救われ、生きるために」となっていますが、これはこれまで主イエスが病人をお癒しになった際に語られた言葉でもありました。ヤイロは主イエスが人を救う力をお持ちのお方と信頼してひたすら願っているのです。

(2)人の常識、神の常識(v.35-40)
 35節から37節。「イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。『あなたのお嬢さまはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。』イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。『恐れないで、ただ信じていなさい。』そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった」。ところが、その願いが無惨に打ち砕かれるような結末が訪れます。ご存じのようにとばした25節から34節の間には、主イエスがヤイロの家に来る途中で起こった長血を患う女の癒しの出来事が起こりました。そのことだけを取り上げてみれば十二年もの間、病気に苦しむ女性が癒された喜ばしい出来事ですが、ヤイロの家族の心を察すれば、一刻も早く家に来てほしいのに、その途上で思わぬ足止めを食ったため、なんと娘は手遅れになってしまったという実に痛恨の出来事なのです。そしてここに人の常識と神の常識が交差する姿が浮かび上がってまいります。ヤイロの家の者はヤイロに告げて言います。もう娘は死んだのだ。いまさら主イエスを迎えることに何の意味があるのか。死を前にしては主イエスも無力であり、何の手を煩わすことがあるだろうかと。たとえどれほどの知者であろうと愛の人であろうと、この世の力を持つ者であろうと、死の現実の前では何もなす術はない。もう手遅れなのだ。ただその現実を受け入れるほかないのだ。これが死の現実を前にした人間の常識の言葉です。 しかし神の常識はそれをも覆すものでした。主イエスは言われます。「恐れないで、ただ信じていなさい」。さらに38節から40節。「彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中にはいって、彼らにこう言われた。『なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。』人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の共の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた」。神の常識から見た時、この娘は死んだのでなく眠っているのだと言われます。しかし人間の常識から見れば、そのような主イエスの言葉は「あざ笑う」ほかないばかげた言葉でありました。ここに信仰の世界の入り口を前にしての態度決定が求められてきます。神の常識と人の常識のどちらを選ぶのか。信仰の世界を歩むのか、またもときた人間の現実の中へと舞い戻っていくのか。その決断を導くのが「恐れないで、ただ信じていなさい」という主イエスのお言葉です。この人間の現実を前にしては信仰など気休めに過ぎないと嘲笑う声を前にして、主は私たちに「恐れないで信じなさい」と語りかけてくださる。後ろに後ずさりしてもとの世界の中にあきらめつつ帰って行くのではなく、ただ主に信頼して前に進めと招きの声をかけてくださるのです。

(3)いのちの主の勝利(v.41-43)
 この主の招きにしたがって信じる時、そこに主の御業はあらわれます。41節から43節。「そして、その子どもの手を取って、『タリタ、クミ。』と言われた。(訳して言えば、『少女よ。あなたに言う。起きなさい。』という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた」。ここでの書き方で興味深いと思われるのは、病いの果てに息を引き取ったはずの娘が、主イエスに「起きなさい」と御声をかけられた時に「すぐさま起き上がり、歩き始めた」というこの驚くべき奇跡の出来事を記しながら、少女が起きあがり、歩き始めた理由を「十二歳にもなっていたからである」と説明しているところです。つまり、この少女は十二歳なのだから、起き上がって歩くのは当たり前ではないか、と、彼女が起きあがったのはさも当然のことであるかのように記しているということなのです。ここに人間の常識を越えて働かれる驚くべき現実が、実は私たちには非常識に思えても神の常識なのだという恵みの現実が示されているのです。この神の現実に生きる者とするために、主イエスは今日も私たちを招いていてくださいます。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。その招きに応じて信じる者として歩み出していきましょう。

 



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