「マケドニヤの叫びに応えて」
教団派遣台湾宣教師 斉藤五十三師

使徒16:1-10 

1. 道を閉ざす神
a. 聖霊が禁じた?!
 6節「みことばを語ることを聖霊によって禁じられた」とは、ある意味、驚くべき一言だったと思います。使徒の働き2章で3000人もが悔い改め、キリストの弟子となっていった。それを皮切りに、怒涛のように福音が前進していく。そのようにいろんなことが前向きに展開していくように見える使徒の働きの中で、今お読みした6節は意外な響きを持っていたと思うのです。もちろん、7-8章の迫害とか、12章のヤコブの殉教など等、これまでにも逆境はありました。しかし、こと御言葉の宣教に関しては、これまで滞ることはなかった。そういうこれまでの流れを思う時に、この6節は意外です。しかも御言葉を語ることを、人ではなく、何と聖霊、神ご自身が禁じた。これはどういうことなのだろうと、思わず考えさせられてしまう。

b. アジヤもビテニヤも
 6節で言うアジヤとは、今で言うトルコのおそらく南の地方を指すものと思われます。とすれば、このすぐ前にパウロ一行が訪れたイコニオムの町からも近く、私たちから見ても当然、次に向かうはアジヤと思われるのですが、どういうわけか、そのアジヤへの道は閉ざされていく。どういうわけか、、。
 さて、アジヤつまりトルコ南部への道が閉ざされた一行は、それならばと今度はビテニヤ、つまりトルコの北を目指そうとします。南が駄目なら北というのも、当然の選択であったでしょう。されど、どういうわけか、そのビテニヤへの道もまた続いて閉ざされていくことになる。

 この箇所は、実は何かと謎の多い所です。まず第一、パウロ一行の計画がどのように禁じられ、閉ざされたのかがよく分かりません。それがハッキリと、直接神によって禁じられたと分かる方法だったのか。それとも神によるとは、すぐには分からない方法だったのか、これもハッキリしない。さらに6節では聖霊によって、7節ではイエスの御霊によってと書き分けられているのも謎です。6節と7節では禁じ方が違っていたのかな等と、いろんなことを考えさせられてしまう。

c. 心に留めておくこと
 ただ、そんな謎の多い中にあって、一つハッキリしていることがあります。それは私たちの神が、時に、道を閉ざすお方なのだというこのこと。人が、神によって禁じられたとハッキリ気づくかどうかは別にしても、私たちの神は道を閉ざすことのあるお方。これは心に留めておくべき事でしょう。なぜなら、思いがけなく道を閉ざされた時、人は多くの場合落胆するもの。特に良いこと、正しいと思われる計画が思いがけずストップした時、人は、心を揺さぶられる。「なぜ、どうして」と悩み、疑い、さらには神への不信から後ろ向きになる人もあるでしょう。道が閉ざされ、足踏みさせられる時、人と言う生き物は意外と脆くて弱い。それゆえ神が道を閉ざす事のあるお方と知ることは、私たちの人生、或いは信仰生活に、大きな違いをもたらすと信じるのです。

 台湾に遣わされて早九年目を迎えました。私も度々、道を閉ざされるような経験をして来ました。行ったばかりの頃、私の属するTEAM宣教団が六十年もの間宣教をしているにもかかわらず、生み出された教会がわずか三十程度という事に気づき、自分の使命は教会を生み出すことと、そのように言い聞かせて働きを始めました。しかし、すぐに難しさが見えて来ます。まず宣教団には、昔のような、次から次へと教会を建てていった経済力が、今はなくなっていたのです。また過去の失敗から、宣教師が単独で教会を開拓することも許されなくなっていました。つまり今は、台湾現地の教団、教会を励まし動かさなければ、教会を生み出すことはできない。実は、これが根気の要る、実にタフな仕事です。
 一教会の平均の教会員数が30~40人と思われる台湾の教会です。多くの教会は、自給自立に精一杯、広く台湾全体の宣教を考えることが難しい。これまで教会開拓のビジョンがあるというので、愛家という教会と五年、竹子坑教会と三年協力して来ましたが、開拓の話が出るたびに、教会の中から反対の声が上がりました。計画は足踏みを続け、愛家教会では計画自体いつしか消滅。竹子坑教会では、この六月にやっとスタ−トしましたが、これまで三年間、何度も道を閉ざされそうになりながらの難産でした。外国人である私と家内は、しばしば文化と言葉の壁に阻まれ、そんな中、私も度々気持ちが後ろ向きになったものです。本当に神は働いておられるんだろうかと心の中で疑いながら。
 そんな自分の弱さに照らしても思う。神が道を閉ざすことのあるお方と知ることは、私たちの信仰生活に違いを生み出していく。

2. 導きを求めて
 アジヤへの道、そしてビテニヤ。これらの道を二度にわたって閉ざされたパウロ一行が、それをどのように受け止めたのか。そうしたパウロたちの反応は、ここには殆ど記されていません。パウロが心に何を思ったか。これもまた、この箇所における一つの謎と言えるでしょう。

a. 人生の縮図
 しかし一つだけ分かることがある。それは彼らが、道を閉ざされながらも、御言葉を語る場所を求めて、前に進もうとしたというこのことです。とにかく前に!道が開かれる所を求めて進もうとした。
 こうしたパウロ一行の姿は、ある意味、私たちの人生の縮図ともいえるものです。閉ざされても、躓いても、それでも神の導きを求めて前に、前に!そんな彼らの姿は、信仰者の生き方がどのようなものなのかを物語っているのかもしれない。

 私は今、人生の縮図と申しました。しかし中には、この短い聖書箇所を読みながら、計画の躓きと言っても、わずか数日のことであったろうに、それを人生に重ねるとは少し大げさと、そのように感じた方もおられたかもしれない。実は私が最初そう思った。しかし後で気づきました。一行がこのすぐ前に訪れた町イコニオムから、導きを求めて辿り着いたトロアスまで、道のりにして何と800キロ。東京から山口県にいたる長さです。長い。実に長い!人が一日に歩ける距離は頑張って30キロと言われます。加えて、次に道が開かれる所を求めながら旅したパウロ一行の様子を思えば、彼らは間違いなく一月以上、或いはふた月、いやそれ以上、導きを求めて歩き続けたのではないかとも思われる。
 そうした旅路の中、そこでは多くの祈りが積まれたことでしょう。そして、一行は学んだにちがいない。人の思い描く計画には限界がある。事を大きく動かすのは、やはり神ご自身に他ならないと。
 パウロに限らず、信仰者は誰しも、実はそれぞれに人生のトンネルをくぐるような経験を重ねながら、こうしたことを学ぶようにと期待されているのだろうと思います。そう、道を閉ざされた時にも学ぶべきことはある。いや、道を閉ざされた時にしか、学びえないこともあるでしょう。

b. 人は意外に導きを求めず
 しかしながら、私たち人間の実際はどうなのか。道を閉ざされ、足踏み、挫折を繰り返す時、信仰者と言えど、人というものは実は意外なほど忍耐がない。思ったほどには、神の導きを求めない。むしろ目の前に困難があると、自分の解釈を加えて、後戻りしようとすることが何と多いものなのだろう。出エジプトの民を思い出してください。行く手を海に阻まれ、追い迫るパロの軍勢におののきながら、彼らは何と叫んだか。エジプトで奴隷だった方がましと自暴自棄になったように。また荒野で飢え乾いた時には、「エジプトに帰りたい」と後ろ向きになったように。人という生き物は、困難の中、意外なほどに神の導きを求めようとはしないものなのかもしれない。

c. 足踏み、挫折の中にも導きが
 しかし、本日の箇所が語る、道を閉ざす神の姿は、そうした後ろ向きとは違う、別の生き方を私たちに励ましています。足踏みや挫折の中にも、実は、神の導きは働いているのだと。道を閉ざすという、人の目には否定的と思える状況を通しても、神は人を導くお方。
 覚えておいて下さい。私たちの計画は、たとえ如何に思慮深く準備されても、必ずしも御心にかなっているとは限らない。だから、あらゆる状況の中、それこそ道を閉ざされた時には、いよいよ神の導きを求めていく。そんな忍耐と謙遜を、私たちは人生の旅路の中で身に着けていく必要があるでしょう。そう、困難の中でこそ、前を向き、導きを求めていくのです。

 台湾に渡って二年目、私は病気をしました。異文化のプレッシャ−から胃潰瘍になり、気力も失せ、語学学校に通えなくなってしまった。宣教師にも不登校があるのです。日本に帰国療養、不眠のため心療内科を受診すれば適応障害と診断された。それは宣教師としての旅の途上で足止めをくらうかのような経験でした。そうした中での私は弱く、本当に弱く、毎晩のように家内に「宣教師をやめる」とこぼした。私は今、振り返って思うのです。あの時の私は、神ではなく自分の努力を信じていた。努力は報われると単純に信じていた。だから挫折の時に耐えられない。弱さの中で私は、最初、神の導きを求めることがなかなか出来ませんでした。
 人の努力や計画では、道が開かれないことがあります。しかしながら閉ざされた時に、それでも前を向き、神の導きを求めることを思い出したとしたら、その人は幸いな人であると。そして、そのように導きを求める人の目の前に、神は思いがけない道を用意してくださることでしょう。

3. マケドニヤの叫び
 9~10節に目を留めましょう。
 「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください!」これは一般に、マケドニヤの叫びと言われます。私たちはここに、真剣に人生の救いを求める、深い魂の叫びを聞き取っていかなければならない。これは深い、魂の奥底からの叫びでした。

a. 思いがけない場所
 しかし、それにしてもマケドニヤとは、思いがけない場所でした。マケドニヤは、パウロの滞在するトロアスから、海を渡った向こう岸、今のヨ−ロッパの入り口にあります。しかし、私たちが今日ヨ−ロッパに抱くのとは違う印象を、この時代の人々は、マケドニヤに対して抱いていたよう。古い時代の文書には、マケドニヤは野蛮な土地と記され、決して魅力的な場所ではなかった。しかし、そのマケドニヤから聞こえて来た魂の叫び。
 「神はなぜ時に道を閉ざすのか」。実はその答えがここにあります。それは、人には思いもよらない道を開くため。実に、この叫びに応えて踏み出したパウロたちの、この時のこの一歩を足がかりに、福音は全世界へと広がっていくのです。そう、人の思いをこえた所で新たな道を示すため、神は時に、人の計画をとどめる。だから足踏みの後、もし道が開かれなたら応えたいと願います。導きの手に委ねて、信仰をもって踏み出していくのです。そこにはあなたを必要とする人が必ずいる。そして神もまた、踏み出すあなたを励まし、必ず支えてくださることでしょう。

b. 速やかに応える中、新たな仲間も
 10節では、神の導きと信じて、速やかに一歩を踏み出していく。そんなパウロ一行の軽快なフットワ−クが印象的で、何とも目を見張る思いです。でも、そうなんでしょう。導きを求め続けた人の応答というものは、道が開かれた時には、このように軽やかなものなのだろうと思います。
 しかも、気づきましたか。このように導きに応えて踏み出した彼ら一行に、神は新たな仲間を加えてくださいました。10節「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちに」、これまで「彼ら」だったのが、「私たち」と10節から、いつの間にか「私たち」一人称複数になっていく。よく英語でWe section と言います。控えめで目立たないながらも、誰かがここでパウロの旅路に加わったのです。それは使徒の働きを記したお医者さん、ルカその人でした。ルカは声高々に自分をアピ−ルして加わったわけではありません。控えめに、目立たぬ形で。しかしパウロにとっては、生涯の同労者となるルカが加わった事は、百万の味方を得た思いであったでしょう。

c. 粋なタイミング(神の時)
 目立たないながらも、海を渡るその一歩を踏み出す時に、新たな仲間が加わっていった。これは人が演出できるタイミングとは思えない。これこそは、導きに応えた一行にエールを送ってくださった。そんな神さまの粋な計らいであったのでしょう。

 竹子坑教会で足踏みした三年を経て、新たな開拓の道が開かれました。足踏みと思えたこの三年も、実は意味のある月日であったと最近になって気づきました。この三年、竹子坑教会の現場に身を置きながら、台湾の牧師と苦楽を共にする中、心通わし、私自身が小さな同労者ルカとなれたような思いです。 加えて、もう一つの喜びは、妻千恵子の姿です。三年の間、我が家の子どもたちは成長し、前は家の事に忙しかった千恵子も、今は奉仕に多くの時間を割くことができるようになりました。千恵子は今、教会の学童保育を通じ、貧しい家庭に育った、いろんな傷を抱える子どもたちに聖書を教えています。むろん苦労はあります。それでも「私はこんな働きがしたかった」と生き生きと励む千恵子。三年を経て、私にも同労者ルカが傍らにいたことを再確認したような、そんな思いを今、静かに噛み締めています。

結論
 道を閉ざす神は、新たな道をこうしてパウロの前に開いていく。もちろん、開かれた道に踏み出した後、パウロは決して順風満帆の歩みを続けたわけではありません。16章以下の道のりが、むしろさらに険しいものとなっていくことは、皆さんもご存知であろうと思います。
 しかし、これだけは伝えたい。神の導きに応える人生には、必ず喜びがあるのだと。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え」たと、人生最後の手紙でパウロが充実感をもって書き残したように、神の真実ゆえに、その導きに応えて踏み出す人の人生には後悔、悔いるということが、ないことを信じて欲しい。マケドニヤに踏み出した小さな一歩もまた、そんな神の手の中にある人生の中の、意味ある一歩であったのでした。
 道を閉ざす神は、また道を開くお方であった。私たちも、そのように、御手の中にある人生を、今日も明日もひたすらに前に歩んでいきたいと願います。お祈りします。

 

 



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