2016/11/13
「信仰を継承する使命」

テモテへの手紙第二3:14-17

 本日は、礼拝の中で子ども祝福式がもたれます。神様がこの教会に預けてくださっている子どもたち一人ひとりの成長を喜び、感謝し、また、神様がますます子どもたちを祝福してくださることを祈ります。普段は中々子どもたちと触れ合う機会がない方もいらっしゃると思いますが、是非このとき、一人ひとりの顔と名前を覚えて、ともに心あわせて祈りたいと思います。
 また、同時に、この子ども祝福式は、子どもたちだけのためではなく、ここに集う大人たちも含めた教会全体のための式でもあります。それは、この式が、私たちにとって子どもたちを愛し、信仰の継承者として育む教会の使命と責任を確認する時でもあるからです。このとき、ここに集う幼い子どもたちの一人ひとりが、神が私たちに任されている魂であることを、もう一度、深く受け取っていきたいと思うのです。
 本日の説教題は、「信仰を継承する使命」としました。ともにみことばから、私たちに与えられているこの使命を受け取っていきたいと思います。


1.契約の子、主にあるわが子として
 まず、始めに考えたいのは、教会にとって、子どもたちがどのような存在なのかということです。
 創世記17章で、神がアブラハムと祝福の契約を結ばれた時、神はアブラハムに「あなたとあなたの後のあなたの子孫との間に」契約を立てると言われました。その神様との祝福の契約は、アブラハムの子孫、イサク、ヤコブと世代を越えて受け継がれていきます。彼らは、まさに「契約の子」と呼ばれるにふさわしい存在です。
 それは、ヤコブの子孫がエジプトに移り住み、奴隷となってからも変わらなかった。神様はこの契約を思い起こし、彼らをエジプトの手から救い出されました。そして、主は、その出エジプトの民に契約のしるしとして律法を与えらます。そして、その律法の中で語られたのが、契約の子らに律法を教え、育てるようにというものでした。
 申命記6:4-7「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」
神様は、イスラエルの子どもたちを祝福の契約のうちに入れられるからこそ、その子どもたちに律法を教え、育てるように命じられました。神様は、一部の人々、一つの世代だけと契約を結んで、それで終わりという方ではありません。その子、その子どもの子ども、そのまた次の世代へと、世代を超えて、神様とともに歩む共同体が築かれることを願われた。先に主との契約のうちを歩む者は、次の世代へとその契約を継承していくことが望まれたのです。
 それは、イエス キリストによる新しい契約の民である教会に対しても変わらない神の願いです。イエス キリストの十字架と復活を信じる者たちは罪赦され、神と和解し、新しい祝福の契約を受け継ぐ者となります。そして、教会は、かつてのイスラエルがそうであったように、イエス様による新しい契約を、神様との祝福の関係を、次世代に受け継いでいく使命を負っています。
 その使命を最もはっきりと示しているのが、今朝開かれたテモテへの手紙第二であると私は思います。テモテへの手紙は、使徒パウロがその弟子である若き伝道者テモテに送った手紙です。テモテ1:2で、パウロは、テモテのことを「愛する子」と呼んでいます。また、・コリント4:17では、「主にあって、わたしの愛する忠実な子」と呼びます。テモテとパウロには血のつながりはありません。しかし、パウロとテモテの関係は、キリストへの信仰によって親子と呼べるほど、強く結ばれた関係でした。テモテにキリストの福音を伝え、信仰へと導いたパウロにとって、テモテは、まさに、主にあって愛するわが子だったのです。
 もちろん、聖書は、子どもの教育に関する両親の使命と責任を第一に語っています。しかし、パウロとテモテがそうであったようにイエス様によって結ばれた関係は、肉親関係をも超えていくものです。パウロがテモテを導き、育てたように、教会にも、子どもたちを信仰におけるわが子として愛し、教え、育てることが望まれています。
 私自身も、牧師の子どもとして、この教会の信仰の家族によって育てられ、信仰を継承させてもらった一員です。私が小さいとき、牧師夫人である母は、礼拝の時間も様々に気を配って表に裏に動き回らなければならなかったそうです。結果、幼い私は、礼拝中ひとりで過ごすことも多かった。そんな私の姿を見たある姉妹は、「このままではけんちゃんがグレてしまう」と思ったそうです。アメリカの教会で信仰を持ったその人は、向こうで牧師の子どもたちが教会に反発を覚えて離れていく姿をたくさん見てきたそうです。そこで、その姉妹は、もう一人の別の姉妹に「けんちゃんと一緒に礼拝を守ってあげてください」とお願いをして、翌週からそのお願いされた姉妹が私と一緒に礼拝を守ってくださったそうです。今では、その時期のことをあまり覚えていないのですが、私はその姉妹の助けの中で礼拝の空気を吸い続け、賛美歌のメロディや主の祈りの言葉、使徒信条の言葉を覚え、礼拝に出ることに違和感を感じることなく、成長することができました。そして、やがてイエス様を自分の主として受け入れる準備ができていった。その姉妹は今も私のことを「自分の孫だ」と言って、私のために祈り続けてくださっています。
 今も、ここで多くの子どもたちがともに礼拝を守っています。この子たちは、みな、神様が私たちの教会全体に「わたしのもとへ連れてきなさい」と言っておられる子どもたちです。あなたが受けた恵みを受け継がせるようにと託してくださっている子どもたちです。子どもたちの魂のために祈り、両親を支え、信仰を継承するつとめをともに果たし続けたいと思います。


2.確信につながるもの
 第二に確認したいことは、信仰の継承はどのようになされるのかということです。第二テモテ3:14には、このように記されています。・テモテ3:14「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」
 主にある愛するわが子テモテに、パウロが勧めたのは、「学んで確信したところにとどまる」というものでした。確信にいたる学びが、あなたにはあったはずだ、そこに留まり続けなさいと語るのです。では、その確信にいたる学びとはどのようなものだったか?
 14節後半から15節「あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」
 パウロが、テモテに思い起こさせるのは、その確信にいたる学びを「どの人たちから学んだか」ということと、「幼いころから聖書に親しんできたこと」でした。
 テモテに福音を伝えたのは、誰でしょうか?それは、パウロと2人の女性でした。第二テモテ1:5には、テモテの祖母ロイスと母ユニケが、純粋な信仰の持ち主であったことが記されています。パウロは、そこで彼女たちの純粋な信仰と同じ信仰が、テモテのうちにもあると、テモテを励ましています。
 それにしても、パウロがテモテに、彼に福音を教えた人物を思い起こさせているのはなぜでしょうか?教わった内容だけでなく、誰から教わったかに注目させている。このことは、とても意味深いことだと思います。テモテが、確信にいたるためには、パウロとロイス、ユニケから教わることが重要だった。それは、彼らが、福音を語るだけでなく、その福音に生きる人たちだったからではないでしょうか?
 ユニケの夫、つまり、テモテの父親は、ギリシャ人であったことが使徒の働き16章に記されています。彼女は、異教徒である夫と生活しながら、テモテに聖書を教えていました。そして、彼女自身もまた、パウロからもたらされたキリストの福音に純粋な信仰をもって応答した女性だった。それが、どのような姿だったかは細かく記されていません。しかし、今以上に家庭における男性の権利が強かった当時の時代において、それが決して簡単なことでなかったことは想像がつきます。夫との関係や、夫の家族との関係の中で、何を語ればよいか、どう振る舞えばよいか悩むこともあったはずです。誤解を受けたり、どうしても対立しなければならないこともあったかもしれない。しかし、そんな中でも純粋な信仰に立ち続けた彼女の生き方が、テモテの信仰の確信に大きな影響を与えたのです。

 そして、それは、テモテの信仰の父パウロも同じでした。・テモテ3:10-11でパウロは、テモテと出会った頃のことを振り返りながら、こう語ります。「しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。」
 この時のことを記す使徒の働き13-14章では、パウロがテモテの出身地ルステラに初めて入ったのは、アンテオケとイコニオムでの激しい迫害から逃れてのことだったと記されます。しかも、このアンテオケとイコニオムでパウロたちを迫害した人々は、そのルステラにまでパウロを追いかけ、石打ちにし、半殺しにして、町の外に引きずり出したという衝撃的な出来事が14:19に記される。それでも、一命を取り留めたパウロは、しばらくしてルステラに戻り、信じた人々を励ましました。テモテがイエス様の福音を受け取ったのは、このような壮絶な迫害に耐えながら、それでも主の救いを喜び、福音を語り、人々を励ますパウロと出会いを通してだったのです。
 さらに使徒の働き16章では、パウロがテモテを初めて伝道旅行に連れ出したときのことが記されています。その旅でパウロは、何度も行きたいと思った道を閉ざされ、やっと開かれたと思えた場所で迫害され、牢獄に捕らえられます。神様が示してくださったみこころの宣教地であるはずの町で、彼らは投獄されることになったのです。ところが、その夜、大きな地震によって牢屋が破壊されます。それは、パウロたちにとって逃げ出すチャンスでした。しかし、彼らは、彼らを見張っていた看守に責任を及ぼさないようにそこに留まり、むしろ、その看守に福音を伝えたのでした。神様のみこころを求めて歩き回り、何度も道を閉ざされ、そうしてようやく開かれた場所でも、また試練を経験する。テモテが初めて同行した伝道旅行は本当にハードなものでした。しかし、彼はそこで、それでも神様のみこころを求め、神様がなされる救いのわざに信頼して歩み続ける信仰の父パウロの姿を見たのです。
 信仰の継承は、何よりもその信仰に生きる姿を通してなされます。子どもたちを教え、導く私たち自身が、何よりも福音を深く受け止め、その福音に生かされていくことが問われるのだと思います。それは、おそらく、どんな時も勇ましく正しくあることではないでしょう。それは、パウロのように、みこころを求めて歩き回り、迫害や苦しみを経験しながら、忍耐し続ける、ある意味で情けなく見える生き方なのかもしれません。しかし、その苦しみの中にキリストにある平安を見いだし、愛と赦しを選び取る姿は、確かに子どもたちに対する福音の証となっていくのです。

 では、テモテを確信へと至らせた学びのもう一つの側面、「幼いころから聖書に親しんできた」という部分は、どうでしょうか。このことも、ロイスとユニケの教育によるところが大きかったのでしょう。「親しんできた」と訳されるギリシャ語は、「精通してきた」「熟練してきた」という意味です。当時は、まだ新約聖書の大部分が書かれていませんでしたから、ここで言う「聖書」とは、今で言う旧約聖書を指します。テモテは、パウロの目に適うほど、深く旧約のみことばを理解していました。
 そして、その深い理解は、彼がイエス キリストの福音を理解する基盤でもありました。パウロは、「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」と語ります。旧約聖書とパウロが教えたキリストの福音。その全体が、テモテにとって確信にいたる学びとなったのです。
 クリスチャンホームに育った子どもたちの中で、「自分には劇的な救いの経験がない」と言って洗礼を受けることをためらうことがよくあります。イエス様を信じるまでの証をしなさいと言われても、話すことがない。大きな挫折体験や、激しい反抗や不良生活の後にイエス様を信じて人生が変わったとかがあれば、証しやすいのかもしれないけれども、そういうのがないんですね。かく言う私も、幼い頃、そんなことを考えていました。余りにも波風立てずに教会に通い続けていて、このままで自分は本物のクリスチャンになれるのかと自信が持てなかったのです。とりあえず、一旦、教会を離れて、何か大きなことがあったら、救いの確信が得られるんではないかと、心の奥で計画していた時期もありました。
 しかし、そんな私がキリストの福音を本当に信じられたのは、改めて旧新約聖書全体を学ぶ中で、自分の罪深さについて、そんな私のために死なれたキリストの十字架について、そして、キリストとともに生きる人生にある希望を受け止め直す機会が与えられたからです。劇的な証ではありません。地味で、面白みに欠ける経験だと思います。
 しかし、どんな劇的な経験にも増して、神が語られたみことばに捕らえられる経験は、尊いものです。ゆるがないものです。みことばから来る確信以上に、一人ひとりを信仰に堅く立たせるものはありません。今、もし、この中で、かつての私のように劇的な証がない自分に自信をもてないという子どもたちがいるとしたら、そういう経験があるかないかを気にするのではなく、今もあなたに語り続けておられる神様のみことばをしっかりと聞き続けることを大切にしてほしいと思います。私たちが心から求めてみことばを聞き続けるなら、神様は必ず私たちの心を捕らえてくださり、確信を与えてくださいます。もう何回も聞いたと思うみことばであっても、日々、神様は新しく私たちに語りかけてくれています。その神様に期待を持って、耳を傾けていってほしいと思います。そして、また、私たち大人も、子どもたちに、みことばを語ることを諦めないようにしたいと思います。子どもたちが、「みことばに親しむ」機会を大切にしていきましょう。一緒にみことばを聴き、一緒に祈る時間を大切にしましょう。大それた武勇伝や特別な経験ではなく、教えられたみことばを分かち合う堅実な交わりを築いていきましょう。みことばを通して働かれる聖霊は、子どもたちのうちに、そして、私たちのうちにある信仰の確信を、さらに強く、大きくしてくださいます。


3.神の人として整えられる
 最後に確認したいのは、信仰の継承の最終目標です。信仰の継承の最終目標。それは、新しい生き方を築き上げることです。
 パウロは、3:16、17でこう語ります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
 15節では、聖書がキリストへの信仰を起こさせるものだと言われますが、ここではそれだけではなく、さらに聖書が「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」だと言われます。それは、要するに聖書が私たちに神が何を望んでおられるか、また、何を忌み嫌われるかということを教えるということ、そして、その教えに基づいて私たちの生き方を変えていく力をもっているということです。聖書が語るのは、心の中だけの問題ではなく、また、遠い昔話でもありません。聖書は、私たちの今、目に見える生き方を変える力をもっているのです。
 それは、「矯正と義の訓練」と言われるように、ある厳しさを味わう変化です。聖書を通して、自分の罪や弱さ、不信仰が露になり、打ちのめされるということがたくさんある。しかし、そこから、また、赦しと回復のみことばによって立ち上がらされ、神様の前に整えられていくのです。17節の最後には、それが「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた人となるため」と言われます。「十分に整えられた者となる」とは、完全となるという意味の言葉です。「完全」とは、あまりにも高い目標に思えますが、パウロは、みことばに変えられていく歩みに、その大きなゴールへ向かう確かな喜びを見ていたのではないでしょうか。
 パウロが、こういう風にみことばは人の生き方を変えることができるという確信をもっているのは、何よりも彼自身がみことばによって変えられている人だからだと思います。彼は、みことばを繰り返し聴き、そのみことばに生きる人生の中で、みことばによって変えられる喜びを知っていった人だった。彼は、この世のどんなものよりもすばらしいキリストの救いの喜びを知った人でした。そして、捨ててしまいたいと思っていたはずの弱ささえも、イエス様が用いてくださる喜びを知った人でした。そして、イエス様が愛したように兄弟姉妹を愛し、人々とともに喜び、ともに悲しむ心を与えられていった人でした。その変えられていく喜びを知るからこそ、彼はここで人の生き方を変え、新しい生き方を築くみことばの力をテモテに思い起こさせているのです。
 私たちも、このみことばによって変えられていく喜びを子どもたちに伝えるものでありたいと思います。悔い改めと回復の小さな一歩一歩を、神様が示してくださる大きなゴールに向かって着実に進んでいく。そこに神様が築いてくださる新しい生き方がある。そのことを分かち合い、子どもたちとともにそのゴールへの道筋を歩む者とされたいと思います。

 今朝、ともに私たちの教会が与えられている「信仰を継承する使命」について、みことばに聞いてきました。信仰に生き、みことばを語り、自分自身もみことばによって変えられながら、子どもたちをイエス様の元に連れて行く私たちとされたいと思います。



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