朝拝(十戒講解10) 2006/11/26
『あなたの隣人とともに』

出エジプト20:16-17

 今朝は、第九番目の戒めと第十番目の戒めを通して、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」との御言葉と照らし合わせながら、主なる神が私たちと共に生きるようにと備えてくださった隣人との関わりについてともに教えられたいと願います。

(1)まことの証人として
 人と共に生きるということが時に煩わしいと感じることがあるのではないでしょうか。だからといって私たちは一人で生きることはできないのですが、それでも時々、人との関わり、言葉の交わし合いすらも面倒だと感じることがないわけではない。人間関係に疲れるということは大人だけではなく、子どもたちの世界にも多くあるでしょう。世間を騒がせているいじめの問題も、いじめる側といじめられる側はいつでも入れ替わりうる、あやうい人間関係の表れとも言われます。私たちとても、いろいろと触れられたくない事柄を詮索されたり、よかれと思ってしたことが誤解されたり、いわれのないうわさや中傷、時には悪意に満ちた嘘や偽りで傷を受けたりと、そういったさまざまな出来事の中に日々を送る中で、ああ、人との関わりは面倒だと思うことがあるのではないかと思うのです。しかしその一方で、孤独の中でとなり人からかけられるほんの一言の言葉で慰められたり、励まされたりと言うこともあるでしょう。送った側は、そこまで深く思い定めてということでなかったとしても、いやむしろそういう言葉が時に、絶望の淵から私たちを引き戻す大きな慰めとなることがあるのです。いずれにしても、今日、私たちがここに集まっている中にも、そのようにして人と人との関わりで傷ついたり、疲れたりしている方がおられると思います。しかしそのような方々にも今朝、主は親しく語ってくださる。わたしが生きるのであなたがたも生きる、と言われる主イエスが、私たちと共に生きるようにと与えていてくださる隣人と、どのようにして生きるのかを、今朝、この御言葉から聞いていきたいと思うのです。
 あらためて16節と17節をお読みします。「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」。今日取り上げるこの第九戒と第十戒は、もう一度私たちが主なる神の御前での人と人との関わりということを考えるに際して、何か抽象的な不特定多数の人々のことを思い描くというのではなく、極めて身近で具体的な存在、日々私たちが生活をしていく時に、私のすぐ傍らにいる隣人の存在ということに私たちの目を向けさせる戒めだということに気づかされます。そこでまず最初に今朝もハイデルベルク信仰問答の第九戒に関する解説を読んでおきたいと思います。「第112問:第九戒では何が求められていますか。答え:私が誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。かえって、あらゆる嘘やごまかしを、悪魔の業そのものとして神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、正直に語りまた告白すること。さらにまた、私の隣人の栄誉と威信とを私の力の限り守り促進するということです」。このように信仰問答はこの戒めの心を、隣人に対して陰口を言ったり、中傷したり、調べもせずに人を軽率に断罪する事として受け取っています。このことで私たちが思い起こすのは、あの受難の時に主イエス・キリストが受けられた裁判の光景です。マタイ福音書26章の終わりにこう記されています。「さて祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。偽証者がたくさん出てきたが、証拠はつかめなかった」。主イエスは十戒に対して最も厳格であったはずのユダヤ議会において、その戒めを侵す偽証だらけの裁判によって十字架刑の判決を受けられたのでした。このように主イエス・キリストも人の言葉の不真実や裏切りによって傷つく経験をなさっていたのです。だからこそ、主は私たちの心の痛みを知っていて下さるお方でもあると言えるのです。

(2)愛をもって真理を
 では、今日の戒めは私たちに何を教えているのでしょうか。言葉を語れば結局こうして傷を受けたり、与えたりすることになるのだから、いっそ黙って一言も語らずにいようということを勧めているのでしょうか。そうではありません。偽りの証言をしない、ということが積極的にはどのような意味を持つのかということについて、信仰問答は「真理を愛し、正直に語りまた告白すること。私の隣人の栄誉とを私の力の限り守り促進すること」と教えています。偽りを語ることの対極に置かれるのは偽りを「語らない」ことではなく、「真理」を語ることだと言われるのです。真理を語ること。正直に誠実に、しかもパウロによれば「愛をもって真理を語る」こと。それがこの戒めを自由の道しるべとして生きることの表れということなるのであり、隣人に対して偽りの証言をしてはならないという戒めは、さらに踏み込んで言えば、主の御前に生かされている隣人に対して、愛をもって真理を語ることへの促しとなるのです。この場合の鍵となるのは「隣人への愛」ということでしょう。すなわち「真理はつねに、いつでも具体的な状況において、当惑している隣人の事情を考えて探求され、証言されるもの」であって「愛へと向かう方向付けの中にある」ということです。愛のともなわない真理の言葉はしばしば冷たく人を断罪する言葉になるでしょうし、真理の込められていない愛の言葉は、しばしば人を誤った道に進ませるものです。真理と愛がともに満たされる言葉、人を裁く言葉ではなく人を生かす言葉を、人を倒す言葉ではなく人を建て上げる言葉を、耳障りがよくても滅びに進ませる言葉ではなく、その時には痛みがあっても永遠の救いに導く真理の言葉を、私たちは人々との関わりの中で語るように、そのように生きるようにとこの戒めによって今朝促されているのです。
 このことは、神を愛し、隣人を愛するというマタイ福音書22章で主イエスが教えてくださった最高の戒めを、この地上にある日々の営みにおいて、もっとも具体的な日常生活において生きる道です。そこには知恵が必要ですし、また深い人間理解や事柄の本質に対する洞察が必要です。簡単に人にレッテルを貼ったり、誰かの噂や憶測で人を裁いたり、あるいは語るべき時に沈黙したり、見て見ぬふりをしたりということであってはならない。実に思慮深く謙遜に、単純で表面的な二者択一的な価値判断に陥らず、絶えず隣人の視点で自らの考えや言葉を顧みる姿勢が必要とされるでしょう。ですから私たちはこの戒めをしっかりと握りしめて、その時その時、その場その場で出会う具体的状況に対して一つ一つ誠実に、粘り強く強く、正直に向かい合いながら、主イエス・キリストの愛によって真理を語ることを願い求めていきたいと思うのです。

(3)満ち足りる心を
 最後に、第十戒を学んで終わりたいと思います。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」。十戒最後の戒めは、殺人、姦淫、盗みから偽りの証言、そして隣人の家を欲しがるという貪欲の罪へと進んできます。「隣人の家を欲しがること」、これは他の日本語訳聖書が「むさぼってはならない」と訳すように、私たちの心の奥底に潜む貪欲を指しています。そしてこの戒めが最後に十戒の最後に来ているのは、実はこの心の中に巣くうむさぼりが、やがて外側の罪へと結実することを聖書が見据えているからなのです。主イエス・キリストもマタイ福音書15章で次のように言われました。「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです」。隣人の家を欲すること、それは単に隣人の所有物や財産にとどまらず、隣人の妻やその暮らし向きの全般をも含み込んでいます。そしてそれらを欲する思いが頭をもたげてくるのは、私たちの中に自分自身の生活への満足が消え失せて、隣人の幸せへに対する羨みや妬みが生じてくる時なのです。私たちの置かれている世界は、一方ではその日一日を生き延びるために必要な食物すら十分でなく、飢えと貧困にあえぐ大多数と人々と、必要以上のモノに溢れかえっていながら、なお満ち足りることが出来ずに飽くなき欲望に突き進む少数の人々という二つの世界に引き裂かれています。私たちも満ち足りることを忘れて、いつもどこかにまだ足りない、まだ十分でない、という焦りにもにた感覚を駆り立てられて日々を過ごしているのではないでしょうか。
 私たちがむさぼりの罪、貪欲の罪、嫉妬や不平不満の罪から自由にされて生きる道は、何といっても主なる神によって与えられ、生かされている今この時の姿に満足することであり、また神が私たちとともに生きるようにと与えてくださっている隣人を愛することです。この二つは切り離すことが出来ません。私たちが自分自身のあり方に深い満足を得る時に、隣人に対しても開かれた愛の心を持って接することができるのであり、自分を自分として愛する時に、隣人を隣人として愛し、尊ぶことが出来るのです。しかしこの二つが引き裂かれていくならば、自分自身への不満はたちまち隣人への嫉妬となって燃え上がるか、自分自の暮らし向きを自慢して隣人を見下すようにさえなるのです。使徒パウロは若い伝道者テモテに次のように書き送りました。Iテモテ6章6節から8節。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」。このような人生態度を持ちうるのはいったいどのようにしてなのでしょうか。それは、根源的に私たちを満ち足らせてあまりあるほどの大いなる愛を父なる神が、御子イエス・キリストにおいて注いでいてくださるからに他なりません。主イエスはご自身をさして「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」と言われ、また「わたしがいのちのパンです、わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と言われました。このように私たちを満たしてあまりあるほどの愛を主は注いでくださった。このことをこの朝、本当に心から信じる者でありたいと思うのです。まだ何かが足りない、まだ満たされていない。そう感じている方があるならば、主なる神にしっかりと顔を向け、そこから私たちに注がれてくる大いなる神の御愛を受け取っていただきたいと思います。そこにおいてこそ、私たちは本当に朽ちることなく、渇くことのない永遠の満足を得ることができるのであり、そこから隣人との間に愛と喜びを分かち合う交わりが生まれてくるのであり、その時に私たちは、神を愛し、人を愛する者として新しく自由な歩みを始めることができるのです。

 



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