朝拝(十戒講解6) 2006/10/15
『愛と尊敬の心で』

出エジプト20:12

今日は十戒の第五の戒め、「あなたの父と母を敬え」という戒めを通して、神の御前に結ばれた家族の関係、そこから導き出される人間関係、社会の関係のあり方についてともに教えられていきたいと思います。

(1)神の御前での家族関係
主なる神がご自身の民イスラエルに対して与えられた十戒は、「二枚の石の板」と呼ばれましたが、その中身は主なる神との関わりにおいていかに私たちが生きるべきかという対神関係についての戒めと、この神の御前にあって私たちの隣人との間でいかに生きるべきかという対人関係についての戒めに分けることができるものでした。これまでご一緒に見てまいりました第一番目から第四番目の戒めがその前半部分の神との関わりについての戒めであり、今日から取り上げる第五戒から第十戒までの戒めが後半部分の人との関わりについて教えられる箇所です。しかしここでまず大切なことは、この第五戒以下の戒めを決して第一から第四までの戒めと切り離してはならないということ、単なる人間の道徳一般、倫理一般の教えとして理解してはならないということです。むしろここでもあの十戒の序文の主張は貫かれているのであり、あくまでも「あなたの神、主」であるお方、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主」であるお方の御前での人としてのあり方、人と人との関わり方が教えられているです。
そこで今日の第五戒、「あなたの父と母を敬え」ですが、ある人が、かつて自分はこの戒めは十戒の中で一番守りやすい楽な戒めであると論じてきたが、今ではそのようにいうことが難しいことに気づくようになったと語っています。何の前提もなく、これが正しいことだからということだけで親を敬え、ということを教えることが自体がさほど説得力を持たなくなっていると言えるのではないでしょうか。確かに今日では家族のあり方も多様化し、親と子の関わり方も著しい変化を遂げていますが、それに伴って、深刻な家庭内の問題もあらわになってきています。ハウスはあってもホームがない、といわれるような現状があるのです。しかしそのような中での「父と母を敬え」という戒めは、儒教的な親孝行の教えや封建的な家父長制度の教えに簡単に置き換えられてはならないでしょう。むしろここでの「敬え」との戒めは、基本的には第一戒から第四戒にかけて貫かれていた「主なる神を愛せよ」との戒めのもとにおいて理解されるべきものだからです。つまり旧約聖書が一貫して教えているのは、神を愛し、敬うゆえに、その神が与えられた父母を敬えということであり、そこにおいて私たちは親が子どもを自分の所有物と見なしたり、奴隷のようにしたり、あるいは子が親を軽んじたり、支配と被支配の関係とするような家族関係ではなく、聖書が教える家族の交わり、すなわち血のつながった互いでさえも、究極的には神の御前に恵みの契約によって結ばれた個々人であるとの認識をしっかりと持つことが必要だということなのです。そのようにして互いの存在を神の御前にあって生かされている一人の人、そして私とともに生きるようにと神が備えてくださったパートナーであり、恵みの賜物であると感謝しつつ、親が子を、子が親を互いに愛と尊敬の中で認めあうことがこの戒めに沿って生きる大切なあり方なのです。

(2)神の御前での人間関係
 この原則をさらに広げて考えるならば、第五戒は、単に家族の関係、親子の関係についての戒めということのみならず、私たちと私たちの周囲にある人々との間の関わりについての教えとして受け取ることができるものです。このことをしばしばご紹介するハイデルベルク信仰問答の第104問の助けを借りて確かめておきたいと思います。そこには次のように記されます。「問:第五戒で、神は何を望んでおられますか。答:私が私の父や母、またすべて私の上に立てられた人々に、あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けさせ忍耐すべきである、ということです。なぜなら神は彼らの手を通して、私たちを治めようとなさるからです」。この答えに明らかなように、宗教改革の時代以来、教会はこの第五の戒めを、親子関係というところから初めて、社会における「権威」との関わりについての教えとして受け取ってきました。
 上に立てられた権威を尊ぶこと。これは元をたどれば新約聖書において繰り返し語られた教えでもあります。主イエス・キリストも「神のものは神に、カイザルのものはカイザルに」と語られて、地上の政治的な権威を認められましたし、使徒パウロもローマ書13章1節で「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」とし、その結論として7節で「恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい」と勧めています。またIテモテ2章1節でも「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と教えて為政者のために祈る務めを勧めています。このように、私たちが十戒の第五戒に従って生きることは、単に家族関係、親子関係にとどまらず、広く私たちのこの世における生活、周囲の人々との関わりの中での営み、そこでの様々な人間関係とも深く結びつくものであり、とりわけ、立てられた為政者のもとにあって、その手にゆだねられた法の統治を尊重して生きる道とも繋がってくるものなのです。この点で私たちはこの国にあって一人の市民として誠実に生きることが求められているといえるでしょう。

(3)愛と尊敬の心で
 しかしその一方で、私たちがもう一つ重要な御言葉としてこの朝、この第五の戒めと併せて心に刻んでおきたいのがIペテロ2章17節の「すべての人を尊びなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい」という御言葉です。ここで特に注目しておきたいのは、「神を恐れ、王を尊べ」という言葉の順番です。先に見たように、私たちは上に立てられた権威を尊ぶものですが、しかしそれはあくまでも「神を恐れる」という絶対的で究極的な事柄に対して、相対的で究極以前の事柄であるということ、それゆえにこの順番はいかなる状況においても決して逆転するものではないということをしっかりと肝に銘じておきたいと思うのです。もし地上の権威が神を恐れることを上回り、それを退けるような仕方で自らへの尊敬や服従を求めてくるならば、私たちはそれらを断固として退けなければならない。私たちは決して国家的な権威を真の神に代わるもの、あるいは神に相並ぶものとして神格化したり、権威への服従が権威を持つ者への崇拝になることを認めることはできません。かつて天皇を現人神として崇め、神社を宗教にあらずとして偶像礼拝に突き進んでいった過去の教会の罪を繰り返してはならないのです。東欧チェコのロッホマンという神学者が十戒を解説する書物の中で、この第五の戒めは「敬愛」の教えであって「崇拝」の教えではないと注意を促しています。彼は祖国の共産主義化の中で、無神論的唯物思想を唱える共産主義が、結局は政治的指導者や国家元首に対する個人崇拝に陥ることを鋭く見て取ってこのような警告を与えました。独裁的な政治体制においては絶えずこの指導者の神格化と崇拝の強要が繰り返されてきたからです。またかつての日本の天皇制を中心とした国家観においては、国民は天皇の赤子、臣民として、家族的価値観の中に取り込まれていたのです。そのようなとらえ方の中で教会もまた天皇への崇拝を十戒の第五の戒めと結びつけ、その本来の意図から離れて受け取るということがあったのです。
 しかし、私たちはこの朝、御言葉から学びましたように、十戒は親子や家族という関係においてすら、そこにあるのは真にしてただお一人なる主なる神の御前での、このお方との交わり、このお方への礼拝に基づいた愛と尊敬の関係であって、この主なる神に対する礼拝の心は、決して他の者、それが親であろうが、王であろうが、為政者であろうが、それらの人間に対して向けられることは許されてはいないことを心に刻み、すべての人間関係をこの神の御前で作り上げていくことに誠実に励んでいきたいと思います。親を敬い、家族を尊び、周囲の人々に愛と尊敬の心を注ぎ、上に立つ権威に従い、しかもそれらの一切を主なる神の御前で果たしていくことに十分心を尽くしていきたいと思うのです。しかしひとたび、それが主なる神への愛と尊敬、服従を妨げようとするときには、断固として「否」の声を上げ、真に私たちが愛し、敬い、従うべきお方がどなたであるのかをはっきりと告白していく、そのような信仰の告白の道を全うさせていただきたいと願います。

 



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