朝拝(十戒講解5) 2006/10/01
『聖なる日常を生きる』

出エジプト20:8-11

 この朝は、「十戒」の第四の戒めである安息日の教えを通して、私たちが主にあって生きる日々の生活のありかたについてご一緒に教えられていきたいと願います。

(1)主の聖なる日 
 8節から11節。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。― それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」。この十戒の四番目の戒めは、神の民イスラエルの歴史においても、また現代のユダヤ教社会においても広く影響力を及ぼしている戒めと言えるでしょう。主イエス・キリストの時代においても、律法学者やパリサイ人との衝突の原因は、しばしばこの安息日を巡る問題でした。それだけに安息日を巡る問題はしばしば私たちを縛り付ける「律法主義」的なものの最たる実例として取り上げられることがしばしばでした。しかし、この朝私たちが学ぼうとしている戒めは、私たちを縛るためのものでなく、むしろ私たちを真の自由に生かすための戒め、神の御前に生きる人間の最も人間らしい自然な在り方を示す戒めなのです。十戒の第四戒と第五戒は、他の戒めが「〜してはならない」という命令であるのに対して、「〜せよ」という戒めです。対神関係の戒めの締めくくりとして、すなわち第一から第四までの戒めを通して、神の御前にある人間がもっともなすべき事柄の中心に位置する戒めがこの「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という戒めなのです。
 旧約聖書において「聖さ」とは、まず何よりも主なる神ご自身の御性質を表す言葉です。そして「わたしが聖であるから、あなたがたも聖なるものでなければならない」として、神の民に対して聖さが求められるのでした。また「聖」という言葉にはもともと「分離する」、「切り分ける」という意味があり、神のためにあるものを取り分けるという意味が込められています。旧約聖書の中ではもっぱらこの「聖別」ということは神に捧げられる動物や食物、土地などに対して用いられる言葉ですが、今日の箇所では「日を聖とする」と言われます。それでは日を聖別する、時を聖別するとはどういう意味なのでしょうか。それは神の御前に、あるものを取り分けることによって私たちがその聖さに与り、私たち自身が聖なるものとされ、真の命を得て、神の祝福を受けて生きていくように、時の聖別は、その時を生きる私たちが、その日、その時を神のために聖別し、捧げていくことが、その日を生きる私たちの命と祝福の時となることを意味しているのです。そしてそのことの具体的な表し方として、十戒は「七日目はあなたはどんな仕事もしてはならない」、すなわち週七日のうちの一日を休めと命じられるのです。ここには働くことと休むことという人間の営みに刻まれたリズムが示されています。七日のうちの一日を取り分けて休め、その日を主のために捧げよ、こう十戒の第四戒は私たちに命じているのでした。

(2)安息と解放の日
 安息日を聖なる日として休むこと。このことの理由を11節は次のように語ります。「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」。ここには創世記1章から2章にかけて記されている天地創造の出来事が示されていることがよく分かります。創世記2章1節から3節を見てみましょう。「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」。ここ安息の戒めが主なる神の創造の業の記念であることを教えられます。神の創造の業は、実際に天地万物が造られた六日間だけでなく、神が業を休まれた七日目を含めて完成したというのです。現代人は休むことへの罪悪感や恐れを感じているのではないかと言われます。立ち止まったら倒れてしまうのではないか。人から取り残されるのではないか。今ある生活が崩れ去るのではないか。自分が必要とされていると言うことが確かめられなくなるのではないか。そんな思いに駆られているのではないでしょうか。確かに立ち止まることにはある勇気が必要です。しかしそこで私たちは自らが「何かができる自分」のゆえにでなく「ここにある自分」として神の御前にその存在が尊ばれ、喜ばれてあるという真の現実に気がつかされていくことができるのです。
 もう一つ興味深いこととして、安息日を聖とすることの理由が、同じく十戒を記す申命記5章15節では次のように記されています。「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである」。これは明らかに出エジプトにおける神の救いと解放の記念です。このことはすでに十戒の序言でも明らかなことでした。つまりこの戒めは私たちを不自由さの中に縛り付けたり、私たちを再び奴隷の状態に逆戻りさせるのではなく、むしろ私たちに救いと解放を告げ知らせる自由への道しるべであるということなのです。私たちがお金の奴隷に逆戻りしないため、時間の奴隷に逆戻りしないため、仕事の奴隷に逆戻りしないため、そのようなあらゆる非人格的なもの、会社や学校や国家の奴隷にならないための神の御前での主体的で自由な尊厳ある生のしるしとして、この朝、この戒めを覚えておきたいと思うのです。教会の歴史においても、安息日や主の日の姿勢は教会が礼拝の自由を勝ち取っていくための大切なしるしでありました。17世紀のピューリタンといわれる人々は、当時のイギリス王政下でピューリタン弾圧を目的として日曜日がスポーツの日と定められた際にも、このことに抵抗して主の日を守ることを貫いたと言われます。「炎のランナー」という映画がありますが、礼拝を守るためにオリンピックの決勝を回避した主人公のリデル青年も、ピューリタンの信仰の持ち主でした。私たちが日曜礼拝を守ることも、このような背景から考える時に、信教の自由の大切な権利であることをあらためて確認しておきたいとも思うのです。

(3)聖なる日常を生きる
 さらに、今日の私たちにとって十戒の第三の戒めは、主イエス・キリストにあって新しい光を私たちに注いでいます。主イエス・キリストが来られて、私たちのために十字架による救いを成し遂げてくださり、さらに三日目、すなわち日曜日の朝に死者の中からよみがえってくださったことより、新約時代の礼拝は、週の初めの日を「主の日」と呼ぶ日曜礼拝へと移行したのです。ヨハネの福音書や使徒の働きは特に主イエスの復活が日曜日であったことと、復活後の顕現も日曜日に集中していること、またその後、弟子達の集まりが日曜の度ごとに行われていることを示し、初代教会の礼拝が主イエスの復活を境にして土曜日から日曜日へ移行した事実を強く印象づけています。私たちがここに集って礼拝を捧げる時、そこに安息日が担ったあの安息と解放の日の意味はさらに深められ、豊かにされるのです。それはやがて来るべき終わりの時の安息と解放の時、私たちの希望である終末と、天の御国において成就するまことの礼拝の時へと私たちを向かわせるのです。
 私たちはみことばと聖礼典によって、イエス・キリストの贖いと聖霊の保証のゆえにやがてもたらされる天上での永遠の神との交わりを先取りし、公同礼拝において天の御国の前味を味わうことが許されているのです。今ここで、永遠の神との交わりを味わう、そこに主の日の終末論的意義があるのです。私たちが聖霊により御子イエス・キリストにあって父なる神を礼拝する時、ここに御言葉と聖礼典をもって主イエス・キリストの臨在は鮮やかに示され、私たちは聖霊によって、教会のかしらにして天地万物の主なるイエス・キリストに結び合わされます。その時に私たちは、このお方の御前において人としての真にあるべき姿に回復させられるのです。このように、主日の礼拝は、やがて来たりたもう再臨の主とともに終わりの時に実現する神の国に迎えられ、朽ちることのない者とされた私たちが主とともに祝う祝宴の先取りであり、前味です。そうであるからこそ、この終末への希望に貫かれた主日の礼拝はかけがえのない「特別な日」でありながら、しかし私たちの仕事や家庭や学舎での「日常」の日々から切り離された「特別な日」ではなく、むしろは私たちの仕事や家庭や学舎での日々が真の意味での「日常」となり、その日を生きる私たちが真の人間となっていくための「聖なる日常」として、ますますその輝きを増していくに違いありません。
 一年52回の主日礼拝の歩みが、創造から終末に貫かれた神の支配される歴史の中に位置づけられてあることを知るならば、それは一回一回の礼拝が主なる神の御前に価値ある、かけがえのない捧げ物であることをあらためて教えられます。だからこそ、生かされてある今日、この時、私たちの人生で捧げうる最高の礼拝をもって主にお仕えしたいと願うのです。ヘブル書10章25節。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」。

 



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