朝拝(十戒講解4) 2006/09/24
『主の御名は聖く』

出エジプト20:7

 この朝は、「十戒」の第三の戒めである主の御名の取り扱いについての教えを通して、主の御名を聖とすることの意味についてご一緒に教えられていきたいと願います。

(1)第三戒と礼拝の心
 「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」。この戒めの言葉は、大変厳しい口調で語られている戒めですが、その一方で、私たちの日常生活の中で具体的にどのように当てはめられるのかと考えると、なかなかピンと来ないかも知れないそんな戒めではないでしょうか。特に「みだりに唱えてはならない」とあるのを見ると、うかつに主の名を口にしてはいけないとか、祈ってはいけないというように考えてしまうかも知れません。しかし、この「みだりに」という言葉は、もともとの意味では「むなしい」とか「空虚な」という意味であり、そこから軽々しく、中身の伴わない空しいことのために主の名を唱えてはならないという意味として理解することができます。このことを私たちが日々の信仰生活の中に位置付けるために、私たちはこの朝、この戒めを「礼拝」という文脈の中に位置付けておきたいと思うのです。聖書における最初の礼拝の記録は創世記4章26節にあります。「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」。主の御名によって祈ること、それが礼拝の始まりであったのです。このこととの関わりで、十戒について説き明かしたある書物の中でなるほどと教えられたことがありました。それは十戒の最初の四つの戒めが私たちに礼拝のあり方を教えているということでした。すなわち第一戒の「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」は、私たちがだれを礼拝するのかという礼拝の「対象」について、第二戒の「偶像を造ってはならない」は、私たちがどうやって礼拝するのかという礼拝の「方法」について、今日の第三戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」は、私たちがどのような心で礼拝するのかという礼拝の「心」あるいは「態度」について、そして次週学ぶ第四戒の「安息日を聖とせよ」は、私たちがいつどこで礼拝するのかという礼拝の「場」について教えているというのです。
 このように、主の御名をみだりに唱えてはならないという戒めを、礼拝における心のあり様、礼拝の態度という視点で考えるならば、そのことが身近な言葉となって聞こえてくるのではないでしょうか。ここに集ってはいても、明日からの仕事、残してきた用事、心にかかるあのことこのことで心が一杯になっていて、体はここにあっても心ここにあらずと言ったような礼拝の態度、主の御名を求めることよりも自分の願いや思いが先に立って、自分勝手に振る舞う礼拝。それらもまた十戒の第三戒が戒めている礼拝の態度であるというのです。

(2)御名をみだりに唱えてはならない
 そもそも、主なる神様がご自身の名これほどまでに厳しい要求をされるのは、それが単に呼び名の問題ではなく、そこに主なる神のご存在そのものとその聖さとが関係しているからなのでした。主なる神が御自身の名をモーセに明らかにされた時の様子が、出エジプト記3章13節、14節で次のように記されています。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたら良いのでしょうか」。すると神は答えられます。「わたしは、『わたしはある』という者である。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と」。この「わたしはある」がいわゆる「ヤハウェ」という神の名です。ここには神の永遠において存在し、しかも孤独の神としてではなく私たち被造物との交わりを持ちたもう生ける神のお姿が現れています。しかもこのお方が「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」と仰せくださっているのです。それゆえに私たちはこのお方を空しいことのために呼んだり、自分勝手な中身の伴わないことのために安易に礼拝することはできません。主イエス・キリストがマタイ福音書7章21節で「主よ、主よという者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです」と言われたように、私たちは父なる神、主なる神のみこころを求めていかなければならないのです。
 そのためにも私たちは「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」というローマ書12章2節の御言葉を心に刻むべきです。このように十戒の第三戒はまことの神への祈りと隣人への奉仕、言い換えれば礼拝と倫理との在り方を規定するものでもあるのです。このことを今、私たちが生かされているこの時代に結びつけて考えるならばどのように言うことができるでしょうか。自分たちの主義、主張の正しさを訴えるために主の御名を用いること、政治的な事柄のために主の御名を持ち出すこと。これらもまた神の名の濫用を禁じる第三戒にかかわる問題なのです。アメリカのキリスト教倫理学者であるスタンレー・ハワーワスは十戒の第三戒についての解説の中で「イラクを爆撃する前に、私たちの加護を求めて国民に祈るようにと告げたジョージ・ブッシュもまた冒涜的であった」と、1990年の湾岸戦争におけるブッシュ大統領の行動について言及しています。それから13年を経た2003年、今度はその息子のブッシュ大統領もまたこのことを繰り返し、神の名においての戦争を開始して今日に至っています。もちろんその背景には様々な政治的、経済的かけひきがあるのでしょう。私たちには分からない国際政治の複雑怪奇な世界があることも想像できます。しかしそれらをもってしてもなお私たちはこの朝、あらためてあの数千年前に人間に与えられた神の戒めを、この時代への戒めとして唱えたいと思うのです。

(3)みだりに唱えず、むしろ聖とせよ
 この戒めは単に御名の濫用を禁じるだけでなく、むしろ積極的に正しく相応しい仕方で主の御名を唱えることの大切さをも教えています。その意味で、十戒の第三戒は主イエス・キリストが教えてくださった主の祈りの第一の祈願、「御名が崇められますように」の祈りと深く結びついた言葉です。私たちをして御名が聖とされることと求める祈り。主イエスは私たち、主の弟子たちにこの祈りを教え、主の御名によって祈り、賛美し、感謝し、この御名を高らかに告白することを求めておられるのです。使徒パウロがピリピ書4章8節で語っているように、私たちは「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値すること」を心に留めつつ歩むようにと招かれています。そのようにしてこの世界のただ中にあって生きる時に、そこでは私を通してでさえ神の御名は崇められることになるのです。
 確かに、私たちが主の御名を聖とするかしないかに関わらず、主の御名はいつも聖なるものです。しかしルターは大教理問答書の中で次のように言っています。「御名はすでに前から聖いのではないか。しかり。御名はその本質においては終始神聖である。けれども、私たちの用い方で神聖でなくなるのである」。つまり私たちが神の民として生きながら、その言葉や行いにおいて神の名に相応しくない生き方をする時に、それはちょうどあの十戒で「主の名をみだりにとなえてはならない」と戒められていた御名の濫用の罪の中に陥ってしまうのだというのです。主なる神はご自身の聖であられることを、ご自身の民に対しても求められるお方です。もちろん私たちは自らの力で神の聖さに近づくことや、自分自身を聖なる者とすることはできません。むしろ神の聖さに触れた時には、私たちの罪はあらわにされ、私たちは神の御前に立ち得ることができなくなるはずです。しかしその私たちをして神の御名を聖とするようにとの祈りを主イエスは教えてくださいました。そのことが可能となるのはただ主イエス・キリストによる贖いと罪の赦しによることです。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」とパウロが語った通りです。このキリストの義と聖さが、今、聖霊によって私たちのものとされているがゆえに、私たちはこの口をもって御名が聖とされるように、と祈ることができるのです。 
 私たちは自分の栄光、自分の満足、自分の願望の実現のために神の御名を呼ぶのではなく、どこまでも神の栄光、神の満足、神の御心の実現のために、神の御名を呼び求め、その御名によって祈り、主を礼拝し、主の御心をこの地において成し遂げていくものでありたいと願います。その時に主は、私たちが主を呼ぶその声を聞いてくださり、その声に確かに答えてくださるのです。詩篇50篇15節。「苦難の日にはわたしをよび求めよ。わたしはあなたを助け出そう」。この主の御名をこの朝も、その栄光に相応しく呼び求め、心から賛美するものでありたいと願います。

 



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