朝拝(十戒講解3) 2006/09/10
『真の神礼拝』

出エジプト20:4-6

 この朝は、「十戒」の第二の戒めである偶像礼拝の禁止の教えを通して、唯一まことの神を礼拝する私達の信仰の姿勢についてご一緒に教えられていきたいと願います。

(1)偶像を造るな
 4節から6節。「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」。ここに記される十戒の第二戒はいわゆる「偶像礼拝禁止」の戒めです。先に見た第一戒において「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とお命じになられた神は、御自身の民イスラエルを救い出された救いの神であられます。それゆえに主なる神は御自身以外のものを神とすることをお許しにならず、そもそもそのような神々を神とすることはできようはずもないとおっしゃられるのです。また主なる神は天地万物の創造主なるお方であられ、御自身によって創造されたこの世界のあらゆる被造物によっては決して表現されることのない、永遠で不変で無限なるお方であられます。ですから私たちはこのお方をいかなる像をもってしても表現することはできないし、有限な線によって無限なる神を括ることはできないのです。このことは、しかし裏返してみれば、人間がいかに目に見えるものによって支配されやすい者であるか、偶像を造りそれにひざまずく者であるかを示しているとも言えるでしょう。このような姿の空しさを後に預言者イザヤが44章9節以下で実に皮肉な書き方で記しています。
 しかし、同時に覚えておかなければならないことは、この十戒の第二戒が語る戒めは、真の神以外のものを拝む偶像礼拝のことだけを指しているのではなく、むしろ第一義的には、真の神礼拝のことを指して言っていると言う事実です。真にして唯一であられる主なる神を偶像によって礼拝してはならないといことなのです。このことは、創世記32章に記されるあの金の子牛を巡る事件を考えれば明らかなことです。シナイ山の上で主なる神がモーセに十戒を授けられておられた時、イスラエルの民はモーセがなかなか山から下りてこないことに痺れを切らし、アロンのもとに来て「さあ、私たちに先立っていく神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どなったのか、私たちには分からないから」と言いました。この言葉に押し切られたアロンは民の持ち物の中から金を集めさせると、それで鋳物の子牛を造りあげ、民はこれをみて「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言ってその子牛の前に祭壇を築いて礼拝をおこなったのでした。その結果、主なる神の怒りがイスラエルに対して燃え上がったと32章7節以下に記されています。ここで注意しておきたいのは、イスラエルが神の怒りにふれたのは、彼らが主なる神を否定して、他の神として金の子牛を拝んだからではなく、むしろこの金の子牛像をもって自分たちをエジプトから連れ上った神だと言い表したからなのです。この点をハイデルベルク信仰問答によっても確かめておきたいと思います。「問95:偶像崇拝とは何ですか。答:御言葉において御自身を啓示された、唯一のまことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです」。ここで二つの言葉が重要です。「唯一まことの神に代えて」と「この方と並べて」という言葉です。私たちは少なくともこの「まことの神に代えて」他の神を拝むということを「あからさま」にはしないでしょう。しかし「この方と並べて」となるとどうでしょうか。まことの神を否定せず、しかしこの神と並べて他の神を拝む、あるいはこの主なる神への礼拝を、偶像によって行う。そういう過ちに陥ることがあり得るのです。その一つの例がカトリックや東方教会に見られる聖像崇拝の中にあることを指摘しておきたいと思います。

(2)真の礼拝、偽りの礼拝
さらに第二戒は続けます。5節。「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」。ここには徹底的な偶像による神礼拝の拒否と、その理由が教えられます。いくら、我々は他の神を拝んでいるのでなく、絵画や像を用いて主なる神を礼拝しているのだと言ったとしても、主なる神はそこに嫉妬を燃やされる。霊とまことによる礼拝が捧げられなければ、必ずその礼拝は信仰の対象から離れていくのです。かつて古代の信仰者たちは「祈りの法が、信仰の法」と語りましたが、まさしくどのようにして神を礼拝するかが、どのようにして神を信じているかを証しすることになるのです。
 しかしここで心に留めるべきことは、私たちが主なる神を目に見えるものによって礼拝することをしないということが、主なる神を何か抽象的な精神的な存在として信じるということにつながるものではない、ということです。聖書がはっきりと啓示される私たちの主なる神は、決して抽象的で精神的な存在ではなく、この世界と歴史の中にご自身を啓示され、ご自身の民と関わり、そこに嫉妬の思いを抱くほどに愛を傾けられる生ける神であられるのです。ですから偶像礼拝の禁止の戒めは、翻って言えば、私たちが生けるまことの神の生き生きとしたお姿を具体的にどこに求めているのかをどこに求めるのかを問うているものなのです。一体私たちは生ける神をどこに探すのか。どんなに美しくとも物言わぬ平面的な絵画の中にか、今にも動き出しそうな躍動感に溢れながらも、しかしそこに血の通ったいのちのない立体的な像の中にか。決してそうではありません。主イエス・キリスト御自身が「わたしを見た者は父を見たのです」と言われたように、主イエス・キリストにおいてのみ、生ける神がそのかたちをもって現れる。神を見たければ、イエス・キリストを見よ、ということなのです。しかもそれは絵画や彫像のキリストではない。では今、私たちは天におられるキリストをどのようにして見るのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答によれば、「この方は御自分の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです」とあります。今、この時代、主イエス・キリストは御言葉の生きた説教によってご自身を鮮やかに示してくださるというのです。これは福音の説教を考える上で非常に重要なことです。神の御言葉が語られる時、そこにキリストの生き生きとした臨在が証しされる。聖礼典、特に主の晩餐も「見える御言葉」と言われる点で同様です。そこにキリストの臨在が証しされることが何よりの礼拝の中心であり、そこにおいて真の神礼拝が成り立つということができるのです。
 この真の神礼拝の自由ということを考えておきたいと思います。5節の「仕えてはならない」はもとの言葉では受け身の形が用いられており、直訳では「仕えさせられてはならない」ということです。この真の神礼拝の自由を離れて、他の神々、あるいは偶像に仕えさせられてはならない。礼拝の自由はどこまでも守られ、保たれなければならない。このことは今の時代を生きる日本の教会が改めて心しなければならない重要な一点であると申し上げておきたいと思います。

(3)モーセの教会、アロンの教会
最後に、シナイ山でモーセが十戒を受け取っているその最中に、山の麓で金の子牛の前で戯れたアロンとイスラエルの民の姿から学んでおきたいと思います。それは十戒の第二戒の問題が、今日の教会の礼拝と無関係ではないことを覚えるためでもあります。教会もまた、御言葉において示されたキリストから目を離し、他のものを追い求め始める時、偶像礼拝に走ることがある。このことを自戒を込めて考えておきたいと思うのです。このことについて、戦時中のナチ・ドイツで信仰告白のために戦い、殉教した若き神学者ボンヘッファーが1933年5月、弱冠27歳の時に語った『モーセの教会とアロンの教会』という説教の中で「彼らはモーセを待てなかった」と指摘し、待てない教会の罪を鋭く問いかけています。その一節をご紹介します。「待つことをしないこの世の教会として。見えないものによって生きようとはしないこの世の教会として。自分自身で自分たちの神を作る教会として。自分たちの気に入るような神を持とうとして、どうしたら神に喜ばれるかを問おうとはしない教会として。神のなし給わないことを自分でしようとする教会として。・・・このような教会として、我々は繰り返し繰り返し礼拝に集まってくる。そしてその偶像が粉々に砕かれて、地面に散らされる教会として、わたしはあなたの神、主であるという言葉を、改めて聞かねばならない教会として、この神の言葉に打たれて砕ける教会として、モーセの教会、御言葉の教会として我々は再び散会していくべきであろう。性急な教会から静かに待つ教会になり、激しく騒ぎ立ててみようとする教会から、冷静で真剣な信仰の教会になり、自己偶像化の教会から、唯一の神を拝する教会になる」。
私たちはまことに生けるキリストの御言葉を通して主なる神を礼拝し、その御言葉に聞き従う教会として、主がお語りくださる言葉をひたすらに待ち望み、「しもべは聞いております。主よお語りください」と今朝も主の御言葉の前に心開く群れでありたいと切に願います。その時に、主は御自身の恵みとまことに満ちたお姿をこの礼拝において鮮やかに示してくださり、私たちのこの礼拝を真の神礼拝として受け入れてくださるのです。私たちの拝し、崇めまつるお方は、私たちを救ってくださる主なる神、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には恵みを千代にまで施してくださる愛と恵みの神であられます。この神を待ち望みつつ、主の日の度ごとに真摯に神の生ける御言葉の説教に聞き、聖礼典に与ることによってあたかも
主なる神を目の当たりに見るかのようにして、この神の臨在の前に進み出ていきたいと願うものです。



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