朝拝(十戒講解2) 2006 /09/03
『唯一の神を信じる』

出エジプト20:3

 この朝から、「十戒」の一つ一つの戒めの中へと分け入っていくことになりますが、まずは十戒の中でそのはじめにしてもっとも基本となるべき第一の戒めを通して、ただ一人の神を信じる私たちの信仰の土台についてご一緒に教えられていきたいと願います。

(1)神は唯一である
 3節。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」。この第一の戒めは、単に順番として最初に置かれているということのみならず、十戒の全体を貫く基本的な姿勢を定めている第一の戒めというべきものです。そしてそれは十戒の内側にとどまらず、実は旧約聖書全体を貫き、ひいてはキリスト教信仰の全体を貫く最も重要な戒めということができるのです。その意味で、この戒めは私たちの信仰の原理原則と言ってもよいでしょう。しかし同時に、この戒めはすでに前回ご一緒に学んだように、これだけを取り出して抽象的な原理として掲げてしまってはならないものです。むしろ私たちはこれを2節に記された十戒の序言、すなわち「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」という、歴史の中で実際に生きて働かれ、力を奮い、御自身の民イスラエルを救ってくださった主なる神の具体的で生々しい言葉として、これと決して切り離すことをせず、あくまでもこの神、イスラエルを救われた契約の神、主の言葉として聞くということに徹底的にこだわるということなのです。
 この「わたしのほかに」という言葉は、他の日本語訳聖書では「わたしをおいてほかに」とも訳されていますが、直訳では「わたしの顔の前に」という表現で、意味するところとしては「わたしと並べて」とか「わたしに向かって」とも訳することのできる言葉です。この言葉の意味の解釈を巡っては古くから二つの考え方がありました。一つは「わたしのほかに」とは、他の神々の存在そのものを否定している言葉とする考え方、今一つには、「わたしと並べて」、「わたしを差し置いて」として、他の神々の存在は認めつつも、それらへの礼拝を否定している言葉とする考え方です。ここから、この第一戒に基づいて、聖書の神信仰は他の神々の存在を一切認めず、主なる神、ヤハウェの神のみを認めるいわゆる「唯一神教」であるという主張や、いや聖書の信仰は他の神々の存在を否定しておらず、むしろ他の神を拝むことなく、それと並べて主なる神を拝むことを禁じる「拝一神教」であるという主張などが多く論じられてきました。そこで私たちはこの二つに一つをとるということでなく、聖書の教える原理原則の面と、それに基づく実際的な面の両面を見極めることが必要と思います。特にこの点は、異教的な様々な宗教に囲まれて生きる私たちにとって極めて具体的な問題でもあるからです。原理的に「この方以外に神はない」という信仰に立っても、現実には世界には数多くの諸宗教があり、それらを真剣に拝み、それに帰依する人々があります。私たちもまた八百万の神々に囲まれてこの国で生きているわけで、それらを原理的に否定してもそれで現実の問題が解決するわけではない。様々な形で異教の偶像礼拝と結びついた事柄が私たちの生活の隅々にまで根を張っており、そこで私たちが「これらは偶像礼拝である」とすべて切って捨てることはある意味では簡単なことですが、それによってもともと偶像の神は存在しないのだから、それらを拝むような行為をしても単なるポーズにしか過ぎないというような、かつての戦前の日本の教会が「神社参拝は宗教にあらず」といったような誤った理解を生み出すことになりかねません。むしろ私たちはこの戒めを徹底的に原理原則として握りながら、同時に徹底的に現実的にとらえていくことが必要なのです。

(2)神を唯一とする
 そこでこの二つの面をしっかりと捕らえつつ、この第一戒の戒めに生きることを考えていきたいと思います。まず原理的な面から言えば、私たちが神をただ一人とするか、否かに関わりなく、神は唯一であるということがはっきりと信じられ、告白されなければなりません。十戒は出エジプト記20章だけでなく、申命記5章にも記されていますが、それに続く6章にはあの有名な信仰告白の言葉が記されています。申命記6章4節。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神、主はただひとりである」。しかし一方で旧約のイスラエルの民がこの信仰を繰り返し告白しなければならなかった現実として、実際に彼らは異教の地を旅しながら偶像の神々に囲まれて生活し、またそれらの「神々」だけでなく、偶像になりうるあらゆるものに囲まれて生活していました。そこでは金の子牛だけでなく、肉鍋とパンすら偶像になりうるという状況があったのです。確かに私たちの周りにも現実として他の宗教は存在し、他の神々が崇められており、そして人間はそれら偶像の神々の前にかしずき、神ならぬものを神として崇めているのです。
 しかし聖書の揺るがない信仰の核心は、しかしそれらは断じて神ではない。まことの神はただお一人であるという神存在の事実に基づく信仰の告白です。しかも十戒はこの主張を単に原理的にだけでなく実際的にも貫いていくのであり、それを支えているのが十戒の序言である2節。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」という御言葉です。この唯一の神が御自身の民を救って下さった。だからこそ、このお方以外を神としてはならない。つまり神を唯一とすることを支えるのは御自身の民を愛してやまないこの神との愛の関係なのだということです。キリスト教信仰は排他的と言われることがありますが、これは愛の関係を捉えれば当然のことと言えるでしょう。愛は排他的であり、時に独占的なものです。その愛が真実であり、またその愛が犠牲をともなうほどの生々しい愛であればあるほど、その愛は純粋な愛の応答を求めるのであり、他と並ぶような中途半端な応答では満足されないのです。ですから先ほどの申命記6章4節の告白には、次の命令が続くのでした。申命記6章5節。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。
 この十戒の第一戒に込められた神と私たちとの愛の関係をもっとも端的に表現したのは、宗教改革者ルターが記した子どものための教理問答です。ルターは十戒の第一戒の意味を子どもが問いかけるのに対する答えとして、こう記します。「私たちはどんなものよりも、神さまを畏れ、愛し、信頼するのだよ」。この答えは、単に第一戒の答えだけでなく、このあと第十戒までのすべての戒めに対する答えにおいて繰り返されています。つまり十戒の精神を貫くものは、私たちを愛し、恵み、救ってくださる主なる神に応答して「神を畏れ、愛し、信頼する」ことだということなのです。

(3)唯一の神を信じる
 かつて、エジプトの地で奴隷の身であった御自身の民イスラエルをエジプトから救い出された主なる神、それゆえに御自身にのみ愛と感謝と信頼と礼拝を求められる唯一の神と、その神によって救われ、この神のみを神とする信仰の告白に生きるイスラエルの民との関係は、今日の私たちにどのような関わりの意味を与えるのかを最後に受け取っておきたいと思います。かつてイスラエルを救い出された主なる神は、やがてその救いのご計画の成就として私たちのためにただお一人の救い主イエス・キリストをお遣わしくださり、罪の奴隷であった私たちをイエス・キリストの十字架によって贖い出してくださいました。私たちはこの御子イエス・キリストによって罪の奴隷状態からの解放と、まことの救いを今、いただくことができるようにされました。それゆえにパウロがIテモテ6章5節で「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」と語っているように、私たちが十戒の第一戒にしたがって主なる神を唯一のお方と信じ、告白し、この戒めに生きることは、私たちのただ一人の救い主にして唯一の仲保者なるイエス・キリストにあって生きることの感謝と服従とに繋がるものなのであり、私たちを罪の中から救い出してくださった救いの神、主イエス・キリストの父なる神への応答であり、告白としての意味を持つものなのです。
 モーセに十戒が与えられた出エジプトの時代、神の民はパロを神と崇めるエジプトの宗教の中を歩み続けました。この出来事を繰り返し聞かなければならなかった申命記の時代、神の民は地に実りを与え、繁栄を与えるとされたバアルの宗教に取り囲まれていました。預言者の時代も然り、捕囚の時代も然りです。やがてローマ帝国の時代、神の民は唯一是絶対の存在として己れを神と、礼拝を要求する皇帝崇拝の宗教との戦いの中にありました。その後も、かつてのナチス・ドイツにおけるサタン的な国家主義において然り、そして天皇を神として崇めていった日本も然りです。そんな中で私たち日本の教会は、神社は宗教にあらずとして第一戒を自ら侵していったという罪の過去を背負っているのです。そして今、改めて私たちはこの戒めの前に立たせられています。この戒めへの応答を求められています。私たちがこの戒めに従って立ち、応答し、歩むことのできる地平はどこに開かれているのでしょうか。私たちはこれをただ単なる命令としてのみ聞くことをしません。むしろそれは命令以上のものであることをこの朝、しっかりと心に刻みたいのです。私たちはこのお方以外を神として崇めることはできない。それは命じられているから、ということにとどまらない。なぜなら、イエス・キリストの十字架による贖いを通して現された神の愛によって、すでにその大いなる愛をもって愛された者は、この愛を傾けたもう生けるまことの主なる神以外のいかなるものをも愛することも、礼拝することもできないはずだからです。それゆえに、十戒の第一戒、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」という戒めは、主なる神の大いなるご命令であるとともに、「あなたを愛し、あなたを救ったこのわたし以外を神とすることができようはずがない」という神の愛に基づく断言であり、それゆえにこそ同時に「わたしのみを神として畏れ、愛し、信頼せよ」という要求なのです。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.